362 幻術士の最後
ドレシア帝国軍が城壁を破り各所に侵攻してきた。
王都アズルの市民たちはただ家に引きこもり息を潜めている。ドレシア帝国軍の兵士たちも一般市民には見向きもしない。一般人の巻き沿いになるような乱戦にすらなっていない、ということでもあった。
(本当に、この国はズタボロ)
アイシラは侵攻の喧騒に紛れつつも、堂々と貴族街の通りを抜けて、マクイーン公爵の邸宅へと向かっている。
(珍しく動揺していたわね)
アイシラは私兵や自分を特段の根拠もなく怒鳴りつけてきたマクイーン公爵の姿を思い返していた。
いつも泰然として、人間らしさの欠片も見せてこなかったマクイーン公爵。初めて感情らしきものを見せている。
声を荒らげて、最古の魔塔攻略の情勢を、城壁が崩される前には知りたがっていた。なぜ我が身に迫る脅威より、魔塔を気にするのかは分からないが。
(もう、どうでもいい。本当に)
道を一人で歩くものの、アイシラにはアンセルスがまだいる。ぎりぎりまで情報は入ってきてもいたのだが。そのアンセルスも現在は距離を置いて見守っていた。本人は隠れているつもりなのかもしれないが、容易く気付いてしまう。
(止めても止まらないと、そして、ならば、せめて最後まで見届けてくれようというのね。ありがとう)
アンセルスやミリアのことについては、温かい気持ちが自然とこみ上げてくるのだった。
既に聖騎士セニアを含めたドレシア帝国軍が魔塔へ侵入してから、かなりの日数が経っている。敗走してくる様子もないので内部の制圧は順調ではないか、とのこと。
情報はアンセルスがくれた。もし生きていれば、ミリアが自分の身体や命を守ってくれるはずであったというのに。
(ううん、そもそもミリアが生きていれば、私も違う道を選んでいた)
許すわけにはいかない、マクイーン公爵の無茶な注文。
拒めない自分のために死ぬしかなかったのがミリアだった。
これはミリアの怨念返しだ。
「それに永く、私の人生を縛りつけてきた。私を、こんな現実に」
アイシラは恨みを込めて呟く。
もう家族も無事に脱出して、この国にはいない。アスロック王国の力も、マクイーン公爵の力も落ち込む一方なのであった。
途中、ドレシア帝国の兵士と鉢合わせてしまう。
琥珀色の目から魔力の光が漏れ出す。
目のあった兵士から順に、幻術をかけていく。
「あっちだ!敵がいるぞっ!」
遠くに敵兵がいる幻を見せて、あらぬ方向へと走らせてやった。
自分に手を出させないということであれば、たとえ精強な兵士が相手でも、いくらでも、やりようはある。
(さて、と)
邪魔者は消えた。
いよいよマクイーン公爵の屋敷に至ったアイシラ。くたびれた王都アズルの中にあって、異様なほど、綺麗に見た目よく整えられた建造物だ。
(でも、いつもとは違う)
いつになく、慌ただしい様子のマクイーン公爵邸。
中から発せられる気配と、裏口側から伝わってくる気配と。
王都アズルを落ち延びて逃げようとしているのだ。見苦しい生への執着である。
裏口の方に馬車を手配して屋敷から逃亡し、戦火がおさまるまでは身を潜めるつもりらしい。
「逃がすわけ、ないじゃないの」
呟いてアイシラは守衛のいる詰め所へと向かう。
守衛まで逃がす余力が、今のマクイーン公爵にあるわけもない。
「待て、止まれ。アイシラ男爵令嬢」
屈強な肉体を持つ守衛の、一人が立ち塞がろうとする。
どうせ『誰も通すな』ぐらいのことを言われているのだろう。
「馬鹿馬鹿しい」
アイシラは再び目から魔力を放出して、相手の目を通じて頭の中にまで浸透させる。
「ぐあっ、なんだ、貴様らはっ!」
守衛が剣を振り回して。まだ中に控えている数名を斬り倒した。彼の目には、何人ものドレシア帝国兵士が殺到している場面が見えたはずだ。
「私を止めたいのなら、あらかじめ、もっと殺すために備えをしておきなさいな」
アイシラは呟き、守衛の詰め所を素通りして、正門へと向かう。そのまま止まることなく扉を開けて、屋敷の中へと至る。
立ちふさがる者にはことごとく幻影を見せては混乱させ、アイシラは進んでいく。
懐には短剣を一振り、忍ばせていた。
(私の細腕でも、あの小男なら)
幻を見ている間に刺し殺す。
その後、アイシラ自身が生き延びられるかは微妙なところだ。
死の間際、正気に戻ったマクイーン公爵に差し違いで殺されるかもしれない。あるいは近くに別の者がいて正気に戻ってしまうと、あえなく、討たれてしまう懸念もあった。が、やはり容易く殺すことは出来て、生き延びられる可能性も高い。
そうすると、生き延びた後はどうするのか。
(あるいはエヴァンズ王子と一緒になって、国を乱した者の一人として。ドレシア帝国側に処断されるかもしれない)
アイシラは思い、薄く笑った。幻術の結果なので、それは別に構わない。
今頃、婚約者のエヴァンズ王子はどうしているのだろうか。チラリと考える。欺瞞に満ちた自分を本気で愛してしまった、哀れな男だ。
「2人して生き延びられたら、私が殿下を幻で助けて、落ち延びるというのも良いかもしれないわね」
アイシラは声に出して呟いた。なんとなく先を考えることが力を与えてくれそうな気がする。
応接室に書斎、客室のある区画を抜けて、アイシラは台所の方へと入っていく。どこにいるのか。マクイーン公爵本人を探して回る。
調理をしている気配などない。台所を抜けて裏口から外へと出る。さらに裏門を抜けると、馬車に乗り込もうとしているマクイーン公爵の姿があった。
「アイシラか。もう、とっくに、逃げた、と思っていたが」
馬車に乗り込もうとしていたマクイーン公爵が自分に気付いた。
返事の代わりに周りにいた兵士たち十名を、アイシラは幻術で、同士討ちにさせた。
お互いの顔を、マクイーン公爵を暗殺しようとしている、ドレシア帝国軍の兵士だと誤認させたのであった。
「見事なものだ。それだけの幻術があれば、たやすくこの王都からも落ち延びられるだろう」
まるで他人事のように、くずおれた兵士たちを見下ろし、マクイーン公爵がアイシラの幻術を評価した。
「そんなつもりはありません」
アイシラは、全力でマクイーン公爵に幻影を見せにかかる。琥珀色の瞳が妖しく輝いているだろう。自分でも鏡で見たことがあった。幻術のことは何でも確認しないと気が済まない。
(ドレシア帝国の兵士が攻めてくる。何十人も何百人も何千人も小さなあなたなんて、簡単に、たやすく踏み潰されるのよ)
呪詛の気持ちを籠めて、アイシラは思うのだった。
「あなたのせいでミリアが死んだ」
告げて一歩、アイシラはマクイーン公爵に歩み寄る。
マクイーン公爵、立ち竦んでいるように見えた。
「私が、この幻術で助けた、大切な人間の1人」
アイシラはミリアの死を知らされてからしばらく考え続けていた。ミリアへの感情がなんなのか突き詰めたかったからだ。
友情ではないか、と今は結論づけている。ミリアだけは友人だった。だから命を投げ打つような戦いにまで赴いてくれたのだ。自分も同じことが出来るし、現に行っている。
「実際に、誰かが死ぬまで私はあなたを恨むつもりはなかった」
さらに一歩、二歩と近づきながらアイシラは告げる。
聞こえているわけもない。
マクイーン公爵がいま、見聞きしているのはアイシラの作った幻覚だけなのだから。
「あなたは私に実害を与えた」
アイシラは短剣を振りかぶった。
「それがミリアの命。私の友人の命だった」
右腕を振り下ろしてマクイーン公爵の左肩付近に突き立てる。
そのはずだった。
どうやら短剣を刺したのが人間の肩ではない。
マクイーン公爵の身体が膨らんだ。
思った瞬間にはもう、自分の身体は仰向けに倒れている。
間違いのない痛みの感覚が全身から伝えられてきた。何だというのだ。
「相手が悪かったな。わしに、幻術はきかん」
無数の竜頭が自分を見下ろして告げる。さっきまで眼前にいたのはマクイーン公爵のはずだったというのに。
今、目の前には多頭の竜がいる。黒い濡れたような鱗。
赤い口が開く。赤いのは口ではなく、炎だとアイシラは遅れて気付く。赤い炎が毒々しい黒を帯びる。
黒い炎が間違いなく迫ってきていた。熱気が空気を震わせている。
「わしはこの国を逃れる。決してわしは滅びんのだ」
何人ものマクイーン公爵が喋っているかのような声が告げる。
そして黒い炎が自分を呑み込んだ。
最後に視界の隅で誰かが逃げ去るのを見た気がする。
アンセルスだ、とアイシラは思い、息絶えるのであった。




