156 再会1
一度は侵入する前に拭いた涙が、また、ぶわぁっとこみ上げてきて、目頭が熱くなった。
ルベントにある治療院の一室だ。既に夜も更けており、面会の手続きなども締め切っていた。それでも会いたい一心のペイドランは、開いていた窓から植木をつたって侵入したのである。個室であることも都合が良かった。もちろん、誰かと相部屋だったとしても侵入するのだが。
「イリスちゃん」
ペイドランは寝台に横たわる、大好きな少女の名前を呼んだ。ゴシゴシと溢れる涙を軍服の袖で拭く。目が覚めたときには笑顔を見せたい。
白くて清潔な衣服に着替えさせられたイリスの顔を見つめる。同色のやはり清潔な寝台に横たえられてもいて、きちんと大切に治療されていたのだと思えて、ペイドランは安心した。
寝台には、患者の治療記録である冊子が紐で括られている。ドレシア帝国の治療院ではよく使われる手法だ。
「イリスちゃん」
もう一度、ペイドランは呼んだ。
無断で読んだ病床脇の治療記録簿によると、生きて水ぐらいは口にしてくれるが、意識はまだ戻っていない。
ただ、現に胸の辺りが上下に動いている。すうすうと可愛らしい寝息も聞こえた。
間違いなく生きている。シェルダンの嘘ではなかった。嘘だったら飛刀を投げに行こうと思っていたのだ。
「良かった、本当に良かった」
とうとう喜びに耐えかねて、ペイドランはつい寝ているイリスの腹の上に突っ伏して涙を流してしまう。布団が涙で濡れた。
「ありがとう、生きててくれて、ありがとう」
心の底からの感謝が自然と口をついて出た。
イリス自身の能力ととっさの判断のおかげか、それとも単に運なのか。
瘴気に蝕まれながらも最後まで生存を諦めずに転移魔法陣へ逃げ込んでくれていた。
(俺のバカッ)
ふと我に返って思い返すとペイドランは起き上がり、自分の頭をポカッとやった。
第3階層までは探そうともしなかった自分が許せない。
まさか階層を跨いでいるとは思ってもみなかった。だが、イリスのことが大好きなのだから、当然に魔塔の全階層を隅々まで探すべきだった。
「ん」
イリスがモゾモゾと寝台の上で動き始めた。
自分の気配を察知してくれたのだろう。流石に騒ぎすぎたのだ。
より大きく動いてくれると、改めて、生きていると確認できた気がして、ペイドランは嬉しかった。
そっとイリスの左手を見つけて両手で握る。
「んん」
またイリスが呻くようにして、布団の中で身体を伸ばした。
碧い目がぱっちりと開く。
ぼんやりと辺りを見回して、一度はペイドランを素通りする。もう一度、視線が動き、はっきりとペイドランを捉えて目を瞠った。
「ペッド?」
ぶわぁっと、イリスの瞳からも涙が溢れてきた。
「そ、そんな。あんたまで死んじゃったの?嘘よ」
勝手にペイドランが死んだものと思い込んで、嬰児のように無防備な涙を流してくれるイリス。
もし、ペイドランが逆に目の前で死んでいたら、こんなに悲しませてしまっていたのかもしれない。生きていて良かった、と改めて思う。
「違うよ、イリスちゃん」
ペイドランはイリスの左手を握る両手に力を込めた。
イリスの左手も無意識に握り返してくる。
「俺たち2人とも、生きてるんだよ」
泣きじゃくるイリスを正面から見据えてペイドランは告げた。泣いていてもこんなに可愛らしいなんて、どういう造形をしているのだろう、とペイドランは思う。
一方でよほど、ジェネラルスケルトンに連れ去られたときには怖い思いをしたのだとも思えて、申し訳なくも痛ましくも思う。
「え、嘘。私、でもっ、あの凄い骸骨にやられて。きっと助けなんて」
戸惑うイリス。やはり転移魔法陣へ逃げ込んだのは無意識だったのだ。
生きているんだよ、とその肌に教えてあげたくてペイドランはイリスの腕やら脚やらをペタペタと触った。いつぞやのお返しだ。
「ちょっと、ペッド、くすぐったいよ」
イリスがもがくもどこか弱々しい。笑顔ではあるが、跳ね除けようとする手にも足にも力が入っていないのだ。ずっと意識不明で寝込んでいたからだろう。まだ、回復しきっていない。思えば水だけで食事もまったく取れていないのだから。
「あ、ごめんね、でも、ほら、生きてるのほんとだって、分かったでしょ」
ペイドランはお行儀よく座り直してから告げる。
「うん。信じらんない。けど」
イリスが改めて自分の体を確認した。大きな傷は1つもついていない。意識を失ったのは、あくまで瘴気で体の中を冒されたことによる。
「ホントに信じらんない。嬉しいけど。私、どうして」
ハッとイリスが顔を上げる。
「私のバカッ、ペッドたちが助けてくれたに決まってるじゃない。ありがとう」
とても心苦しい結論にたどり着かれてしまった。
顔を輝かせてイリスが礼を告げてくれる。
「違うんだよ、イリスちゃん。イリスちゃんは第3階層に逃げ込んでたのに、俺も誰も気付かなくて。てっきり、あの骸骨の瘴気で消し飛ばされたのかと思っちゃって」
情けなくて愚かな自分を思い返すにつけて、悔しくて申し訳なくて。ポロポロと涙が零れ落ちてきた。
「そっか、私、あのとき。確かに紫色の気持ち悪いのの向こうに、赤い光が見えたような気もして」
イリスがジェネラルスケルトンにやられたときのことを思い返して呟いている。『紫色の気持ち悪いの』とは、ジェネラルスケルトンの纏っていた瘴気のことだろう。
「たまたまなんだよ。シェルダン隊長とメイスンって人が通りかかって保護してくれてたんだって」
それがなければ、せっかく命を拾っていたイリスではあるが、魔塔の崩壊に巻き込まれて潰されていたのだ。
「俺、イリスちゃんを助けるのに、なんの役にも立ってない。ごめんね」
膝の上で拳を握りしめて、ペイドランは謝罪する。
「ペッドのお馬鹿」
イリスの口から呆れたような声がする。
案の定、幻滅されてしまったのだ。
「ペッドは何も悪くないよ。死にかけたのは私が実力不足だったから。こんなに心配してくれて。あんた、ヤケになって無茶とかしなかった?」
イリスが優しい言葉をかけてくれる。
確かに激情に任せて無茶をした。気まずくなって、ペイドランは横を向く。
「もうっ、ホントに2人して死ぬとこだったの?ペッドがそんなんじゃ、私、やっぱり絶対死ねないじゃないの」
イリスがゆっくりとした動作で上体を起こし、腕を伸ばしてペイドランの頬を撫でる。
「うん、俺、イリスちゃんに何かあったらやっぱり耐えらんない」
ペイドランは改めて宣言した。言い終えた後は口をへの字に結んでしまう。
口先だけならどうとでも言えるのかもしれないが、いざ実際にイリスになにかあったら頭の中は真っ白になってしまう。
「口先だけでも、大丈夫って、安心させるとこよ」
イリスが苦笑して告げた。
「でも、そっか。シェルダン隊長さんって、鎖の人だよね。また、助けられちゃったか」
しみじみとイリスが告げる。
「あっ、そういえば、セニアは?魔塔はどうなったの?まさか、私のせいで全部おじゃん?」
ようやくイリスがセニアたちのことを気にするところまで自分を取り戻した。
シェルダンとの対話をペイドランは思い出す。
病み上がりの体に、将来の話は重い負担となるかもしれない。が、ほうっておくとすぐにでもイリスがセニアたちに生存を知らせてしまうだろう。
(ごめんね、イリスちゃん)
申し訳なく思いつつも、ペイドランはイリスにシェルダンからの提案をいま相談しよう、と決めるのであった。




