275 カムロス平野の戦い・序
ピクトック山道を抜けて、カムロス平野を通り、柔らかい敵の横腹を存分に食い破る。ハイネルはそのつもりで重装騎兵隊を率いていた。しばしば物資を襲う賊徒に煩わされて行軍を遅らされてもなお、ドレシア帝国側に捕捉されている気配もない。
はずだった。
「な、なんということだ」
ピクトック山道を抜けて、カムロス平野を一望し、愕然としてハイネルは馬上で呟いた。
ドレシア帝国軍が総勢6000ほど、完全にこちらを向いて布陣している。
築陣しているのはカムロス平野であり、馬止めの柵を前面に押し出していた。迂闊に重装騎兵隊単独で突撃しては命がない。
「読まれていたのか、しかし、なぜ?」
かすれ声でハイネルは呟く。
後続のワイルダー率いる魔術師軍団も、鍛えたとはいえハイネル直下の重装騎兵隊に練度では及ばない正規軍も、未だ到着をしていない。
「ハイネル様、いかが致しますか」
腹心の部下イゴールが狼狽えて尋ねてくる。角ばった顔をした若者だ。部隊の各所から動揺のうめき声があがる。
「どうもこうもない。奇襲は失敗だ」
不意を討つから奇襲なのだ。予期されていては奇襲ではない。
告げる自分の顔はさぞや憮然としていることだろう。
「ぬ、あれは」
敵の左翼、ハイネルから見て右手側にはドレシア帝国魔術師軍団も布陣している。紅いローブの優男と白銀の鎧を纏う女が見えた。遠目でも誰だかは分かる。
「おのれ、奴の仕業かっ、聖騎士セニアめっ。聖騎士でありながら人を斬りに戦場へ出るなどとは。なんと、汚れた女だっ」
ハイネルは歯軋りして呻く。
何としても殺したい。エヴァンズのためにも。そして、聖騎士セニアの奸計にまんまと嵌った自分が許せない。今度は捕縛などと生温いことをせず、その場で命を絶つ。
(なんとかならんのか、なんとか)
敵の6000に対し、アスロック王国側も全て揃えば5000はいる。
(戦えない数ではない)
彼我の数字を思い出してかろうじてハイネルは冷静さを保つ。目まぐるしく思考を巡らせる。
高所を取った形ではあるが窮屈な土地で大軍の展開には向かない。この山道を通って、カムロス平野も拔けるつもりでいたので、山道の狭さを考慮していなかったのだ。
(くっ、いっときの感情を捨てて退くべきだ。無念ではあるが。五千でぶつかって負けはせずとも、犠牲が大き過ぎる)
ハイネルは歯軋りした。ピクトック山道などアスロック王国の軍人にも知っているものは少ない。亡命していった一般人にもあまり知られていないだろうから選んだのだ。
「閣下、後続のワイルダー将軍の部隊と正規軍も追いついてまいりました」
伝令を受けたイゴールが報告する。
ただ単純に退くのでは背を討たれて大いに犠牲を出す。
(ワイルダー殿に魔術障壁を張ってもらう。最後尾を頼むこととなってしまうが)
ハイネルは一人悩んでいた。一番犠牲の出る危険な配置を、信頼している同志に押し付けることとなる。
「ハイネル殿」
単身でワイルダーがあらわれた。異変を察知し、わざわざ駆けつけてきてくれたらしい。
「奇襲が読まれていた」
端的に、ドレシア帝国軍を一瞥してハイネルは告げた。
ワイルダーも頷く。
「確かに。あの闘気はこれから仕掛けようという軍のものだ」
まじまじと敵を眺めてワイルダーが言う。
敵の闘気にハイネルも刺激されているところはあった。頷き返す。
「幸い、高所の利はある。すぐに退けば狭いピクトック山道だ。相手もつかえて素早くは追って来れないでしょう」
落ち着いた口調でワイルダーがいう。
「私が魔術で壁を作ればもっと完璧だ」
自分が頼もうとしていたことを自ら口に出してくれるワイルダー。自然と頭が下がる。
「すまない、本来ならば先鋒の我が軍が一番に血を流すべきところ」
ハイネルは忸怩たる思いで告げる。
「いえ、騎兵で敵を防ぎ切ることのほうが大変だ。任せてください」
重ねてワイルダーが言ってくれた。
「せめて、準備を終えるまで一切の邪魔だてが出来ぬよう、封殺するつもりです」
胸を叩いてハイネルは誓った。
同時に轟音が響き、地面が揺れる。ふらつきながらもハイネルはとっさに氷の魔槍ミレディンで身を支えた。
「ハ、ハイネル閣下!」
重装騎兵の一人が慌てて駆けてきた。
「ど、どうした!?」
何か尋常ではないことが起きたのだ、とハイネルにも分かる。重装騎兵の前に立って尋ねた。
視界の隅で倒れたワイルダーが立ち上がるのも見える。
「や、山道が!」
かろうじて絞り出すようにして兵士が告げる。何か山道に異常があったのだ。
「よく、すぐに報せに来てくれた。私も向かう」
なんとか注進に来てくれた兵士をねぎらい、ハイネルもまた現場へと急行する。
ピクトック山道は大きくうねるように弧を描く山道だ。抜けきってしまった後ではよく見えないのだが。
「な、なんということだ」
ついてきたワイルダーが呆然として呟く。
ハイネルも言葉を失った。
「頭上から大岩が幾つも落ちてきて。閣下、申し訳ありません」
山道が崩れてしまっていた。崩落していない箇所もヒビが入っていて、無理に通れば転落の危険性すらある。
「犠牲は?」
まずハイネルは尋ねた。近くにいた重装騎兵隊の部下相手だ。
「は?」
聞き返してくる部下。まだ若く20歳にもなっていないだろう。
「岩に巻き込まれた者はいないな?みな、無事か?」
ハイネルは努めて落ち着いた口調で尋ねた。まず部下の心配をしてやれた自分にどこか安堵する。
「はっ、あくまで道のみを狙った攻撃らしく、兵の犠牲は全軍、ございませんっ!」
気力を振り絞るように元気な返事が飛んできた。
「そうか、良かった」
口ではハイネルはそう言えた。安堵させるように笑いかけることも出来る。だから、自分の戦い方が死ぬまで出来るだろう。
「よし、付近の道や地面がどの程度無事かを皆で確認せよ」
とにかく仕事を与えて落ち着かせることだ。動揺を最低限に抑えたい。
「甘かった」
ワイルダーが呟く。兵士たちを立ち退かせた後だ。
「頭上からの大岩、このような山地では警戒するのが当たり前だ」
自分を責めるような口調だ。
退路を失った。
ただ奇襲に気づいて築陣しているだけのわけがない。あまりに温い考えでいたことをハイネルも恥じる。
誰が岩を落としたのか。敵であるドレシア帝国軍に決まっている。
「兵士たちを直接狙わず、退路を断とうとは」
ワイルダーが更にかすれた声で告げる。
「あぁ、ワイルダー殿。奴らは我々をここで殲滅するつもりなのだ」
ハイネルは断言した。もう進むしかない。その先にいるのは敵だけなのだ。
「甘く見おって」
ワイルダーの声に怒気がこめられた。こうなると、ワイルダーも自分顔負けの猛将となる。
「あぁ、こうなった以上、もう戦うしかない」
ハイネルも頷く。
ドレシア帝国軍も戦うつもりなのだろう。数歩、全体でにじりよってくる。
「獲物を追い詰めたと思っている愚か者共を、この私の黒風で引きちぎってくれる」
闘志を漲らせてワイルダーが宣言した。
馬止めの柵まで存分に備えた軍団に、自身の力がとこまで通じるのか。ちらりとハイネルは不安になるのであった。




