おはよう異世界のアパート
全身が熱湯に浸されているかのような錯覚を受け、那由多は意識を取り戻した。
「っだあ、あっちい! んだここは! 死んで早々地獄送りか!? 灼熱地獄に直行コースってかああん!?」
「うひゃああっ!?」
脇目も振らず上体を起こす。後方で乙女チックな悲鳴が聞こえたが気にしない。
とにかく確かめたい情報が多すぎた。
手良し、足良し。五体満足。ダサいシャツを着せられていることに不満はあるが後回し。
周囲はさっきの悲鳴の主である少女を除いて人影なし。見覚えのないアパートの一室にいることを確認。
鬼の姿なし。死神不在。ゆで釜も針山も燕尾服着こなした悪魔もなし。
つまりここは、地獄ではない。QED。
「な、なんなのさー……生き返らせた後、すぐに飛び起きる人がいるなんて聞いてないよ……」
やけに暑いと思ったら太陽さんさんで夏じゃねーか日本いま冬だぞどうなってやがる南半球かよ、どの国まで拉致られたんだよちくしょうめ! と脳内で一人暴走していた那由多。
だが、少女の呟きを拾った瞬間、那由多の顔から険しい表情が抜け落ちる。
「生き返った。よみがえった。あの隕石でおっ死んだはずのこの俺が」
尻もちをついた体勢のままの少女へと歩み寄り、しゃがんでその小さな肩を掴む。
「あんたが俺を?」
目線の高さを合わせてじっと見つめる。
真贋を、見極める。
少女はいきなり冷静になった那由多に目を丸くしていたが、少しすると真っ直ぐに見つめ返しながら「う、うん」と頷いた。
「そうか、ありがとう。ふーむ」
感謝の言葉もそこそこに、那由多は少女の顔を穴が開きそうなほどまじまじと見つめる。
見れば見るほどにわかる、芸術的な顔立ちだった。
目鼻立ちがしっかりとしていて、それでいて丸みを帯びた顔つきは、美人顔のティーンエイジといったところか。肩の高さまで伸びた髪は黒色に寄った銀色で、日本人にはあまり馴染みのない色合いだ。シミひとつない陶磁のような肌と合わさることで、ますます美しさを感じさせる造形となっている。
ここまでの美形の持ち主は、思い返してみても終ぞ一人として並ぶ者がいないほどだ。
ひとしきり唸った後、那由多は少女の頬をつまんでみた。
「……っ!? っ!?」
至近距離で見つめられてもきょとんとしているだけの少女だったが、直接的な接触は堪えたようで、つままれたところから耳まで真っ赤になる。
一方、那由多は少女の反応などお構いなしに頬を弄ぶ。
指先を通じて確かに感じる、少女特有の柔らかさ。安心感を覚える人肌の温かさ。
最後に縦横に伸ばして遊んだ後、那由多は確信した。
「神様ってか女の子だな。ゼンマイ仕掛けのドールでもなきゃ、恥じらい無くしたオカミでもないと」
少女の肩を叩いて立ち上がり、大満足と腰に手を当てふんぞり返る。
どうして生きているのかという最初に思いついた最大の疑問は、晴れて解消された。
星の爆発に飲まれて骨まで灰燼と帰したはずの肉体。それをどうやってかは知らないが、この少女が蘇生技術でどうにかしてくれたのだろう。
――疑いはしないのかって? 馬鹿を言わないでくれ。
この子は嘘を吐いていない。それくらい、一目でわかる。
「ああ、俺としたことがうっかり。神様やら天使の類なら見た目で女と決めつけちゃあいけなかったな。さて、気になるあそこにゃあるのかないのか、はたまたどっちもあるのか……」
「わっ……お、女! ボク、女神だから!?」
手をわきわきさせて近づくと、言葉の意味を理解した少女が勢いよく後ずさりする。掬い上げた手が宙を切った。
「ああん? ボクっ娘だあ? いかんな、自分を女神だと思い込んでる野郎の神様の可能性が出てきた。ここは大事なところだからきっちり確かめておかんとなあ?」
「だから女神だってばー……うう、やめてよー」
うっかり半泣きにさせてしまったので那由多は「悪い悪い、冗談だ」と笑いながら軽く頭を下げると、少女に手を差し伸べて起き上がらせた。
「ホント、なんなのさー……」
「悪かったって。よみがえったばっかでテンションおかしくなってるんだろ、きっと」
少女に尖った唇を向けられてもなんのその。躱し方も堂に入ったものだ。
こうして適当にやり過ごしてみて、改めてわかる。
今日は蒸し暑いだけの一日。至って平和な時間が過ぎていることを。
体感だとついさっき死んだばかりだというのに。
全身を貫いたガラス片の痛みも、肉が切断されていく不快感も、血が噴き出ていく喪失感も、ショックにより脳が死を受け入れてしまった瞬間も、全部全部味わったばかりだというのに。
それらの体験がほんの数秒前のことにも、遥か昔のことのようにも思えてくる。
――もっとも、那由多にとってはそれが正常なのだけれど。
那由多は汗ばむ額を拭いながら少女に向き合う。
「あんた――じゃ失礼か。知っているかもしれないが、俺は那由多だ。自称神様、あんたは?」
「自称とかひどいし結局失礼だし……えっと、ボクはミーナ。こんなだけど一応、地球の神様、でいいのかな? 神様、やってるよ……?」
「はっきりせんがまあいい。ミーナ、訊きたいことは山ほどあるが一つ一つ答えてくれ。いいな?」
ミーナが頷いたのを見届けてから、那由多は明日の天気でも訪ねるかのように問いかける。
「じゃ最初の質問だ」那由多は人差し指を立てる。
「どこなんだ、ここは? ジオラマセットの中でもねえ限り、ここは地球じゃねえよな?」
窓枠に近づき、さんさんと照りつける太陽を手で隠しながら空を見上げる。
ちぎれ雲の傍らに浮かぶ、日中の月。否、月であって欲しかったもの。
その数、三つ。
大中小と別れた三つの衛星が、那由多の視線の先にあった。
「あー、月じゃないからわかった? そうだよ、ここは別の星、異世界さ。目敏いね」
「あんだけデカい違いがあれば、そりゃあな。それよか地球はどうなった?」
「うわ、一番おっきな出来事が野球の試合結果知りたいお父さんみたいに聞かれた……」
「悪いな。けどよ、結果が見えてるなら聞き方も雑になるってもんだろ」
那由多はあの日――体感にして数分前の――目に焼き付けた記憶をリプレイする。
頭上に突如降り注いだ巨大な隕石。それがもたらす破壊力の大きさは、
「ありゃ直径100キロメートルは下らねえ。たぶんその倍はあるな。速度も質量もあるってんなら、岩石蒸気で世界中のどこにいようと丸ごとお陀仏だ。後はせいぜい、海が熱で干上がっているのかどうか。気になるポイントはそれくらいだな」
被害を最小に見積もっても、まず人類は絶滅することが容易に想像できた。
「……そこまで予想できてるならボクの説明いらなくない?」
「所詮はシミュレーションだ、現実がどうなってんのか、ミーナの口から教えてくれ」
那由多に頭を下げられ、ミーナは「しょうがないなあ」と不承不承ながら姿勢を正した。
「大方、那由多の予想通りだよ。隕石の直径は推定200キロメートル。落下地点は日本。隕石が激突しただけで日本は消し飛んだよ。ユーラシア大陸の一部もね。あの辺りは地殻ごとめくれ上がっちゃって、おっきなクレーターに様変わりさ。何もかもなくなっちゃったよ。
それから、衝突して高温に熱された隕石は液体を通り越して気体になったよ。そ、岩石蒸気だね。これが落下点を中心に世界中に津波みたいに広がって、大地を余さず焼いていったよ。川は蒸発して、木々は自然発火する、まさに地獄絵図だね。地中や海中に逃げても無駄さ。岩石蒸気は何千度もの高温だから、どこにいても焼き殺される。誰も彼も、無残に死んでいったよ。
海はまだ残ってるけど、岩石蒸気に地球全体が覆われてる以上、干上がるのは時間の問題かな。そうなると、微生物すら生き残らないね。早く蒸気が冷めてくれればいいけど、期待するだけ無駄かな。
隕石が落ちて、約一日。いまの地球の惨状はこんなものだよ。これでいいかな?」
「ああ、充分だ。ありがとよ」
那由多を待ち受けていたのは想像通りの展開だった。
星が焼け、生物が絶える。正しく、終焉の時だ。
つい暗くなってしまい、つられてミーナの面持ちが悲痛なものに変わる。
地球が滅びかけていることに心を痛めているのは、神様でも変わりないのだろう。
生命を労る優しさがあり、滅びを憂う気持ちもある。聖母ならずとも、慈しみの心を持ち合わせていることは明らかだ。
そんな様子のミーナに、那由多は敢えて、
「ところでこれ、異世界転生ってやつか」
などと、戯言をのたまった。
「つまりあれか。チート能力に目覚めた俺が、愛する地球を取り戻すため異世界で好き放題に暴れまわるってことか。ハーレム作って地位も名声も得て、ちょろっと頑張りゃ世界最強にもなれて、人生イージーモードの救世主シナリオが始まるっつーご都合展開が待ってんだろ。よっしゃそうと決まれば話は早い、ちゃっちゃか俺に授けたチート能力の解説おっ始めてくれ神様よ」
情熱的にワルツでも踊り出すかのように、那由多はふざけた口調で言い放った。
「飲み込み早いね、那由多は。その様子だと地球が滅びたことに動揺はないのかな?」
ミーナが半笑いで厳しい物言いをつけてくる。
調子に乗った那由多の言葉に機嫌を悪くしたか、人類滅亡の話を聞いても平静を保っていることに苛立ったのか定かではないが、
「んなわけあるか。世界規模の話はさておき、こちとらあの星にゃ家族も友人も住んでいたんだ。そいつらまとめて殺されてんのに平常心保っていられるようなデキた奴になんざ、誰がなってやるかってんだ」
激情は一瞬だけ胸の外へ。わずかに浮かした腰を再び下ろし、対話を優先しているのだと言外に伝えると、ミーナはにっこりとほほ笑んだ。
「うん、それでこそ那由多だ。ボクが見込んだ最強の切り札。地球再生の使命を託すのにキミを選んだのは、間違いじゃなかった」
全幅の信頼を置いているかのような甘い笑顔に、今度は那由多が気圧される番となった。
生憎、この神様に見覚えはない。信頼関係を築いたことがなければ、信頼を得られるような徳のある行動をしてきたわけでもない。所詮は一個人、状況次第で白にも黒にもなる。となれば能力に信を置いているのだろうか。だとしてもわからない。
ついでに言えば、地球再生の使命なんてモノはもっとわからない。岩石蒸気によって灼熱地獄と化した地球を一個人がどう再生しろというのか。
更に言えば、そんな御大層な使命を特に前置きもなくポロッと吐き出すミーナが一番わからない。
――この世はわからないことだらけだ。ああまったく、うんざりだ。
「切り札だか使命だか知らんがな。随分と俺のことを買ってくれているみてえだが、なんだって俺なんだ? 酒の銘柄と製造年を当てる特技しか自慢できるものはないぞ」
「それはそれですごい、のかな? でも、ボク相手に謙遜しなくていいよ。そんなの那由多の能力の一部でしかないのを知ってるから」
ミーナは、安心しきった子供のようにあどけない顔をしたまま言った。
「――完全記憶能力。キミが生まれ持ったその力は、言わばチートさ。使い手がキミなら、この世界に溢れるどんな力にも勝るとボクは信じてるよ」
「なんかカッコつけた言い回ししてるが要はチート用意してませんってか? ああ?」
そして、那由多は全てを台無しにした。
相手を慮る気持ち皆無のぶち壊しムーブだ。
「ええ……? あのさ那由多。その発想に至る速さは流石だと思うけどさ、せめてワンテンポ置いてくれない? 一応ここ、秘密にしてたはずの能力がバレてて驚くシーンのはずなんだけど」
「てめえの星ぶっ壊されたばかりの神様がこのタイミングで俺を選んで転生させたってんなら、下調べしてねえ訳がねえだろうが。んなことよりチートなしってのはどういう了見なんだああん?」
「うう、そうなんだけど、その通りなんだけどさ。ボクのパートナーがいじめてくるよお」
「なにがパートナーじゃ、いいからさっさと説明しろやパートナー。仕舞いにゃ揉むぞ」
「揉む!?」
ミーナが後ずさりしながら、薄い胸の前でさっと腕を交差させる。
随分と初心だが、大丈夫なのだろうかこの自称神様は。
最初から抱いていた不安感は、話を続ける内にますます膨れ上がることになる。