181 敗走
信じられない事態が生じた。
ワイルダーは潰走する前方の友軍を目の当たりにして我が目を疑う。
「なっ、なっ」
ただ声を上げることしか出来ない。
いよいよ敵の増援が前線へと至り、こちらも魔術による反撃の準備を終えていたところ。機が熟して、ついに合戦を仕掛けよう、という機運であったのだが。
まだ夜明けの空を、照明弾の赤い光が照らすと同時に友軍が雪崩を打って後退を始めたのだ。いや、後退どころか崩壊である。
「ただの信号弾の誤射だろう」
呆然としてワイルダーは呟く。周囲にいるのは手塩にかけて育てあげた、漆黒のローブを身にまとう、魔導歩兵達である。魔術の腕前はいずれ一級品だが白兵戦にはとんと向かない。ただ肝は据わっているので、動揺は一切見られなかった
「まさか、正規軍がここまで惰弱だとは」
マクイーン公爵の正規軍も見たところ、全てが全て腐っていたわけではなかった。
キビキビと動く部隊もあって、集めれば2千ほどになる。ワイルダーはそこを編成し直して、要所要所に配置し直したのだ。しかし、崩壊したのはその部隊なのである。
(結局、当てにできるのは、ハイネル殿の重装騎兵隊だけではないか)
絶望的な思いで、よりにもよって、味方へ向けて潰走してくる兵士をワイルダーは眺める。
「うわあああっ」
本当に軍人かと思うような情けない悲鳴とともに、若い騎兵が自軍の歩兵を踏み越えて逃げていく。若いと言ってもどんな暮らしをしていたのか、馬上の身体はでっぷりと肥えている。
「ワイルダー様、いかがしますか?」
副官の術師タイラスが尋ねてくる。渋い顔だ。この一戦の重要性がよく分かっている。
「この情けない愚か者どもごと、いや、味方と言えない奴らこそ、消し飛ばしてやりますか。生かしておく価値もない」
吐き捨てるようにもう一人の副官ニコラスが告げる。
味方越しに敵陣へ魔術を放っても、この状況では効果が薄い。潰走してくる味方が肉の盾の役目を果たしてしまう。
だが、気持ちはよくわかった。こみ上げる憤怒をワイルダーは抑え込む。
「後退だ」
低い声でワイルダーは告げる。
自軍は全軍の1割にも満たない。いかに魔術師として精強であっても、この局面を打開することは難しかった。
「しかし、宜しいのですか、ここを抜かれては」
さらに血気盛んなニコラスが言い募る。
ワイルダーは睨みつけて黙らせた。珍しい反応だからかたじろいでニコラスが頭を下げて謝罪する。
言われなくても分かっていた。
ここで敗れれば、ゲルングルン地方を取り戻すどころか、ラルランドル地方を奪われ、更には南方のガラク地方も制圧されることとなるのだ。
「いいから後退だ」
ワイルダーは気持ちを振り切るようにもう一度告げた。
ガラク鉱山は自分が魔物から取り戻した鉱脈なのだ。悔しくないわけがない。
(おのれ)
ワイルダーは敵に視線を送る。既にかなり近い。
先頭で槍を振るう歳を食った騎兵。実に粘り強く厄介だった、敵将のアンスだ。こちらが、どのように挑発し、誘っても迂闊に乗ってくることは無かった。
奥には大剣を風車のように振るう騎士団長にして、敵の総大将ゴドヴァンも見える。
潰走してくる正規兵の一団に追いすがり、縦横無尽に暴れまわっていた。まるで紙屑か何かのようにアスロック王国の兵士が弾き飛ばされる。
(あれに突撃されれば、我が隊は一溜まりもない。そして、我らが死ねば、この国は反撃する戦力を失うこととなる)
ハイネルの重装騎兵隊に前面を崩してもらったところへ、息を合わせて大規模魔術を放つのが、アスロック王国軍の必勝戦術なのである。それを使いもしないうちに壊滅するのでは、あまりに無念だ。
「ここで死んでは無駄死にだ。生きてハイネル殿と連携すれば、ドレシア帝国など幾らでも倒せるのだ。今は退くぞ」
副官であるタイラスとニコラスの2人にワイルダーは告げる。
「良いか、一人も死なせるな」
念を押すようにワイルダーは言う。
副官2人が強ばった顔で頷き、号令をかけた。
1000人の魔術師が全力で駆ける。
皆、魔術一辺倒の、軟弱者たちではない。ハイネルらとともに魔塔での戦闘もこなしてきた、粒揃いの精鋭なのだ。白兵戦は無理でも移動は速い。
いざというときのため、最後尾をワイルダーは駆ける。
「ワイルダー様っ」
前を走る部下の一人が振り向いてから悲鳴をあげる。
腐ったアスロック王国の正規兵どもを抜けた、敵騎兵隊が迫っていた。
馬と人では馬の方が速いに決まっている。当然のことが、ワイルダーにはひどく理不尽なことに思えた。憤怒がこみ上げる。
「なめるなぁぁっ」
立ち止まり、振り向くとワイルダーは即座に呪文を詠唱する。
黒い魔法陣が中空に浮かぶ。
「ダークトルネード」
黒い竜巻が渦を巻いて、敵兵と自分たちとの間で壁となった。
(迂闊に触れようものなら千切れて死ぬぞ)
黒い風の壁越しに敵を睨みつけて、ワイルダーは再び駆け出した。
「さすがです、ワイルダー様」
ニコラスが近寄ってきて告げる。
「正規軍さえしっかりしていれば一網打尽にする手もあったのだ。無様なものだ、この私が足止めだけで終わらせるなど」
苦いものを噛み締めながらワイルダーは告げる。
これは敗走なのだ。敵が勝って、負けたのは自分たちの方である。
戦場を離れた、王都アズルへと繋がる街道に至った。もう追撃を受ける心配もない。
(ハイネル殿に続き、私もエヴァンズ殿下に朗報を差し上げることが出来なかった)
ワイルダーは歩調を緩め、拳を握りしめた。
幼い頃からの学友でもある。物心ついた頃から机を並べて一緒に学んできたのだ。
当時から生真面目で自分に厳しい人物だった。
(いつから、こんなことになったのだ)
聖騎士レナートの娘セニアとエヴァンズが婚約した頃は、まだ希望に満ちていた。自分も魔術でもって二人を支え、国のために力を尽くそう、と。幼いながらハイネルとも約束をして。
王都アズルへと駆けながらワイルダーは思い出し続ける。
(そうだ、聖騎士セニアだ。あの女が殿下を裏切ったから)
レナートが死に、親の目がなくなるとセニアの淫行が目につくようになった。
美しいのは見た目だけ。父を失い、聖騎士として跡目を継ぐ、清廉であるべき少女が、実は唾棄すべき存在であった。
この苦境は聖騎士セニアとエヴァンズの婚約が破談となり、追放せざるを得なくなったことに端を発している。
(アイシラ嬢と出会わなければ、エヴァンズ殿下の心は壊れていたかもしれぬ)
寝食を忘れて政務に打ち込み、民のために尽くしてきた人に対して、あまりに酷たらしい仕打ちではないかとワイルダーは思う。
魔塔が4本立ってもなお、国の形を止めているのはエヴァンズのおかげだ。そして、正規軍の体たらくさえなければ、ゲルングルン地方を奪い返していた。
(つまり、セニアとドレシア帝国に魔塔だけ倒させて、肥沃な国土を取り戻せたはずだったというのに)
この一戦に期するものは、エヴァンズやワイルダーには大きかったのだ。
しかし、それも潰えて逆にさらなる国土を切り取られかけている。
ワイルダーは天を仰いだ。この首を差し出しても償うことのできない失態だ、と自分を責め立てながら。




