186 敗報を受けて1
「な、なんということだ」
王都アズルにおいて、エヴァンズ王太子は敗報を侍従のシャットンから聞いた。執務室には現在、怪我から回復中のハイネルもいる。
最大戦力であるハイネルの重装騎兵隊は不在ながら、2倍以上の陣容で臨んだ、重要な一戦だったのだ。ただの負けではなく、敵の信号弾の誤射に混乱して自ら崩壊した、あまりに情けない敗戦だという。
(武器を交えてすらいない敗戦など、なんたる屈辱だ)
エヴァンズは唇を噛んだ。自分の統治に大いなる汚点を残した。
「くっ、私の身体が無事でさえあれば」
悔しそうにハイネルが言う。
軍を監査する、軍監役からの詳細な報告書に目を通す。
あろうことか戦端を開く前に敵の誤射した信号弾に驚き、正規軍の兵士たち自らが戦線を投げ出している。潰走してくる味方に邪魔されて、ワイルダー率いる魔術師軍団も満足に力を発揮することは出来なかった。
追撃による犠牲は半分の5000を超え、対する敵に与えた損害はほぼ皆無だという。
「いや、ここまで正規軍が軟弱であるなど誰も想像は出来ん」
首を横に振ってエヴァンズは言う。
潰走した正規軍はドレシア帝国軍からの追撃からただ逃げ惑うばかりであり、ほぼ無抵抗のままラルランドル地方から引き上げてしまっていた。
ゲルングルン地方の奪還など夢のまた夢、むしろこのままでは、ガラク地方すら奪われかねない。さらにドレシア帝国側へ流れ込む人民が増えていた。
(ぐっ、せっかく国土から魔塔が1本減ったというのに。その魔塔なき国土を奪われてしまうとは)
エヴァンズはほぞを噛んだ。まんまとドレシア帝国を利用してゲルングルン地方から魔塔を消そうという策が台無しである。
今思えば、こうなると分かっていたなら国境を死守すべきだったのかもしれない。
(いやそれも結果論でしかない)
自力で魔塔を倒す能力が無かった以上、他に選択肢はなかったのだとエヴァンズは思う。
「正規軍は三々五々、散り散りになりながら、王都へ帰ってきておりますが。責任の追及を恐れて主だった将官たちは、そのままゲルングルン地方へと流れたようです」
憮然とした顔でハイネルが言う。
本当に腐り切っているのだ、とエヴァンズも思った。ただ負けるだけでは飽き足らず、醜く卑しい姿を見せつけてくるのだ。
「そんな連中はどうでもいい。そんなことよりもこの国難をどうすべきかを考えねばならん」
エヴァンズは執務机の上で頭を抱えた。
自壊してしまったため、アスロック王国軍はドレシア帝国軍にほとんど損害を与えられてはいない。無傷の軍勢がこのままでは、ラルランドル地方とガラク地方を蹂躙することとなる。
エヴァンズらをさぞや恨んでいるであろう聖騎士セニアに牛耳られている国の軍勢だ。無辜の民を怨念返しとばかりに踏みにじるのではないか。
「民が苦しむこととなるやも知れぬ。そんなことになれば私には耐えられない」
エヴァンズは頭を抱えたまま、机に向かって呟いた。
悪い考えが次から次へと浮かんでは消える。
(これというのも全てセニアだ。あの忌まわしい女が逆恨みして、ドレシア帝国軍を焚き付けてくるから、だからこんなことに)
頭を抱えた手に自然と力が入ってしまう。頭皮に爪が食い込んでいく。
全て聖騎士セニアを追放してから物事が裏目裏目に進む。まるで聖騎士セニアと破談したことが過ちであるかのように。
(私が何をしたというのだ。なぜ、こうも私にばかり)
ひどく理不尽なことにエヴァンズには感じられた。
正しい行いを、歯を食いしばって耐えながら行う自分たちにではなく、邪悪なことを繰り返すセニアとドレシア帝国にばかり、天が報いているように思える。
「殿下、せめてもの救いはワイルダー殿を始めとした魔術師団が無傷なことです」
ハイネルの冷静な口調でエヴァンズも我に返った。
「そうだな、ドレシア帝国から、残る土地で暮らす、我らの民を守らねばならん」
今のところ、ドレシア帝国は流入してくるアスロック王国の民に対しても非道なことをしていないようだ。
(いずれ、化けの皮がはがれるであろうが)
やはり魔塔に長く苦しめられた民たちにとって、魔塔のない土地、というのは魅力なのだろう。
「守られるどころか、我々を裏切ってドレシア帝国の下へ流れる者がいるなど、私には理解できません」
憮然とした顔でハイネルが言う。報われない、という気持ちはエヴァンズにもよく理解できた。
「言うな、ハイネル。長く耐えさせてしまった民を私は責めることが出来ん。心配なのは暴虐なドレシア帝国が藁にも縋る思いで移住した民を虐げないかと。それだけだ」
首を横に振って、エヴァンズは告げる。
(やはり、民のためにも早くゲルングルン地方を取り戻してやらねば。誑かしているだけだとしても、形だけだとしても、善政をドレシア帝国が敷いている間に、我らがすげ変われば、民はずっと幸せだということになる)
地図を眺めながらエヴァンズは思う。
現在、ゲルングルン地方に流れているのは、魔塔の危険から逃すために、ガラク地方やラルランドル地方に移住させた、元々のゲルングルン地方の住人たちである。故郷恋しさに移住してしまう、ということ、それ自体は気持ちとしては理解できる、とエヴァンズは思っていた。
「そのようなことは、この私がさせません。この槍でもって、ドレシア帝国軍を蹴散らしてやりましょう」
ハイネルが氷の魔槍ミレディンを掲げて告げる。
驚異的な回復をハイネルも見せていた。元々頑健であったところ、脇目もふらずに治癒術士に何時間も何日も術をかけさせて回復したのである。
「しかし、今はまず、こちらも反攻の準備を整えねば。戦線が伸びればドレシア帝国軍にも隙が生じることでしょう」
軍事の専門家とも言うべき、ハイネルの言葉には説得力があった。
「しかし、憎むべきはあのセニアだ。ドレシア帝国軍はそもそも、セニアに誑かされているのだからな」
エヴァンズは抑えきれぬ憎しみのままに告げた。
「しかし、もはやこうなっては。ドレシア帝国軍を蹴散らさないことには、我らの刃は彼奴めには届きません」
ハイネルの言う通り、自分たちとセニアの間にはドレシア帝国の屈強な兵士たちがひしめき合っているのであった。
「いつか必ず、ドレシア帝国を駆逐し、にっくきセニアをお前自らが討ってくれるな?」
エヴァンズは立ち上がり、ハイネルの手を握った。懇願するような格好だが、セニアの死こそが、もはや人生の悲願ともなりつつある。
「はっ、なんとしても。私もワイルダー殿も、殿下と同じく、邪悪を憎む心は一緒です」
ハイネルが力強く手を握り返してきた。
2人でセニア討伐への覚悟を確認し合ったところ、ノックの音が響く。
「殿下、マクイーン公爵がお見えです」
侍従のシャットンが告げる。
今まで忌避していた相手だが、エヴァンズ自身が文をしたためて呼び出したのであった。
「通せ」
短くエヴァンズは答えた。
アスロック王国の命運を握る話し合いをこれからせねばならない。
エヴァンズは気合を入れ直して不気味な来客と対峙するのであった。




