164 戦の前
ゲルングルン地方とラルランドル地方の境、小高い丘の上に立ち、ゴドヴァンは森の中で蠢いている敵軍の配置を眺めていた。供も連れず、一人である。
まだまだ弓や魔術の届く距離ではない。
それでも戦おうとする軍の発する、ピリピリとした気配に肌のひりつくような心地よさを感じる。
「戦いはまだ先かしら?」
たおやかな声が後ろから尋ねる。
「ルフィナッ、前線には危ないから来るなって」
弾かれたように振り向き、ゴドヴァンは婚約者である紫髪の治癒術士を咎める。独り歩きをしているだけでも心配なぐらいなのだ。
「あら、武器は使えなくとも、私だって気配で危険は分かるのよ。まだ先でしょう?」
重ねてルフィナが尋ねる。平素のように、『仕方のない人ね』、の笑みを浮かべていた。
ルフィナも治癒術を極めているだけのことはあるのだ。感覚は鋭い。
ゴドヴァンはため息をついた。
「あぁ、ハイネルの指揮じゃねえな。動きが鈍すぎる。腐ってるって評判の正規軍とやらだろう」
もう一度、敵の軍隊に視線を戻してゴドヴァンは告げる。覇気をまるで感じない、だらだらとした配置の着き方だ。だから蠢いているように見え、また、装備も遠目からでもくたびれているように見えた。
(逆に突っ込んでいって蹴散らしたいが)
ゴドヴァンは目を細めた。奥の方からおぞましい気配がする。地勢もわからないという不安要素もあった。
隣のラルランドル地方にアスロック王国軍は兵力を集めていた。本当は魔塔攻略直後に急襲する手筈だっただろうに、動きが鈍すぎた。
(もともと肥沃だったゲルングルン地方を取り戻したいし、鉱山のあるガラク地方は失いたくないしってか)
ここに来て遅まきながらも軍を押し出してきたアスロック王国の意図をゴドヴァンは読んでいた。
「でも、おぞましい魔力を感じるのよね」
ルフィナが形の良い鼻をひくつかせる。まるで危険が匂う、とでも言いたげだ。
「ワイルダーって腕利きの魔術師がいる。多分、そいつが後衛に控えているんだろうよ」
ゴドヴァンの頭にも敵国の情勢ぐらいは入っている。軍の最高責任者である騎士団長なのだ。ましてアスロック王国は母国だった。
皇太子エヴァンズの腹心である重装騎兵隊騎士団長ハイネルに、黒風の魔術師ワイルダー。手強いとされる戦力はこの二人の麾下である。
「魔術師軍団単体では戦端を開けないものね」
ルフィナも頷いて相槌を打つ。治癒術士の部隊の仕事はあくまで負傷者の救護だ。だが、ゴドヴァンとよく話すこともあるため、ルフィナの頭は戦略的な考え方も出来る。
「本当は速攻を仕掛けてこの戦線を破って、魔塔のなくなったゲルングルン地方をちゃっかり取り戻そうって腹だったんだろうが」
ゴドヴァンもそれを警戒して、魔塔攻略後、論功行賞も蹴ったうえで急ぎ第1ファルマー軍団と合流したのである。
有能だが腰の重い、不平不満を並べ立てるアンス侯爵と、だ。仲が悪いわけではないが、気の重い相手である。
「副将のアンス侯爵って人は大丈夫なの?兵士の人たち、文句ばっかりよ?」
直接面識のないルフィナが尋ねてくる。
「ミズドラ砦って、守りの薄い場所を拠点にしたとか間違いも多いみたいたけど?」
ルフィナに直接、兵士の誰かが文句を言うわけもない。別の治癒術士に言ったことを、その治癒術士がルフィナに知らせるのだろう。
ゴドヴァンは苦笑した。アンス侯爵自身が文句ばかり言って、説明をしっかりしないから誤解を招くのだ。
「これからまさに侵攻しようって軍だったんだ。守りを固くする意味は薄い。溢れてくる魔物の襲来はあのときは誰も予測を出来てなかったしな」
アンス侯爵自身も言い訳を嫌う。言い訳をするぐらいなら人の悪口か不平不満を言う男だ。ある意味、一貫している。
ゴドヴァンはそれでもアンス侯爵を擁護した。
「いざ腰を据えれば、たった五千でここをがっつり固めるだけの能力はあるのさ」
アンス侯爵は愚痴と不平不満、他人への悪口があまりに多すぎて過小評価されている軍人だ。
ことあるごとにやめろ、とゴドヴァンも言っているのだが、一向に直らない。挙げ句、目の前で違う人間の悪口をまた言い始めるのだ。
「しかもな、あれで悪いやつじゃないから曲者なんだ」
ニヤリと笑ってゴドヴァンは告げる。
長く一緒に働いている部下からの信頼は驚くほど厚い。その場で詰ってから後で助ける、などということもしょっちゅうだからだ。
「へぇ、そう、最近はセニアさんとクリフォード殿下への悪口ばかりみたいよ」
ルフィナがうんざりしたように告げる。
治癒術士たちからルフィナへの線でゴドヴァンにアンス侯爵の文句を知らしめたい下級兵士が多いのだろう。
「あぁ、おま、ルフィナの悪口を言ったら即座に叩き斬ってやるさ」
お前、と言うと怒られるのでゴドヴァンは言い直した。言いかけたときに、ピクリとルフィナの眉根が上下したのも見逃さない。
「陰では言われてるわよ。私も、あなたもね」
たおやかに笑ってルフィナが言った。
いかにだらけきってはいても、いずれアスロック王国軍とはぶつからなくてはならない。それでも呑気に話していられるのは、ゲルングルン地方の魔塔を攻略したことで魔物が出なくなったから。
相手の軍にだけ集中していればいい状況であった。
(しかし、ハイネルが重傷を負ったっていうのは本当かもしれんな)
本来であれば、いの一番に突撃してくるのがハイネルの重装騎兵隊だ。
ドレシア帝国からもアスロック王国に対して密偵を放ってはいる。ハイネル負傷の噂も聞いてはいたが半信半疑だった。
偽情報を掴まされることもよくあるのだ。
ゲルングルン地方にはアスロック王国からの流入者が増え続けている。さすがに両軍激突となるであろう、この付近には見えないが。
北から南下してきた第4ギブラス軍団と事務方の役人たちが移民への対応に当たっている。ドレシア帝国としてもせっかく獲得した領土であるゲルングルン地方の復興にも人手が必要ではあった。
「まだ先かな」
のそのそと陣組をしている敵軍を見て、ゴドヴァンは呟くのであった。




