373 ヒュドラドレイクの分体1
セニアたちが第6階層へと足を踏み入れる直前。
そのころ、アスロック王国の王都アズルでは、シェルダンら特務分隊の面々が、マクイーン公爵邸の裏口を望める位置にまで辿り着いていた。
全体にくすんだアスロック王国の中にあって、不似合いなほどに壮麗で汚れのない屋敷を、シェルダンは忌々しい思いで見上げる。
(まったく、ヒュドラドレイク自体は毒まみれで、あれだけ醜く悍ましかったというのに)
シェルダンとしては腹立たしいのだった。
馬車に馬を括り付けようと奮闘している小男が見える。馬が怯えて棹立ちになるため、上手くいっていない。馬車の前には死んだ馬も転がっていた。
なぜ死んだのか。巻き添えにでもなったのだろう。
(見つけた)
思った時にはもう、シェルダンは地面に発煙筒を置いて、起動させていた。赤い煙が立ち昇る。
(これで、俺たちがしくじってもアンス侯爵が上手くやる)
敵に一欠片の希望も残しはしない。
「ヤツは馬車で逃げようとしていた。アイシラ様はそこを捉えて、ミリアの仇を返そうとして」
鎮痛な面持ちでアンセルスが言う。何かを悼むかのように頭に巻いていたバンダナを外し、胸に掻き抱いていた。
ヒュドラドレイクの分体、その本性をあらわにした魔物に消し飛ばされたのだろう。
アイシラ男爵令嬢。王太子エヴァンズの愛人として、名前だけは聞いているが、誰だかはよく知らない相手ではある。シェルダンとしてはただ頷くしかなかった。
だが、そのよくわからないアイシラのおかげで、ヒュドラドレイクは本性を表す羽目になり、自分に捕捉されたのである。
(だが、エヴァンズ殿下と国王陛下を誤認した時間が余分だった)
ほぞを噛む思いだ。
重要なのは魔塔の外と中で時間を合わせること。
「貴様、アイシラの、手下。そうか、ドレシア帝国の兵士を連れてきたか。だが、無駄だ」
こちらを数人と見て取って、マクイーン公爵、いやヒュドラドレイクの分体が本性をあらわした。
小柄な身体が膨れ上がり、合計10本もの頭を持つ黒い竜となる。体高は5ケルド(約10メートル)はあるだろうか。
翼がない。つまり、飛んで逃げられることもないのだ。
シェルダンが危惧しているのはこの期に及んで逃げられることだけである。
「な、なんだ、あの化け物は」
デレクが鎧のうちからくぐもった声で呻く。それでも棒付き棘付き鉄球を構える。
「あんたは下がってろ。アイシラとかいうの、知ってるのはもうあんたぐらいだろ」
シェルダンはアンセルスに向かって告げた。
誰であれ、死者を悼む人間、一人ぐらいは残すべきなのだ。
アンセルスもシェルダンの気遣いに気づいたようだ。無言で頷き、駆け去っていった。
「竜、しかし、なんと、おぞましい」
月光銀の片刃剣を手にしたメイスンが言う。
「た、たた、隊長、あ、あれが?」
腰を抜かすのもこらえて、ガードナーが言う。
屋外の開けた場所では、出会い頭に魔術、というわけにもいかない。
「ヒュドラドレイクの分体だ。奴の魔核が存在している限り、最古の魔塔にいるヒュドラドレイクも再生を続ける」
レナートが勝てなかった理由。
魔塔の外にも核があったためだ。あのときの一撃は核を完全に消し飛ばせたわけではなかったということになる。
「かつて、アスロック王国の前身である国も、ドレシア帝国の前身である国も、似たような魔塔の主のせいで滅びた」
シェルダンは静かに告げつつ、ポーチから鉄球を取り出して鎖と結着させた。
もう、逃げる必要はない。もう少しで自分は手が届くのだ。デレク始め特務分隊の面々も後に続いてくれる。
「うちは、どっちの国よりも歴史が古いからな。そして滅びたときの記録も、次の国が興ってからの記録も残っている」
レナートの死後、とにかくひたすら、核を滅せられてなお復活した魔物の記録を探した。数百年分を遡ってやっと、再生した理由と、そのときに勝てた理由を見つけたのだが。
「連中は為政者の喉元深くにまで潜り込み、悪政をやらせて、瘴気を増やそうと暗躍する」
自分にとって泣き所は一介の軽装歩兵に過ぎないということ。身近に高位の政治家もおらず、誰が分体だかを突き止めづらかった。また、もし見つけても低い身分ゆえ、手出しが出来なかったのだ。
「だが、ついに見つけた。届いたぞ。俺がやつを始末する。レナート様の仇を討つ。ついにその機会が」
一度は諦めた。
少なくとも自分の手で黒幕、分体を殺すことは。
今頃は魔塔の中でゴドヴァンとルフィナが本体を倒している。外では自分が分体を始末するのだ。
「これはレナート様の怨念返しだ」
知らず、シェルダンもルフィナと同じことを言うのだった。
自然、足が速まる。
軽く鉄の杖で額を小突かれた。
「そういうのは、命を縮めるぜ」
強張った笑みを浮かべてラッドが言う。視線はヒュドラドレイクの分体に向けたままだ。
シェルダンは口を開き、言葉を発しかけて、やめた。言い返すべき言葉もない。
確かにそのとおりだ。
立ち止まり、敵を見据えて息を一つ吐く。
「そうだな、メイスン、進みながらオーラをかけ直してくれ。分体とはいえ瘴気ぐらいは吐くし。どうせ火も吹いてくる」
シェルダンは我に返ると指示を飛ばす。
「了解」
ニヤリと好戦的な笑みを浮かべ、メイスンが法力を漲らせる。一人ずつにオーラをかけていく。
「デレクは一番前、前衛だ。ラッドは怪我するやつがいたら救護。ガードナーもどんどん、雷を、魔術を叩き込め」
シェルダンが指示を飛ばす間に、ラッドがデレクに対炎魔術の防御障壁をかけていた。
「私は?」
デレクと並んで強力な前衛であるメイスンが尋ねてくる。
もう彼我の距離は近い。
「俺が合図するまで、デレクの少し後ろだ。隙が出来たら痛打を浴びせろ。具体的には首の一本でも落としてやれ」
シェルダンは更に言う。
「核を砕けるのはお前だけだ。先頭には立たせられん。勝つためには、な」
メイスンが頷く。
魔塔の外でも魔核を砕ける人間がいる、というのも大きい。
デレク、ガードナー、ラッドも了解したようだ。
今度はしっかりと隊列を組んで、シェルダンはヒュドラドレイクの元へと向かう。
毒の炎が届くかどうかというところで、睨み合った。
セニア達との刻限。
一度、双方の魔核がこの世に存在しない、という状況を作ることが出来れば勝てる。完全に滅することが出来るのだという。
(こんな、難解な手順。かつては予言者か超能力者でもないと分からなかったろうに)
シェルダンは敵を見据えて思う。
見れば見るほど悍ましく醜い姿だ。
「なぜ人間に化けられるのか。どうやって、最上階から出てくるのか。細かいところは俺にも分からん」
誰にともなくシェルダンは告げる。
自分にもわからないことはいくらでもあるのだった。
「だが、本来、存在しないはずの第6階層、それを作るときに外へ出る分体も生んでいるんじゃないかと、俺は思うが」
正直、知る由もないことなのであった。
分隊員たちが戸惑った顔をする。
(べらべらと埒もないことを言ってしまったな)
シェルダンは自嘲する。宥められてなお、昂っているのだ。
「驚いたな」
しゃがれて、不愉快な声が響く。何人もの老人が同時に話したかのような声だ。
「わしを、狙い撃ちにしようとしていた人間がいるとはな」
ヒュドラドレイクの声だ。他に考えようもない。
(あぁ、こいつ、喋れるのか)
シェルダンは驚いたのはこっちの方だ、と、思うのであった。




