ゆまり -転生譚-
《ゆまり -後日譚-》から繋がる転生譚
私は死んだ。何故死んだかは覚えていないが確かに死んだはずだった。だが今の私には意識もあり肉体もある。
そして今私の頭上には雲1つ無い真っ青な空が広がり、目の前には大理石の様に光沢のある一面真っ白な地面が見渡す限り果てしなく続いていた。太陽がある訳でも無いのに明るいその場所には小さい虫の羽音すらも無く、逆に耳が痛く感じる程に音の無い世界が広がっていた。
暫く呆然としながらも周囲を見渡すと、遥か遠くに黒い点が見えた。見渡す限り何も無い場所で何もする事のない私は、その黒い点に向かって歩き出した。
どれくらい歩き続けたであろうか。暫く歩き続けたが疲れる事は一切なく時間の感覚も一切ない中、徐々に近づく黒い点の輪郭がはっきりと見えてきた。それは一見すると国会議事堂のような形をした建物で、入口らしき門柱の場所には黒いスーツ姿の男が立っていた。やけに太い黒のフレームの眼鏡をかけたその男。凡そ30代と思しきその男はずっと私が来るのを待っていたとでも言うようにして一切微動だにせず両手を前に組み、ニコニコとした表情で以って私を見ていた。そして私がその男の前までやって来ると「お疲れ様です」と言って恭しく頭を下げた。
「あの、ここは一体……」
「ここは輪廻転生館です。さ、どうぞ中へお進みください」
男はニコニコとした表情を一切崩さずに私を建物へと誘った。私は如何にも胡散臭いその男に一抹の不安を感じたものの、この建物以外に何も存在しないのだから進むしか選択肢は無い事もあり、その男の誘いに従った。
建物の中へと入ると横一列に長々と続くカウンターが目に留まった。一見すると横長の受付のような場所。カウンターにはずらりと人が列を成し、カウンターの内側には如何にも受付嬢といった同じ顔の同じ格好をした20人程の女性がずらりと座っていた。その一人一人の前にはパソコンらしき物が置いてあり、カウンターに並ぶ人にも見える様にディスプレイが配置されていた。
ニコニコ顔の男は「空いている列にお並び下さい」と言って去って行き、私は1人だけしかいない列を見つけると素直に後ろへと並んだ。
私の前にいた中年と思しき小太りの男性。坊主頭のその男性は見るからに強面でピッチリとしたアーミーグリーンのTシャツとアーミーグリーンのカーゴパンツを履き、袖口からは刺青のような模様がチラチラと見え隠れしていた。男性はカウンターにもたれかかる様にしてカウンター内の女性に食ってかかる様にして話していた。
「ああ? 何で俺がゴキブリに転生しなけりゃいけねーんだよ!」
男性はディスプレイを見ながらそんな怒号を上げたが、カウンター内の女性は一切動じる事無く、無表情のままにそんな怒号を聞いていた。
「繰り返しますが、あなたは生前の行いにより転生出来る物はゴキブリかダニだけです。どちらに転生しますか?」
「つうか何でゴキブリかダニなんだよ! 人間に転生出来ねーのかよ!」
「はい、出来ません。あなたの魂はゴキブリかダニに10回の転生を繰り返した後に自動消滅します。それがあなたの罪に対する罰です」
「ふざけんなよっ! だったら今すぐ消滅してやるよ!」
「それは不可能です。それではこちらで勝手に決めさせて頂きます」
女性がそう言った途端、目の前の中年男性がフッと消え、女性は無表情なままに「では次の方どうぞ」と私に視線を移し言った。
「あ、すいません。何かここに並べと言われて……」
「初めての方ですね。ではまず最初にお聞きします。転生を求めますか? それともこのまま消滅なさいますか?」
「転生? 消滅?」
「はい、魂は輪廻します。あなたは転生を求めるか、若しくはこのまま魂を消滅させるか選択ができます」
「でもさっきの人は消滅出来ないとか……」
「あの方は生前の行いにより罰が適用されました。ゴキブリかダニへの転生を10回繰り返した後に魂が消滅します」
「生前の行いによりそう言った事が決まると?」
「はい、そうです」
「では私もゴキブリかダニに転生すると言う事ですか?」
「いえ、あなた様は人間、もしくはその他の動物に転生する事ができます。もちろんゴキブリかダニへの転生も可能です。ただし上位転生には条件がありますのでお気を付け下さい」
「上位転生?」
「はい。一応ここでは人間を最上位と位置付けております。人間、動物、そして虫、植物といった順位となっています。下位への転生は無条件に可能ですが虫から動物へ、動物から人間へと言った上位へ転生する際には条件があります」
「条件とは?」
「上位の者によって殺められた場合にのみ上位転生が可能です」
「人間によって殺められた動物、虫や植物であれば人間へと転生するという事ですか?」
「そう言う事です。同位によって殺められた場合には同位かそれ以下への転生となります」
「なるほど……先程の人は何故にゴキブリかダニなんですか?」
「先の方の魂は既に穢れています。ゴキブリとダニは人間から忌み嫌われる存在であり、それに10回も転生を繰り返す事で魂がある程度まで浄化されていきます。浄化される存在、それこそがゴキブリかダニなのです」
「先程の人はその後に消滅するといってましたよね? 浄化したのなら人に転生してもいいのでは?」
「いいえ、穢れた魂には傷が付いています。その傷は転生を繰り返したとしても消す事が出来ません。傷は消せませんがある程度の浄化は可能です。まあ、俗世で言うところの汚水処理場のような考え方でしょうかね。ある程度綺麗にした後に川へと流して海に捨てるとご理解ください」
「なかなかシビアですね……」
「そうですか? あ、それと人に転生を繰り返した場合でも5回程が限度です」
「何回でも転生出来るから輪廻と言うのではないのですか?」
「仰る通りなのですが、魂は転生を繰り返すに従って痩せて来る物です」
「魂が痩せる?」
「痩せるというのは抽象的表現ですけどね。短命になりやすくなると言うか、体が弱くなると言うか。最初に生まれた魂は芯の太いロウソクであり、転生をする度に芯の細いロウソクになってゆくと言う表現の方が分かりやすいですかね。とりあえず何処かしらに影響します」
「そういう物なんですか……」
「はい。その際にはこの輪廻転生館を訪れる事無く魂はその場で消え去ります。文字通り雲散霧消します」
そこでふと思い出した。私は自分が何故死んだのかは覚えていないが、私には会いたい人がいる。ほんの少しの時間でも良いから会って伝えたい事がある。生前に言えなかった言葉を何としてでも伝えたい。
「あの、転生した場合に今の私の記憶はどうなるんですか?」
「記憶についてはリセットされます。ただ稀に前世の記憶を保ったままの人もおります。デジャビューと言われる現象がそれに当たり断片的に思い出される方も居ます。稀に完全に保ったままの方もおられます。こればかりは運と言う物ですね」
「運ですか……」
「はい、運です」
「じゃあ人に転生したとして今会いたい人が居た場合、その会いたい人の記憶すらも無くなる可能性があると言う事ですか?」
「そうなる可能性があるというよりは、そうなる事が前提です。そしてそのチャンスは凡そ5回程です。尚、人間に転生する場合、今のあなた様が日本人だとしても稀に日本人以外に転生する事もありますのでご了承ください」
転生したとしてきっと私は全くの別人になるという事なのだろう。であれば転生に何の意味があるのか分からない。しかし今の私には会いたい人がいる。故に転生したいと思った。だが転生した場合には今の記憶が残る可能性はほぼ無いという。そもそも日本人に転生出来るかどうかすらも分からないという。とはいえこのまま消滅する気にもならない。可能性がゼロでないというのなら賭ける以外に道は無い。
「転生をお願いいたします」
「畏まりました」
女性がそう言った瞬間、私は真っ暗やみの中へと放り込まれると同時に意識を失った。
そして私が意識を取り戻すと真っ暗だった。というよりも瞼を開く事が出来なかった。何とか力を込めるとようやく薄眼を開く事が出来た。だがどうにも寒い。手脚も思うように動かないし、言葉を発する事も出来ない。そしてチラリと見えた私の手はものすごく小さかった。
私は赤子として転生していた。正しい言葉を口にする事は出来なかったが理解できる脳を持っていた。そして私の目に映るのは高校生と思しきセーラー服姿の女の子。その子は私に対して少しの笑みを見せる事無く、否、まるで汚い物を見るかのような目を私に向けながら私を毛布で包み、そしてビニール袋へと入れて何処かへと連れて行った。そしてその状態のままに私は力尽き息絶えた。
再び私が目を覚ますと、そこは先の輪廻転生館。私は赤子の姿で先のニコニコ顔のスーツ男に抱かれていた。そしてそのままカウンターへと運ばれ、「じゃあこの子お願いね」と、カウンターの上に置いて行かれた。カウンター内の女性は私には目もくれずにパソコンのキーボードを目にもとまらぬ速さでカタカタと打ち続ける。その様子を暫く見ていると、私は再び真っ暗闇へと放り投げられた。
そして再び私が意識を取り戻すと又も真っ暗だった。というよりも先と同様に瞼を開く事が出来なかった。だが今度は温かさを感じた。そしてなんとか薄眼を開くと、そこには見知らぬ若い女性の顔があった。女性は私を慈しむようにして私を抱いていた。私は再び赤子に転生していた。その瞬間までは過去全ての記憶があったが、その時を境にそれら過去の記憶が消えて行った。
それから20年が過ぎようとしていた。そして私が20歳の誕生日を迎えた時、唐突に前世、否、最初の世界の記憶が蘇った。私には会いたい人がいた事を思い出した。その為に転生を選択した事を思い出した。私はすぐに彼女に会いに行こうと決めた。
だがその人は東京にいる。そして現世の私が生まれ育ったのは沖縄県。私が生まれた家は貧困とは言わないまでも裕福とまではいえず、生活費を賄うためのアルバイトをしながらの大学生として忙しい日々を送っている。経済的においそれと東京へ行く金も無い。だが私は全てを二の次にアルバイトを増やし、急いで旅費を稼ぎ始めた。そして今直ぐにでも会いたいという思いで後先考えず、片道分の旅費が溜まると直ぐに飛行機へと乗り込んだ。
2時間程のフライトを経て東京へと降り立った私はおぼろげな記憶を頼りに彼女のアパートへと向かった。私も最初の人生では東京に住んでいたはずであり、東京のラッシュアワーにも慣れていたはずではあるが、沖縄に20年も住んでいたせいもあってか勝手の違いに戸惑い、人混みといったプラットホームを歩くのにも苦労した。気が急いていたのかもしれない。私はプラットホームの端を駆け抜けるようにして通ろうとした。そしてほんのちょっと人とぶつかった。その拍子にホーム下へと転落し、丁度そこへ電車が滑り込んできた。
私は成人の姿で再び輪廻転生館を訪れていた。
「転生をお願いします」
そして再び私が意識を取り戻すと又も真っ暗で、先と同様に瞼を開く事が出来なかった。何か温かい声が耳に届くものの目を開く事は出来ない。再び赤子に転生していたであろう事はすぐに分かった。そこまでは前世の全ての記憶もあったが、直ぐにそれらの記憶は全て消え去った。
そしてそれは私が5歳の頃だった。私は小学校からの帰り道、ふと別世の記憶が蘇った。そこで全ての記憶を思い出した。会いたい人がいるのだという痛烈な想いが蘇った。肉体も精神も5歳児なのに成人の記憶が蘇った。それも幾つもの人生の記憶が5歳児の頭へと流れ込んだ。その事で私はパニックを起こし、思わず車道へと飛び出してしまった。そして再び私は輪廻転生館を訪れた。
「転生をお願いします」
そこからの私には別世の記憶は無く、転生した世界の記憶しかなかった。私はその時代で平凡といっていい人生を歩んでいた。
小学校、中学校を無難無く過ごし、高校に入ってからは彼女も出来た。その彼女とは同じ大学にも入り、大学の卒業を控えた頃には「社会人になったら結婚しよう」とプロポーズした。そしてお互いに社会人となり半年が過ぎ、両家の顔合わせも無事に済ますといよいよ結婚式が間近に迫っていた。
そして結婚式を明後日に控えたその日、私は新婚旅行に来ていく彼女の洋服の買い物に付き合っていた。正直言えば女の服選びなどに付き合いたくはないが、これも義務と言うものであろう。とはいえ何着も試着しては「どう? 似合う?」と言われても、「良く似合うと思うよ」という言葉以外に私が発する事は無い。そんな曖昧な感想しか言わない私に気を遣ったのか、次に試着した姿を見せる際、彼女はちょっとした工夫を凝らした。
「ねぇ? こんな髪型って私に似合うかな? なんてね」
7着目の姿を見せた際、彼女は今までに見せた事の無いツインテールという髪型で現れた。その姿を見た瞬間、唐突に何かの映像が私の脳へと入り込んできた。おぼろげに見えたその映像はツインテールの髪型をした女性のシルエット。私にはそれが誰だか分からなかったが、瞬間的に動揺してしまい思わず俯いた。
「ちょっと急にどうしたの? 具合でも悪いの?」
「……あ、いや、何でも無い」
突然の私のそんな様子を酷く心配した彼女は「今日はもう帰ろう」といって買い物を切り上げ、私達2人はそのまま駅へと向かった。そして彼女を家まで送り届ける為に一緒に電車に乗り込もうとするも、「具合悪そうだから今日は送ってくれなくて良いよ」と、彼女は1人電車に乗り込んだ。
「じゃあ、明後日式場でね。遅刻厳禁だからね」
電車のドアが閉まる瞬間、彼女は手を振りながら笑顔でそう言った。そして彼女を乗せた電車を見送った私は反対側のホームへと滑りこんできた電車に乗って自宅への帰路へ就いた。
帰路の道中も私の脳の中には断片的に映像が入り込み、その都度頭痛を覚えていた。ひょっとして過去に見たテレビの映像だろうか。サブリミナル効果を謳った何かの番組出ていた女性の姿なのだろうかと考えるも、全くその女性が誰なのか思いつかない。そしてその映像は留まる事無く私の脳へと入り込む。次第に映像だけでなく気持までもが入り込んできた。それはその女性を一心に想う気持ち、強く想う気持ち、慕う気持ち。いよいよ以ってこれは前世の記憶では無いかとオカルト的な発想に至る。
『私は明後日には結婚するんだ。仮にそんな前世の記憶があったとして何だと言うのだ』
今の私にとって必要のないその記憶。私の知らない時代の私の知らない女性を強く想う気持ちに押し潰されそうになる。
頭痛を覚えながらもようやく自宅へと到着した私は、家に入るなり鎮痛薬をビールで流し込んだ。そしてほぼ飲んだ事の無い父親のウイスキーをストレートで口にした。その飲み合わせもの甲斐もあってか直ぐに酔いが回り始め、私は倒れるようにしてベッドの中へと潜り込んだ。
翌朝、自然と目を覚ました私は軽い2日酔いを覚えた。ベッドから上半身を起こした状態でしばし呆然としていると頭の中で激痛が走った。それと同時に又も記憶が蘇る。昨日はおぼろげに見えていたツインテールの女性。私が見た事の無いその女性の顔がはっきりと脳裏に浮かんだ。凡そ40歳ぐらいの女性。それは誰だと必死に記憶を辿るが名前は思い出せない。だがその女性の笑顔の映像がしきりに脳裏を駆け巡る。私の知らない私がその人の事をとても大切に思っていたという強烈な気持ちが溢れて来る。そしてその人が住んでいたアパートの場所の記憶すらも蘇る。ピンク一色といったその女性の部屋の様子も微かに蘇る。
何故に今頃そんな記憶を思い出させるのだと、私の前世の者には何か心残りでもあるのかと、私が見知らぬその女性に前世の私が会いたいとでもいうのかと、そんなオカルト的な発想に至る。
そんな前世の記憶は留まる事を知らずに蘇り続ける。同時にいくつかの前世の記憶も蘇る。死ぬたびにその女性を想って転生したという理解できない記憶がよみがえる。それは頭痛となって尚も私を襲う。もはや鎮痛薬でどうにかなる物でも無い。医者を頼ればおかしな診断を下される気もする。だったら前世の私の想いとやらを遂げてやろうじゃないと、私はその曖昧な記憶を頼りにその人のアパートへと向かう事にした。
存外すんなりとそのアパートの場所へと辿り付いた。だがそこにアパートは無く雑草生い茂る空地であった。やはり単なる不可思議な記憶だったのだろうかと思ったが、その空地の隣の家には見覚え、というより記憶があった。その家の前では高齢の男性が家の前を掃除をしていた。
「すいません。ちょっとお尋ねしたいんですが、昔ここの空き地にアパートが建っていたと思うのですが」
「ん? アパート? ああ、それなら随分前に取り壊したんだよ」
聞けばその高齢男性はそのアパートの大家だったと言う。古くなり建て替える金も無く取り壊したという。
「あの……つかぬ事をお聞きしますが、そのアパートにツインテールの女性が住んでいませんでしたか?」
「ツイテル女性? 何それ?」
「あ、髪型の事です。こんな感じに髪を結んていた女性です」
私はジェスチャーで以ってツインテールを説明した。
「ああ、はいはい。あの人の事ね。覚えてるよ。なんせ20年近く住んでいたしね」
私が直接見た事の無いその女性が実在した事に少なからず驚いた。正直自分を疑っていた。結婚を目前にして精神的に病んでいるのかと自分を疑いもしたが、とりあえずは私の頭がおかしくない事が証明出来た事に安堵した。それと同時に不安も覚えた。やはり私の頭に入り込む映像の全ては前世の記憶なのかと。
「あの、その女性が今何処に居るかは知りませんか?」
「というかお兄さんは誰? あの人の何?」
ここで私は思い至る。蘇った記憶が正しいとすれば、私は転生する際に過去へと戻ってやり直している訳では無い。同じ時間軸の中で転生を繰り返しているに過ぎない。そして彼女はその時間軸をずっと生きている。とすれば今の彼女は一体何歳なのだろうかと。
「実は私の祖父がその方を探しているんです。昔の想い人だったとかで……」
咄嗟に思いついた私のそんな説明に、男性は眉間に皺を寄せつつ無言のままに家の中へと入って行った。流石に無理な説明だっただろうか。きっと不審に思った事だろうのなと、ひょっとしたら通報でもするつもりで家に戻って行ったのかもしれない。であればここはおとなしく帰るべきだろうかと思った時、男性が戻ってきた。
「今もいるかどうか分からんけどね」
男性はそう言って1枚の紙を私に差し出した。
「お兄さんの言う女性ってその人の事だろ?」
男性から渡されたのは1枚の葉書。その葉書には何の変哲も無い家の前を背景に、互いに寄り添うようにして写る男女2人の写真が印刷され、それと共に「お世話になりました」という文字が手書きされていた。女性の方は私の記憶に入り込んだ40代と思しきツインテールの女性。その隣には女性と同世代と思われる見知らぬ男。私は葉書を裏返し差出人の名前に目を向けた。そこには「福岡ゆまり」という名前が書いてあった。私が知らないはずのその名前。だが「ゆまり」という名前を見た瞬間、曖昧だった私の記憶が直接私が目にしたかの如くはっきりとした記憶となって蘇る。
「結婚するとかでアパートを出て行ったんだよ。その後にわざわざお礼の葉書が来てね。それがその葉書だよ。って、ちょっと泣いたりしてどうしたの? 大丈夫かい?」
知らず知らずのうちに私の頬には涙が流れていた。そんな私の様子に男性は動揺した。当然であろう。祖父の想い人と言っていたにも拘わらず、その孫にあたるという男が葉書を見て泣きだしたのだ。不審感この上ない事だろう。かといって涙の訳を説明も出来ない。
「いや、すいません。祖父がずっと気にしていたのを知っていた物で、この方が結婚して幸せになっていると祖父に伝えたらどんなに喜ぶだろうかと思ったら感極まってしまいました……。そうです。確かにこの方です。ゆまりさんと言う女性です」
「そう、じゃあ結婚しているのを伝えたらお爺さんも喜ぶでしょうね」
「そうですね……」
「その人はちょっと変わっていた気もするけどいい子だったんだよ? でも理由は知らないけど男性に去られてばっかりだったようでね。ひょっとしてお兄さんとこのお爺さんも去った男の一人なのかな? 若しかしたらそれを悔やんでいたのかな?」
「……さあ、あまり詳しい事は聞いていませんが……。あの、この住所を写していいでしょうか?」
そんな言葉は一蹴されるかと思ったが、男性は私の目を数秒間ジッと見つめた後、「ああ、いいよ」と笑顔で言った。私は携帯電話のカメラで以ってその葉書に記載された住所を写真に収めた。
そして私は男性に向かって深々と頭を下げつつ礼を言ってその場を後に、その足で以って葉書に書いてある住所へと向かった。そこは1県跨いだ向こうの県で電車に乗って数時間かかる場所だった。明日は私の結婚式でもある。万が一にも今日中に帰れなくなったとすれば一大事でもあったが、私の中で蘇った気持ちが抑えきれず、一路その場所を目指した。
陽も落ち始めた午後4時過ぎ。私は葉書に書いてあった住所の前へとやってきた。そこは先に見せて貰った葉書に写っていた家。経年劣化の為か葉書に写っていた家よりもだいぶ古ぼけて見える平屋の1軒家が建っていた。とはいえそこに人の気配は全く感じない。
そしてその家の入口付近の表札には「福岡九州男」という名前が書かれていた。その名前の隣にはそっと寄り添う様にして「ゆまり」という名も記載してあった。その名前を見た瞬間、胸の鼓動が速くなるのを感じた。
本来であれば明日にも結婚する私が彼女に会って何も言う必要などは無いはずである。彼女にしてみても今更何を言われたとて無意味であろう事も分かっている。そもそも私の姿はあの時とはまるで違う容姿であり勿論名前も異なる。父も母も毎回異なるのだからそれは当然だ。きっと彼女が気付く事は無いだろう。私を見ても何も思わないだろう。私があの時の男であると言っても信じないだろう。むしろ何らかの詐欺と思われるかもしれない。それでも彼女に会うために、あの時伝えられなかった事を伝えるが為に何度も転生を繰り返した。記憶が確かであれば私は5回転生した。そうであれば恐らくこれが最後の転生だ。次の転生は無く、恐らく彼女の年齢からしても2度と会う機会は無い。
「あの……」
不意に後ろから声を掛けられ私は思わずビクッとし、恐る恐る声のした方へと振り向いた。
「うちに何かご用でしょうか?」
私の目の前には白髪の長い髪をツインテールにした高齢の女性が立っていた。私は幾度かの転生を繰り返し、時には数十年の別の人生を生き、思えば最初に死んだ時から40年以上が経過していた。私の容姿は都度変わってはいるが、彼女はそのまま生きて年を重ねていた。今の私には全ての記憶が明瞭に蘇っている。その時の気持ちを含めて全て蘇っている。私は今まさに目の前にいる女性に逢う為に転生を繰り返したのだ。
「あの……」
「はい、何でしょうか?」
「突然で申し訳ありませんが、あなたの名前は『村田ゆまり』さんでしょうか?」
「……それは旧姓ですが……それで私に何か御用ですか?」
案の定、彼女は私の顔を見ても何も気付かず眉間にしわを寄せた。彼女からすれば初めて会う見知らぬ若い男が突然現れ、且つ自分の旧姓を口にするのだからそれも当然の反応であろう。
私が来る事は彼女からすれば迷惑千万な事かも知れない。それでもその為だけに私は転生を選択した。5回の転生をしたと言う事は4回死んでいると言う事だ。それら全ての人生に於いて私は親より先に死んでいる。その内の1つの人生に於いては赤子だった私を棄てた親も存在はした。それは置いておくとして親より先に死んでいるのは間違いない。その親達にも会っていないし会おうともしていない。きっと我が子が死んだ事に嘆き悲しんだ事であろう事は想像に容易い。全ての記憶が残る私にとってかつて親だった人達も大事な存在ではあるが、それを差し置いてでも会いたかった人が今目の前にいる。
「私、鷲尾崎健二と言います」
「はあ……鷲尾崎さん?」
私は現世の名を名乗らず、あの時の名前を名乗った。それでも彼女は気付かない。別に構わない。私はただ単に自分に課した決意を果たしに来ただけなのだ。その為だけに転生を繰り返したのだ。それを果たせば私は現世の自分へと帰るだけ。そしてこの現世で目の前の彼女とは別の女性と結婚して生きていくだけだ。
「あの、ゆまりさんにずっと言いたい事があってやって参りました」
「……はい、何でしょうか?」
彼女は切ない笑顔を私に見せた。私は笑顔の彼女が好きだった。思い返せば影のある笑顔であった気もするが、それでも彼女の笑顔が好きだった。その切なさそうな笑顔を本当の笑顔で満たしたかった。だが既に彼女が結婚しているのであればそれは私の役目では無い。そもそもその為に来た訳でも無い。本来であればここに来るべきでもなかったのかもしれない。言うべき事でも無いのかも知れない。だがそれを言う為だけに私は数回の転生を選択したのだ。何と思われようとも今を於いて他に機会は無い。私は目を瞑りゆっくりと深呼吸をした後、彼女の目をまっすぐに見つめた。
「ゆまり、君の初めての手料理を食べさせて貰った後、本当は伝えたい事があったんだ。だがあの時僕は理由が不明なままに死んでしまった。だからあの時伝えられずにいた言葉を、今改めて言わせて貰う」
「……」
「ゆまり、俺はずっと君の事が好きだった。きっと初めて会った時からずっと好きだった」
ゆまりは私の言葉を唖然とした表情で聞いていた。それは仕方がない。白髪の高齢女性に対して孫や曾孫と言えるほどの若い見知らぬ男が告白しているのだ。傍から見れば怪しい事この上なく、ゆまりからしても何の事かさっぱり分からない事だろう。疑われても仕方がない事だろう。ひょっとしたら「誰かと勘違いしているのかな」などと思っているのかも知れない。
それでもいい。これで私は前世の自分が課した決意を果たす事が出来たのだ。何度も転生しあの時に言えなかった言葉を伝える事が出来たのだ。もしも未婚のままだったら私はどうしていたのか分からない程にゆまりを想っていた。だがゆまりは私の見知らぬ男と結婚して幸せになっているようだ。私が告白した事でゆまりが悩んだとしてもそんな事はどうでもいい。恩着せがましい言い方かもしれないが、わざわざ転生してまでゆまりの元へとやって来たのだ。この後にゆまりが悩んだとしても、その足代として十分に相殺されるというものだろう。
「言いたかったのはそれだけです。では……さようなら」
私は頭を下げつつそう言って、すぐに踵を返してその場から立ち去った。きっと唐突に告白した私をゆまりは不思議に思っているのだろう。口を半開きにおとぼけ顔で私の背中を見ているのだろう。その表情を思い浮かべると何故だか懐かしく愛おしい。告白したら何故だか体が軽くなった気もして足取りも軽い気がする。そして私は一度も振り返らず、一路自宅へと帰って行った。
翌日、私は無事に現世の彼女と結婚した。多くの人に祝福されて結婚する事が出来た。
それから数年後の後、私と妻の間に女の子が生まれた。それと時を同じくして、ゆまりがこの世を去った事を風の噂で知った。その際、ゆまりの夫が結婚した暫く後に原因不明の病で急逝し、それ以来彼女は再婚もせずに1人で生きていたらしい事も知った。
ゆまりがどんな最期を迎えたのかは知らない。それを調べるつもりも無い。ゆまりの最期が一人きりであったのだとしたら、せめて私が傍にいてあげたかったという後悔が無い訳では無いが、今更何を言ってもしょうがない。既に私は別の人間として現世を生きているのだ。
だがふと思う。ひょっとしたら私の元に生まれた子供にはゆまりが転生したのかも知れないと。だからと言って生まれた子供に「ゆまり」と名付ける事はしない。妻はゆまりの名を知らない。故にその名前を付けたとしても気付く事はないだろうが、やはりそれは正しい事では無いだろう。それは妻に対する冒涜であろう事は明らかだ。だから私は妻と話し合って全く別の名前を考え、その子には「ゆかり」と名付けた。
その日以降、私の記憶からは別世の記憶は薄れ始めた。あんなに好きだったゆまりの笑顔すらも覚束無い程に忘れ始めていた。
きっと前世の記憶などは消えて良い物なのだろう。必要が無い物だろう。だが本当に忘れてしまって良いのだろうかと自問するも今はその答えが出せない。故に私は今ある全ての記憶をこのノートに記しておく。別世の記憶が消えた私がこのノートを読み直した際にはどう思うのだろうか。下らない妄想小説の下書きとでも思うのだろうか。だったら焼くなり捨てるなりすれば良いだけの事だ。今はかつて私が好きだった、否、心から愛し転生までして会いたかった「村田ゆまり」という女性が存在したという記憶を忘れたくないという思いでこれを記しておく。もちろん妻には絶対に内緒だ。これ位の秘密であれば神様も許してくれるだろう。
今私は娘と一緒に近所の公園に来ていた。そして砂場で遊ぶ娘を見つつ、そんな内容が書かれたノートを読んでいる。私の部屋の本棚を整理していて見つけたそのノート。数年前に書かれたであろうそのノート。転生やら輪廻やらと書かれたそのノート。筆跡からすると間違いなく私の字。だが私にはそんな事を書いた記憶が全く無い。仮に私が書いたとして、一体私はどんな心境でこれを書いたのだろうか。内容からして自分の神経を疑いたくなる程に滑稽な話が書いてある。
話に出てくる「村田ゆまり」という女性。聞いた事も無いその名前。しかしノートの中には私の妻らしき女性も登場し、「ゆかり」という娘の名前すら登場している。私の筆跡に間違いはないはずなのに書いた記憶の無いその内容は恐怖感すら覚える。こんな物は焼いて捨てたほうがいいかと思うぐらいに気味が悪い。
「パパー、見て見てー、お城ー」
「おー、よく出来てるねー」
娘は服が汚れる事を一切気にする事無く砂場で以って城の様な物を一心不乱に作っていた。それに飽きると今度はおままごとらしき遊びを始めた。少し湿った土で以って泥団子を作り、決して食べられないそれを「はいパパ、どうぞ」と私に薦めてきた。私は笑顔で以って「ありがとう。美味しそうだね。じゃあ頂きます」と、それを手に取り口の中へと入れる真似をした。
その瞬間、何か懐かしさを感じると共に心に風がスーッと通り過ぎたのを感じた。その風が『ありがとう』と言った気がした。いや、『さようなら』だったであろうか。その風は優しく温かさを運んできたと同時に、一抹の寂しさを私の心に置いて通り過ぎて行った。
「パパ、どうして泣いてるの? どっか痛いの?」
「え?」
私の頬には知らぬ間に涙が伝っていた。そんな私を娘が心配そうな眼で見つめていた。
「何でも無いよ」
私はそう言いながら袖口で以って涙を拭き、娘から貰った泥団子をそっと砂場に置くと、娘を抱きよせ強く抱きしめた。
「ゆかり、ママが待ってるからそろそろお家に帰ろうね」
私は抱きしめた娘をそのまま抱え上げると、公園を後に妻が待つ我が家へと帰って行った。
娘から貰った泥団子。砂場に置かれたその泥団子は、翌日には跡形無く消えていた。
2020年01月06日 初版