283 アスロック王国の絶望
必勝を期して送り出した腹心2人の軍が敗れた。ハイネルもワイルダーも討ち死にしたのだという。落ち延びてきた生き残りがなんとかもたらした、敗報だ。
「くおぉぅっ、ハイネルッ!ワイルダーッ!」
侍従のシャットンから報せを受けたアスロック王国王太子エヴァンズは、時に仰け反り、時に執務机へ突っ伏しては嗚咽を漏らす。
婚約者であり、最近仲も上手くいっていないアイシラも報せを受けるなり、いずれかへ姿を消していた。終始無表情だった気もするが、突き詰める余裕もない。
「なぜだっ、なぜっ!」
エヴァンズは報せを受けてから、ずっと自問し続けている。なぜ、あの二人が死なねばならなかったのかと。
清廉にして気高かったハイネルも、理知的で穏やかだったワイルダーももういない。
深い喪失感に苛まれて、2度と立ち上がることも出来ない気すらする。
「エヴァンズ殿下っ!」
シャットンがためらいがちにドアの外から声をかけてくる。
もはやシャットンぐらいしか身近にはいないのだ。王宮にも、もはや最低限度以下の人間しか置けない。給金も出せず脱走が相次いでいる。
「エヴァンズ殿下っ!」
もう一度、シャットンが叫ぶ。
「どうした?」
エヴァンズは机に突っ伏したまま問う。
「マクイーン公爵が」
誰もいない国で何が公爵か。他の貴族たちも逃げるか領地ごと奪われた。
「通せ」
どうでもいいと思いつつ、エヴァンズは短く告げた。
しばらく待つと小柄で異相のマクイーン公爵がトコトコと執務室の中へと入ってくる。いつもどおりの黒光りするコートに色白の身体。ギョロリと動く目と横に広い口が不気味だ。
断りも挨拶もなく、ソファに座り、指をウネウネと動かし始めた。護衛も誰も連れていないことに気付く。マクイーン公爵の家来も脱走したのだろうか。
「何の用だ?」
ぞんざいにエヴァンズは尋ねた。もう礼儀も力関係もどうでも良い。
「完敗でしたな、みっともない。結局、なんの役にも立たない2人でしたな」
涼しい顔でマクイーン公爵が言う。死者を冒涜するような物言いだった。
「何だと?」
思わず色をなしてエヴァンズは聞き返していた。
立ち上がって見下ろしても、マクイーン公爵はニヤニヤと笑うばかりである。
「もう少しぐらいは、あなた方はやるかと思ったのですが。ドレシア帝国にも、聖騎士セニアにもまるで敵わなかった」
マクイーン公爵が眼球を動かしながら言う。
本当に不気味で嫌な笑顔だ。
「なんと無礼なっ!処断するっ!我が腹心への不当な冒涜。死をもって償うのだっ」
あまりに無礼なマクイーン公爵の言葉。捨て置くことが出来ずエヴァンズは告げた。
「シャットン、剣を持てっ!」
エヴァンズは叫び、忠実な侍従を呼んだ。いつもならすぐに慌てて、剣を手に駆けてくるはずだったが。
「殿下っ!ハイネル様がお見えです。ワイルダー様も」
剣を持ってくる代わりに、虚ろな目をしたシャットンが告げる。
「本当かっ!」
エヴァンズはにわかには信じられず声を上げた。だが廊下にはシャットン以外は誰もいない。
やはりありえなかった。2人とも死んだのだ。
(それとも)
全て夢だったのか。実は自分は眠っているのか。これから2人がセニアの首を手に凱旋してくるのを待っているのではないか。
「うわっ」
エヴァンズは急に我に返って仰け反った。
いつのまに近付いていたのか。シャットンの横に栗色の髪と琥珀色の瞳を持つ婚約者アイシラが立っている。
「この子は夢を見ています」
アイシラが静かに告げる。
「すべてが上手くいく、とっても素敵な夢」
無表情にアイシラが告げる。なぜかエヴァンズをとがめるようでもあって。エヴァンズはとっさには言葉を挟めなかった。
「でも、殿下。あなたは何もなくても、それを自分で勝手に見て。思い描いて。国を道連れにとんでもない失敗をしたのね」
内容とは裏腹に、穏やかな口調でアイシラが告げた。
いつにない冷たさをすら孕む琥珀色の瞳。
「なんだ、アイシラ、一体、どうしたんだ?」
異様なアイシラの迫力に圧されて、エヴァンズは後退る。
ふと窓の桟に触れて気付く。ひどくザラザラして埃にまみれている。いつから汚れていたのか。
(清掃すら、ロクになされていないのか?この王宮ですら?)
動揺してエヴァンズはアイシラと執務室に立つマクイーンとを見比べる。
「あなたが聖騎士セニアを破談にしたばっかりに、この国はもう全然だめ。どんな気持ち?思う通りにして、全然だめで。こんなことになったのを見るのは」
アイシラの瞳が妖しく光る。
(間違いない。これは魔力の光。なんだ?しかし、アイシラ、一体何を言っているんだ?)
アイシラもまたセニアを追いやった当事者だというのに。
エヴァンズはすっかり戸惑ってしまう。
「あの女は私を裏切った。汚らわしい女なのだ」
悪いのは自分ではない。エヴァンズは言い切った。どうひっくり返っても心の汚れたセニアを認めることはない。
アイシラの瞳が険しく細められる。
「そう。裏切ったって、こんな風に?」
いきなり視界が変わる。
薄い夜着だけを纏ったセニアが妖艶に微笑み、ワイルダーに抱かれ、ハイネルに抱かれている。
(そんな筈はない。あの高潔な2人が、あんな女と。いや、そもそも2人は)
驚愕してエヴァンズは目を見張る。
「あははははっ、信じるの?あなたは、同志と呼んでいた2人すら信じられないのね?」
また視界が戻る。
冷たい眼差しのアイシラと、面白がる不気味なマクイーン公爵が並んで立っていた。
「な、何だったんだ、まさか、アイシラ」
幻術士だ。気付いてエヴァンズは驚愕する。
どこまでが真実であり、どこからが幻だったというのか。
セニアの淫行がアイシラの作り出した幻だったというのなら、後に残るのは幻に欺かれた自身の間抜けさと薄汚い嫉妬だけだ。
「いや、違う。そんな筈はない。奴は薄汚れた女だ。奴がこの国を腐らせたのだ」
首を横に振ってエヴァンズはなおも告げる。自分が騙されたこととセニアの醜さは別のことだ。
「まだ、そんなこと言って」
呆れた、とさらに小さく呟くアイシラ。
「私ごときに騙されて。私の幻術だって万能じゃない。心に隙がある人しか引っかからないし、こうもひどくはならない。あぁ、そうだわ」
まだあるというのか。容赦なくエヴァンズの心を抉るアイシラ。
「あなたのお父様、とっくの昔に死んでるわよ。あなた、幻相手にお見舞いしてたのよ」
父の離宮、何度も見舞いに訪れた。話もできないほど弱っていた父をどれだけ哀れに思ったか。
(いや、父の幻をどれだけ哀れに?いや、あれは私にとっては父で)
すっかり混乱してしまうエヴァンズ。
「無様で哀れ。むしろ、あなたとこの国がそう。あなたが王子として、政治家として、聖騎士セニアを不当に扱わなかったら。結婚できないまでも、ね。こんなことにはならなかったのにね」
軽蔑しきったアイシラの言葉が決定打となった。
自分の中で何かがひび割れて壊れていくのをエヴァンズは感じる。
「ふ、ふは、ふははははは」
ただ笑うしかないと思った。笑うのだ。笑っていればすべてが終わっている。
「幻はしょせん、幻。あなたはつまらない嫉妬で、事実を見ようとしなかった。聖騎士セニアを上手く使わなかった。だから、こんなことになるのよ」
アイシラの言葉も、もはやエヴァンズにとっては、もうどうでも良いことだった。




