137 ゲルングルン地方の魔塔第3階層1
足元は柔らかい草の地面だが、視界にはところどころに水面が見える。緑も深く、まばらに林や藪もあった。林の上を黒い鳥が群れをなして飛んでいる。
ゲルングルン地方の魔塔第3階層は沼地であった。
先行したペイドランは深くため息をつく。
(いかにも、水の中とか藪の中から何か襲ってきそうで嫌だな)
更にペイドランは、膝に力を溜めて、手は剣帯の上に置いた。いざとなったら、すぐに跳ねて避けて反撃するつもりである。
汗が顎をつたって流れ落ちた。何も襲っては来ない。
きっかり5分後、きらびやかな一団が、姿をあらわす。
さすがにゴドヴァンの姿を見てペイドランもホッと安堵してしまう。
「ペッド、大丈夫?」
真っ先にイリスが駆け寄ってくる。愛おしげにペタペタとペイドランの腕やら背中やらに触れてくるのだ。
「うん、今のところ、大丈夫。いかにも水の中に何かいそうで嫌だけど」
ペイドランは沼や池を見やり、苦笑いして答えた。本当は一切の心配をさせたくないのだが。つい不安をこぼしてしまった。
「無理しないで。今度は、私も一緒に行くよ?」
純粋な好意で提案してくれるイリスだが、だからこそペイドランも大切に思えてしまう。少しでも危険ではないところに置いてあげたいのだった。
(しっかりしなくちゃ)
気合を入れ直す。
「ううん、心配で判断を間違うほうが怖い。一人で行くよ」
ペイドランは答え、天幕を張り始めた。自分とイリスが話している間に、誰か設営を始めてくれても良いのに、と思う。
クリフォードもセニアも自分任せのところは、徹底して自分任せなのだ。
(言えば手伝ってくれるんだろうけどさ)
言われないと出来ないというところに、相手の育ちを感じてしまうのだった。
「いかにも一癖ありそうな階層だ。気をつけるんだよ」
設営を終えて、偵察に出るべくセニアからオーラをかけ直してもらっていると、クリフォードが声を掛けてきた。
イリスも心配そうに自分の周りをちょろちょろ回るので落ち着かない。
「行ってくるね」
ペイドランはそっとイリスの耳元で告げる。
怖いからこそなおのこと、イリスを出歩かせたくなかった。
湿地の中、少しでも水場から離れたところを進んだ。オーラを纏っているのでどうしても、自分は目立つだろう。魔塔に入ってから初めて気になりだした。
(それにしても、魔塔の空、鳥が飛んでるの初めて見た。どうせあれも魔物なんだろうけど)
時折、立ち止まっては辺りを見回す。さらに手元のノートに簡単に地形を書き込んだ。池や沼の形と足場になりそうなところぐらいである。
(なんだろう、すごく嫌な感じ。何かに見られてる?)
剣帯に手を置いたままペイドランは歩いていく。
じめじめと蒸し暑いせいだろうか。服が汗で張り付くように感じる。
(なんか俺、呑まれてる)
感覚を狂わされているような錯覚をペイドランは抱いた。
林の中、木々の間に黄色い影が過ぎる。
「くっ!」
とっさにペイドランは木々の合間を縫って飛刀を放つ。
(避けられた?)
ペイドランは慌てて木陰に身を隠した。
怖い相手だと分かる。肌がひりつくような感覚だ。当たると思って撃った飛刀を避けられたのも久しぶりである。
(あの色、反応の早さ、まさか)
ペイドランは深呼吸して落ち着こうとする。
「グルルルルッ」
低い唸り声が、鳥肌が立つほどの近くから聞こえる。
攻撃の気配。
感じ取ると同時にペイドランはその場から前方へ転がるようにして逃れる。身を隠していた木が砕けて木片となって降り注ぐ。
振り向きざま、飛刀を何本も惜しみなく放つ。
今度は当たった。しかも幸いなことに相手の右目だ。
(やっぱりハンマータイガー)
黄色い巨体に発達した前脚。背中の黒い毛が逆だっている。間違いない。
「グガアッ」
視界を潰されて、闇雲にハンマータイガーが丸太よりも太い前足を振り回す。一発どうしても避けきれない。狙っているのではない分、かえって避けられなかった。
「うわぁっ」
ペイドランはとっさに鞘に入ったままの片刃剣で受け止める。
衝撃に逆らわず跳ぶことで、身体を折られずに済んだ。しっかり狙いすました一撃であれば、受けても片刃剣ごと背骨を折られていただろう。
「しまったっ!」
ペイドランは声を上げた。視界の隅でそそくさと目を押さえてハンマータイガーが逃げ去っていく。
問題なのはふっ飛ばされたことで、水面の上にいることだ。
とっさに近くの水面にあった岩を蹴って跳躍する。
岩ではない。亀だった。自分の足があったところに首を伸ばして噛み付いている。のうのうと足を置いていたら噛み千切られていた。
(危ない、ほんといやだ)
冷や汗をかきつつ、沼の中洲に着地した。
一瞬の間。地面が前触れ無く、自分ごと持ち上がる。
「うわぁっ」
思わずペイドランは悲鳴をあげた。
(沼獣だ)
地面と見間違うような茶色の巨体に、苔が生えて全身を覆う。正面に回ると危ない。大口を開けて飲み込もうとしてくるからだ。
だが、今いるのは背中だ。ペイドランはそっと気配を消して、沼獣からほど近い岸に降り立った。駆け去りたいところをあえて動かない。
自分に気付くことなく、沼獣は沼の真ん中へノッソリと戻り歩いていく。
一息ついて、安全を確認してから木の陰に隠れる。
ようやく安全地帯だ。纏わりつくような視線も今はもう感じない。
(さっきのハンマータイガーだったのかな、あの嫌な感覚は)
ペイドランは思いながら、また地図に新しい情報を書き込んでいく。
これだけ魔物との命懸けの駆け引きに振り回されても、方向感覚を失わない自分にウンザリする。そのせいで、こんな危ないことを押し付けられているのだ。
思っていたら、泣けてきた。
「イリスちゃん、シエラ」
大好きな2人の名前を呟いて、そっと溢れた涙を拭う。
(弱音を吐いてても駄目だ。俺、今、自分しかいないんだから)
ペイドランは顔を上げた。助けが来てくれるわけもない環境である。泣いてもすぐ自分を立て直さないと死んでしまう。死んだら大好きなあの2人にももう会えないのだ。
ここまでの情報を纏めてから立ち上がる。
嫌な気配を感じない。まがりなりにもハンマータイガーを撃退したからだろうか。
「あれ、ハンマータイガーの気配だったのかな?」
首を傾げつつもペイドランは周囲の探索に打ち込んだ。
木に巻き付いていた大蛇を数匹と岩に擬態していた亀を仕留めたころには、オーラがかなり薄くなっていた。
ペイドランはセニア達のいる拠点へと向かう。自作の地図を見ながら、用心深くしばらく歩いた。道中もしばしば小さな魔物に襲われる。蛙や亀の魔物だ。
(もう少しっ)
最後の力を振り絞るようにペイドランは残った飛刀を惜しみなく投げて応戦した。首や頭といった急所を射抜くか手傷を追わせてから逃げる。
光が見えた。ゴドヴァンがオーラを纏って見張りに立っている。
ゴドヴァンのもとへたどり着く頃にはすっかり疲れ果てて、飛刀もほとんど使い切っていた。
「ペッド!」
天幕の中で倒れ込むようにして大の字になったペイドランを見て、イリスが悲鳴をあげる。
「大丈夫?怪我してるじゃない」
イリスが泣きそうになりながら悲鳴をあげる。
今更ながら安心するとペイドランは右の脇腹に痛みを覚えた。ハンマータイガーに打たれた時、肋を痛めたようだ。
「すぐ治療するわ。疲労もひどいわね。何があったの?」
ルフィナが早速、回復光をかけてくれながら言う。
「ハンマータイガーがいて、2回ぐらい叩かれました」
大の字のまま、ペイドランは答える。体がだいぶ楽になってきたように感じられた。
(とにかく、生きて帰って来れた、良かった)
心配そうなイリスの可愛い顔を見て、ペイドランは心底ホッとするのであった。




