3 魔塔〜聖騎士なき王国
「逃げられただとぉっ」
アスロック王国王宮にある執務室にて、報せを受けたエヴァンズ王太子は怒鳴った。隣りにいたアイシラ男爵令嬢がビクリと身じろぐ。
処刑する3日前となって、元聖騎士のセニア・クラインが幽閉されていた離宮を脱出した。
更にどこからか馬を手に入れて、隣国のドレシア帝国へと逃れたのだという。
なんとか気持ちを落ち着けて、エヴァンズは伝令の兵士に退出するよう手で促した。伝令の兵士が急いで部屋を出ていくのを、苛立たしく思いながらエヴァンズは見送る。
「くそっ、どいつもこいつも!」
伝令の兵士がいなくなると、エヴァンズは苛立ちを拳に乗せて机に叩きつける。意味などない。ただ、手が痛くなっただけだった。
セニアの脱走を手助けしたのは一人や二人ではない。王宮づきの侍女から厩番、果ては下級の兵士に至るまで、多くの人間が誰に言われるともなく、それぞれ出来ることをしていった結果であった。
「我が国がここまで重症だとは思いませんでした」
そばに控えていた魔術師のワイルダーが静かに言った。黒いローブを羽織る王国最強の魔術師である。フードに隠された顔は青白く、不健康な印象を人に与える。
「軍からも離反するものが出るとは。私も恥じ入るばかりです」
騎士団長であるハイネルも悔しげに言う。
2人もまた、セニアに騙されてきた国民を見るにつけ、悔しい思いを抱いてきた同志である。
セニアだけが国を支えて戦ってきたわけではないのに。聖騎士という肩書に物言わせて、国民の好意を独占してきたのだ。3人とも同い年の18歳であることも価値観を共有できた理由かもしれない。
それでも、セニアが本当に聖騎士としての務めに専念していたならば、我慢するしかないと受け入れられたかもしれない。
「長年、あの女がこの国を欺いてきた。そう、やすやすと覆せるものではない、ということだな」
エヴァンズ自身も度重なる徹夜のせいで、端正な顔には隈が出来始めていた。自分も自分で眠る時間すらも削って、政務に努めてきたのだ。
忌々しい女聖騎士のセニア。幼い頃からの婚約者であったことに、今となっては吐き気をすら覚える。
「我々もあの女性には、長年騙されてきましたからな。殿下が清廉にして聡明な令嬢を見出してくださったことがせめてもの救いです」
ワイルダーが疲れた顔に微笑を浮かべた。魔物の討伐に各地を飛び回っている。王都になど滅多に来られない。
そんなワイルダーが期待を寄せる、清廉にして聡明な女性。
当然、言っているのはアイシラのことだ。
「でも、魔塔は聖騎士でないと討滅できないのではありませんか?」
アイシラが遠慮がちにおずおずと遠慮がちに尋ねる。
魔塔というのは、魔物を生む巨大な塔のことだ。太さや高さはまちまちであるが、強力な魔物が各階層に控えていることは共通している。
出現する本数も国や時代でまちまちだが、人心の乱れに比例して増えていくという。統治がうまくいっているかの試金石にもなる存在だ。
現在、アスロック王国には3本もの魔塔が存在する。かなり多いが、全てセニアのせいだ。
「アイシラが私の后となってくれれば、やがて民の気持ちも落ち着く。そうなればあとは国力を結集して、一本ずつ倒していけばいい」
エヴァンズはアイシラを愛おしく思いながら告げた。
魔塔の魔物を率先して倒してきた、ということでセニアの民衆からの人気は絶大だ。エヴァンズたちも長年、引け目のようなものを感じていた。
「いえ、私なんて」
アイシラが消え入りそうな声で恥じらう。栗色の髪に琥珀の瞳を持つ可憐な女性である。事務能力はまだ及ばないながら、必死でエヴァンズの執務を補助してくれていた。
傲慢で手柄を誇るばかりだったセニアとは違い、常に一歩引いた控えめな態度でいることも好ましい。
「しかし、わざわざ高価な映像水晶まで用意したのに、民がまるで目を覚まさないというのも誤算でした」
ハイネルも口惜しげに言う。
ただ、話していると民草の気持ちも理解できる気がエヴァンズはしてきた。
「仕方あるまい。人は見たい現実しか見ようとしない。聖騎士に救われる幻想というのは甘美できっと捨て難いのだ」
幻想、という言葉になぜかアイシラが反応した。ピクリと肩を震わせる。
アイシラが自分たちにセニアの真の姿を教えてくれたから、幻想を捨てて真実を直視することができた。
あろうことかセニアは、父王から賜った王宮の1室に夜な夜な男を連れ込んでいた。婚約者のエヴァンズが執務をしているのと同じ建物で、だ。あまりに常識外れな裏切りに絶句し、アイシラに連れられて現場を目の当たりにするまで信じられなかった。
「だが、だからこそ処刑の場を設けることは大きな近道になったのだが。残念だ」
エヴァンズは握りしめていた拳を解いた。いつの間にか強く握りすぎて、爪が食い込んで薄く出血していた。
命乞いをする浅ましい姿を見せつけることで、多くの国民を目覚めさせることが出来たはずだ。
人心が乱れ、魔塔を作り出してしまう国民感情を落ち着けて、一丸となる強心剤がほしかったのだが。
「やはり、近道はない、と思わねばいけませんな。とりあえず私は軍の再編を急ぎます。セニア嬢のせいで、賂までまかり通るほど腐ってしまったので」
ハイネルが力なく笑みを浮かべて告げた。色白の肌に金髪をした見た目は優男だが、腕力に長けている。槍を持てばセニアにも劣らない武人だ。氷の魔槍ミレディンを巧みに操る。
「分かった、苦労をかける」
幼い頃からの友人に、エヴァンズは頭を下げる。
ハイネルが退出していく。
「殿下、私もガラク鉱山の魔物を駆逐し、鉱石の採掘を進めさせます。資源がないと何も作れませんから。国民の暮らしを豊かにしてやらねば」
ワイルダーも仕事に戻ろうとする。もともとは屋内で魔導の研究だけをしたがっていたのだ、とエヴァンズも知っている。国民のためとはいえ、鉱山に出向くのは本意ではないだろう。
「すまん。平和が戻れば好きなだけ、研究にいそしんでくれ」
エヴァンズはワイルダーにも頭を下げる。
「殿下とともに力を尽くせばそういう時代もくるでしょう。楽しみにしております」
ワイルダーも微笑んで執務室を退出した。
一人残されたエヴァンズも机の上にある書類との格闘を再開する。
父王が病に倒れてから久しい。
あらゆる案件への判断と対処を、既に立太子されていた自分が担うこととなった。
いずれ父王が快癒して政務に復帰したときに、恥ずかしくない状況の国にしておきたい。
「くそっ、しかしなぜよりにもよって、私の代の聖騎士があのように汚れた女だったのか」
自らの不運をエヴァンズは嘆く。
国にとって最も厄介な災禍が魔塔である。魔物に荒らされた国土があれば、その地の産業は滞る。産業も民の意欲も衰えてしまうのだ。
軍で攻めようにも、魔塔が崩れるのは最上階の『主』と呼ばれる魔物を倒したときだ。強力な最上階の魔物には通常の兵士が何人いても無意味で、いたずらに犠牲を増やしてしまう。さらに魔塔内部は悍ましい瘴気溢れる環境だと聞く。
一騎当千の戦士が必要であり、アスロック王国においては主に歴代の聖騎士であった。
しかし、セニアの父である先代の聖騎士レナートが魔塔での戦いで負傷し、亡くなると一本が二本に増えた。更にセニアがまるで頼りないせいで、民が失望し、二本が三本に増えた。
「くそっ、魔塔を、嘆いてばかりもいられない」
エヴァンズは首を横に振った。
仕事は溜まっている。治水に、魔物に荒らされた村の復興。そのための資金捻出。上がり続けている税にも対処が必要だ。
頭を抱えている内にアイシラが、コクリコクリと船を漕ぎ始めた。そのままでは風邪を引く。エヴァンズは毛布を持ってきてかけてやろうとした。
「あっ、殿下、申し訳ありません。私ったら」
化粧っ気のない顔が疲れ切っていた。民の間では贅沢ばかりを言う我儘な成り上がりものの悪女、と目されていることが口惜しい。
実際は、今も地味な色味の淡い茶色のドレスを身に纏うだけで宝石などの服飾品は1つもない。贈り物をせがまれたこともついぞない。本当に人は見たいものしか見ようとしないのだ。
朝日がカーテンの合間から差し込んでくる。また、眠らずに夜を越えてしまったのだ、とエヴァンズも悟った。
「殿下ぁっ」
侍従のシャットンがノックもせずに執務室へ転がりこんできた。抜けるように白い肌をした、灰色の髪の少年だ。
本来ならば、ノックもせずに執務室へ転がりこむなどとは懲罰ものである。が、シャットンの形相が尋常なものではない。
「どうした?」
思わず、疲労で飛びそうな意識を保ちながら、エヴァンズは尋ねた。
悪い知らせに違いない。言われる前からなんとなく分かる。
「よ、よ」
ゼエゼエと息をし、喋れずにいるシャットンにアイシラがコップ一杯の水を差し出す。
手振りで謝意を示してから、シャットンが水を飲み干す。だいぶ落ち着いた様子である。
「殿下、東のゲルングルン地方に第4の魔塔が現れました!」
想像を絶する凶報に、エヴァンズは絶句するしかなかった。