321 形ばかりの王国
ミルロ地方の魔塔が崩れた。
王太子エヴァンズへの注進を、エヴァンズ本人の執務室にて婚約者アイシラは耳に入れる。まだ一応、エヴァンズも生かしてはおいていて、自分はまだ、その婚約者なのだった。
そして、もう数少なくなってはいても、未だに報告をきちんとあげてくれる者がいることにアイシラは驚き、国家というもののしぶとさを感じる。
(もっとも、マクイーン公爵はもうとっくに知っているのでしょうけどね)
アイシラは皮肉な思いを抱く。
もうアスロック王国そのものよりも、マクイーン公爵個人のほうが圧倒的に大きな力を持っている。
(でも、それはマクイーン公爵の力が増したからではなくて、アスロック王国が力を失ったからなのよね)
私兵たちを使って、一応、城壁の守備をさせる、と言っていた。時間を稼ぐのだ、とも。
(本当に怖い相手。それに比べてこの人は)
未だ得体の知れないマクイーン公爵とは対照的に、ポカンと口を開けて天井を見つめて椅子に座っている王太子エヴァンズを見て、アイシラは思う。
正気を失いつつも命までは失っていない。だが、正常な思考がどこまで出来るのか、という状態だ。1日に数分から数時間、我に返ることもあるのだが。
おかげで幻術を浴びせすぎるとこうなるのだ、とアイシラには分かった。
(アスロック王国が滅びることとなるのは、聖騎士セニアを失ったから?国王が人知れず死んで舵取りを失ったから?それとも?この人があまりに愚かだからなのかしら?)
もう王都アズルとその近郊。更には最古の魔塔周辺ぐらいにしか、アスロック王国の領土は残っていない。いずれ、ドレシア帝国が攻め寄せてきた、としても守りようのない、国土であった。
1日の大半を抜け殻のようになって、ただ椅子に座っているだけの王太子エヴァンズ。
食事や水や、用便に入浴などの世話はすべてアイシラが焼いている。かつて幻術のため、婚約者となる前に侍女に混ざって覚えたのだ。
(まだ、死なせるわけにはいかないらしいのよね)
マクイーン公爵の言葉をアイシラは思い出す。
いざ、ドレシア帝国が王都を攻めて、制圧した後に役立つのだそうだ。
国王を誅して、自らの支配を確立しようとして国を乱した張本人として、ドレシア帝国に首を差し出すつもりだと言う。ある種の生贄なのだった。そして、マクイーン公爵本人は、のうのうと生きながらえるつもりだ、とも。
(少なからず、この人のせいであるのは間違いないけどね)
アイシラが王太子エヴァンズに向けるのは憐れみなのだった。
愚かにも聖騎士セニアを妬み、醜い心のままに糾弾し、処刑しようとした。そして残してはならない魔塔を残そうとして、国民に負担を強いて振り回したのだ。
(でも、私やマクイーン公爵には?なんの責任も無いのかしら?)
エヴァンズらの愚かさ、過ちを利用した。
たとえ利用される程度の器しかエヴァンズに無かったのだとしても。自分やマクイーン公爵の罪が消えるわけもない。
エヴァンズらが醜悪なのだとしたら、自分たちは邪悪であった。
「あわれな人」
口に出してアイシラは呟く。
エヴァンズが自分の方を向いた。
散々、幻術で惑わして、正気を失わせてもなお、アイシラの声にだけは反応するのだ。
「それでも、私に向ける気持ちは本物だったのね」
王太子エヴァンズが頷く。
こんな機能を幻術に付与した覚えはない。つまり自発的に頷いたのだ。
なまじ、幻術への技量に自身のあるだけに、アイシラは気付いてしまったのだった。
エヴァンズが自分に向けていた愛情だけは幻ではなく、紛うことなき現実だったのだ、と。
真に残すべきだった婚約者の聖騎士に、盟友に、国に、正気、とあらゆるものを失ってきたエヴァンズ。最後にどうしようもなく残ったのが、裏で暗躍してその全てを失わせた、自分への愛である。
(もう、笑うしかないわね、この人には)
さすがのアイシラも苦笑してしまう。
一途に気持ちを向けられてなお、自分に残っているものは、エヴァンズへの気持ちではないのだから。
「アイシラ様」
禿頭の商人アンセルスが執務室に入ってきた。特徴的な頭をもう隠そうともしない。
感情のこもらない瞳でアンセルスが抜け殻となったエヴァンズを一瞥する。
かつて処刑されかけたことがあった。立場が逆転してなお、アンセルスが何を思うのか。つかの間、アイシラは想像してみる。
ミリアを失ってから、信用できるのはアンセルスぐらいしかいない。
(ミリア)
無駄死にさせられた大切な仲間だった。自分の幻術で初めて幸せになるはずだった、友人、同志になれたかもしれない女性である。
「いよいよ、ドレシア帝国も動くようです。第1ファルマー軍団がこの王都アズルへ迫るかと」
ただの商人でありながら、情勢まで調べて教えてくれるアンセルスだ。ミリアとはまた違う種類の人種であり、仲間でもある。
アイシラは地形を思い浮かべた。
王都アズルの北西に立つのが最古の魔塔だ。いかに弱体化したとはいえ、王都とその軍を無視して、最古の魔塔攻略には着手できないのだろう。
「そう、ね。私もそうなると思う」
アイシラはゆっくりと頷く。いずれ、王都アズルが包囲されることとなる。
結局、自分が魔塔へ上る機会はなさそうだ。
(1度くらいは、見てみたかったのだけどね)
幻術の幅を広げるため、魔塔を経験してみたい、と思った時期もあった。
魔塔に限らず、世界で広く、見聞を広めてみたい。自分にとっての夢のようなものだ。
「アイシラ様、あなたはまだお若い」
真摯な眼差しでアンセルスが言う。
自身の胸のうちを読まれてしまったのかもしれない。
実父よりも父のような気遣いをアンセルスも時折見せてくれる。
(もっと早く、ミリアともアンセルスとも出会っていて、この国がこんなんじゃなかったら)
自分の人生はまた違うものだったかもしれない。
「お父様たちは、もう国外へ?」
あらゆる思いの代わりにアイシラは微笑んで尋ねた。
いたましげに頷くアンセルス。かつての商売で使っていた抜け道を総動員して、家族を逃してくれたのだ。
(もう少し遅かったら、それも難しかった)
ドレシア帝国の第1皇子シオンに国境や抜け道を随時把握されては、潰されているのだ。
「父君も母君も、弟君たちも、皆、ドレシア帝国の皇都グルーンの更に東にまで逃げ延びました。マクイーン公爵の手も届かない場所です」
アスロック王国内では絶対的な力を握りつつあるマクイーン公爵だが、ドレシア帝国に対しては違う。
皮肉にもドレシア帝国に国土を占領されたことで、家族を逃がすことが出来たのだった。
「皆様、アイシラ様身の上を最後まで案じておられました。お望みなら、私が命を賭けてでも。ミリアとの約束もありますので」
あくまで忠実なアンセルスが提案してくれる。
気持ちだけがただ嬉しい。だが、アンセルスにこそアイシラも生き延びてほしいのだった。自分という人間がどんな人間でどう生きたのか。誰か一人ぐらいには知っていてもらいたい。
「ありがとう、アンセルス。でも」
アイシラは呼吸を整えて続けた。そして微笑む。
「私はマクイーン公爵を許さない」




