2 夜戦〜聖騎士の国外脱出
気配を消して、夜の闇に紛れる。自分という存在を殺して、夜と一体化するかのように。
シェルダンは全身黒尽くめの格好で、岩地にある崖の上に潜んでいた。手頃な岩の上で腹這いとなっている。下からは死角となる位置だ。
アスロック王国の軍服はとうに燃やして灰にした。特に何の感慨も今となっては湧いては来ない。
(あんなものは、ただの白い布だ)
切り立った崖に挟まれた、王都アズル近くの街道。アスロック王国の隣国であるドレシア帝国へ馬で抜けるならば、ここを通るしかない、という道だ。まだ王都にも近く、セニアが助けを必要とする可能性が極めて高い。
(父さんと母さんは、とっくに国境を抜けただろう)
もう丸2日、この岩の上に潜んでいる。父の言うとおり、破談して間もなく、悪女につき聖騎士セニアを処刑する、との通達が出された。
(まさか、そんな理由で、なんていう国だ。そして俺は)
アスロック王国軍を脱走した今、自分が何者なのか、自分でも分からなかった。
誰でもなくなった自分が、アスロック王国、今となっては唯一人の聖騎士を助けるのだ、と思うと一方で痛快でもある。昔からの悪い癖だと思った。功名心など本来は余計ごとだ。
気を引き締める。
いつ、セニアがここを通ることになるのかも知らない。とりあえずは10日分ほどの兵糧を携行している。兵糧が尽きて補充するとなっても、可能な限り何日でも張り付いているつもりであった。
更に待つ。日が何度、昇っては沈み、夜を迎えたのか。
ふと、西の方から争闘の気配が伝わってきた。馬の駆ける音に兵士の怒声。
息を一つ吐いて、シェルダンは腹に巻いていた得物を解いた。アスロック王国では、軽装歩兵というのは胸鎧に鎖帷子を装着しただけの歩兵のことをいう。得物については片刃剣を一振り支給される。ただ、得意の武器があれば使用することを禁止されてはいない。
森の中、篝火が見えた。
(馬鹿な)
呆れてしまう。追撃の騎馬兵が一人一人、手に松明を掲げている。自分の居場所を知らせるような愚かな行為だ。
(追っていれば襲われない、とでも思っているのか?)
そもそもきちんと夜戦の調練を積んでいれば、月明かりを活かして夜目ぐらいは働かせられる。夜戦の調練をろくにしていないことが明らかだ。
シェルダンはじっと目を凝らす。敵は100騎ほど。
薄い月明かりの中、自分の下を通る谷道を2騎、疾駆していった。かろうじて馬上の一人が華奢な体格であり、水色の髪が見て取れる。
(聖騎士セニア様だな)
腹を決めて、シェルダンは立ち上がり、得物を振り回した。長い鎖の両端の、片側は分銅、もう片側は短い鎌、鎖鎌である。
振り回された鎖が、風を圧するかのように独特の音を発する。
追手側、先頭の2騎を崖上から分銅を叩きつけて倒した。
命はない。頭を直撃している。乗り手を落とされた馬2頭が困惑して、呆然と佇む。
「なんだ、どこからだっ!」
後続のものが不意打ちを目の当たりにして恐慌をきたしている。
(100騎もいて、たった2人が倒されたぐらいで馬の脚を止めるのか)
シェルダンは呆れ果てながら、前の方にいるものを優先して、順に鎖分銅だけで仕留めていく。何にどのようにして倒されているのか、倒された仲間の体を確認しようという者すらいない。
「いたぞ、あれだっ」
ようやく一人が崖上にいるシェルダンに気付いた。
「くそっ、なんだ、あの武器は」
鎖鎌を見るのも、騎兵たちには初めてのようだ。困惑している。これまでシェルダン自身も騎馬隊と共闘したことはなかった。
シェルダンは崖を駆け下りる。駆けながらも数騎を馬上から叩き落とす。
冷静になれば自分一人しかこの場におらず、セニア追撃を優先すべきと察するだろう。
判断する暇を与えない。幸い、ここは馬数頭が通り抜けられるだけの隘路である。鎖を振り回している限り時間を稼ぐことも出来るだろう。
「くそっ、だめだ、馬が進まない!」
叫んだ騎兵を分銅で倒す。
いくら得意な武器とはいえ、シェルダンの振り回す鎖には異様な迫力が宿る。振り回す力が異常だからだ。
魔術師のような攻撃魔術こそ使えないものの、シェルダンも若干の魔力を持っていて、自身にかける身体強化だけは習得した。
先代や周囲親戚には、全く魔力を持たない者たちも多いので恵まれている方だとは思う。
おかげで薙ぎ払う鎖の威力だけで鎧の上からでも敵の命を奪うことが出来る。
「ぐわっ」
「なんだ、こいつは」
鎖を振り回すシェルダンは、道の封鎖があまりにうまく行きすぎて鼻白む思いであった。
矢を射かけてもいい。上から岩を落としてもいい。シェルダンなど、無視して最低限だけをここに残して別の道からセニアを追うのも良い判断だろう。
いずれもしないのである。
(なんで全員でここに集まって混乱しているんだ?)
追撃隊には騎兵が多い。騎乗の教育は貴族だけが受けられる特権だ。正規軍騎馬隊には貴族の出身者が多く、近衛騎士団騎士団長ハイネル直属の重装騎兵部隊を除いては、最も腐敗した集団だという。
(追撃隊全員でこいつらは何がしたいんだ?)
シェルダンは呆れ果てていた。鎖だけは勢い衰えず、音を立て続ける。人より臆病なはずの馬よりも、馬上にいる騎兵の方が怯えているのだ。
「セニア様はお優しい方だ」
ポツリとシェルダンは独り言を呟く。
自分ごときにこうも足止めされる連中である。聖騎士のセニアならば100人相手でも正面から切り抜けられただろうに。
犠牲を出すのが嫌で逃げることを選んだに違いない。甘いとも言えるのだが。
「ええぃっ、何をやっておる!セニアを、反逆者を追えぃっ」
遅れてやってきた、でっぷりと肥えた指揮官が先頭に立った。
馬が可哀想なほどだ。鎧の上からでも、体についた贅肉が窺い知れる。馬の脚がプルプルと震えているようだ。
シェルダンは指揮官の顔面に鎖分銅を叩きつける。
「ぐえっ」
なんら抵抗もできぬまま、血を吹き出して指揮官が落馬した。重さから解放された馬が闇の中へと走り去っていく。
「指揮官殿がやられたっ」
「撤退、撤退だぁ」
指揮官や仲間の死体を置き去りにしたまま、50人近い人数がまとまりもなく敗走していく。置いていった死体も50人ほどだろうか。
「嘘だろう」
呆然として、シェルダンは呟く。
鎖鎌は4世代前の先祖が考案した、家伝の隠し武器である。鎖帷子の代わりにもできて、いざとなれば武器としても使える、というものを当時求めていたらしい。
最前線で戦う軽装歩兵であっても、少しでも高い確率で生き残れるよう、武器の考案から訓練、工夫を凝らしてきたのだ。その結果、ビーズリー家は千年以上も血を繋いできた。
(いや、しかし、でも、これは、いくらなんでも)
100人以上がいて、たった一人の自分を前に敗走など信じがたい。時間を稼げるだけ稼いだら、シェルダンは逃げるつもりだったのに。
首を横に振りながら、シェルダンは王都に背を向けて岩山を後にする。
再度、追撃隊を1から編成してセニアを追うのはもはや不可能だろう。
予期せずして、セニアの逃走を完全に助けきれてしまった。ただ、達成感はなく、アスロック王国の行く末がいよいよ心配になる結果であった。