霧雨市怪奇譚 雪の日
玄関のドアを開けると、身を切るような寒風が吹き込んできた。学校指定の地味なベージュのコートでは裾や袖口から容赦なく寒気が侵入してくる。大雪までは想定していないに違いない。
加藤清虎は回れ右しようとしたが、妹の明良がにらんでいたために断念し、外へ踏み出した。
眩いばかりの銀世界。雪に反射した日光が容赦なく目を射てくる。
「うむ……」
清虎は思わずお腹に張り付けた保温カイロに手を当てた。
学ランの制服に学校指定のコートという格好は普段でも大風が吹くと寒い。風だけなら制服の下にこっそり体操着を着たりもするのだが、雪道で体力を使うことを考えればあまり賢明な選択とはいえない。
結果として清虎はワイシャツにカイロを張り付けるというややオヤジくさい方法を選んだのだった。
「やっぱ寒いわー。兄貴、早く行こ。凍っちゃうよ」
明良が手に息を吹きかけながら言った。
一方の明良も同様に制服とコートだが、スカートの下はタイツを二枚重ねにした上に靴下をはき、さらに体操着のズボンを履いていた。紛うことなき校則違反だが、寒さが厳しいこの時期には登下校時のみの特例として見逃されている。
その上、顔の半分を地味なチェック柄のマフラーに埋めているので格好悪いことこの上ない。髪を短く切っているせいもあって、遠目には背の低い男子に見える。
「明良、もう少し外見に気を配ったらどうだ? せめてマフラーをやめるとか」
「だって、外見を気にして体壊したら目も当てらんないじゃん」
「そうか。さすがに自称陸上部期待の星は違うな」
「自称ってなんだよ、自称って。あたしは本当に期待の星なの」
玄関から前の道まではとりあえず雪かきが済んでいて、ところどころ地肌が見えている。だが、前の道はといえば、車道部分に轍ができているものの、歩道部分はほぼ手付かずだった。足を踏み入れると、一気に臑の半分ほどが雪に埋まる。
「長靴があれば良かったんだがな。これでは学校につく頃には靴下までぐしょ濡れだぞ」
「そうだね。うー、冷たい」
清虎の家は霧雨市の中心部からやや山際によった梅畑地区にある。そのため、学校までは四十分ほど下り坂を歩き、さらに三十分ほど街中を歩くことになる。二人は足を滑らせないよう気を付けながら、軽い下り坂になっている道を歩いていった。一歩ごとに新雪を踏み抜くざくり、という音がするだけで、会話はない。
二十分ほど歩き、そろそろ市街地に入ろうかというあたりで、清虎は足を止めた。行く先の交差点に少女がうずくまっているのが見えたのだ。
後ろ姿でよくわからないが、どうも同年代のようだ。
「なあ、あれ」
「どうしたんだろ。調子悪いのかな」
二人が近付くと、その足音が聞こえたのか、少女が振り向いた。
透けるような白い肌と腰までありそうな艶やかな黒髪が目を引く美少女だった。やや垂れ気味の細い目に筋の通ったつん、と高い鼻。薄い唇はそこだけ紅を引いたように赤かった。その顔には困ったような表情が浮かんでいる。だが、それが却って少女に儚げな印象を与えていた。
身に着けているのは襟や袖口に洒落た縁取りの入った紺色のブレザー……進学校で知られる第一高校の制服のようだ。
「どうかしたんですか?」
「あの、ちょっと落とし物をしてしまって……」
明良が声をかけると、少女は小さな声で答えた。
「落とし物?」
「ええ。小さな根付なんですけど、さっき急に取れてしまって……」
少女は立ち上がると、体の前に抱えていた鞄を見せた。
今時スクールバッグではなく、校章入りの鞄を指定している辺りが私立の名門進学校らしい。その鞄の持ち手に紐だけが残っていた。
紐はもともと赤かったようだが、もうだいぶ色あせていて、根付自体もかなり古いものだろうと思われた。
「どんな根付ですか? 探すの手伝いますよ」
清虎は思わず口に出していた。きっと大切なものなのだろう。もしかしたらお婆ちゃんの形見とか、そういう類のものなのかもしれない。そう思ったら黙っていられなかったのだ。
少女は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに首を振った。
「いいえ、お気遣いなく。初対面の方に迷惑を掛けられませんから」
少女の答えは当然といえば当然だった。だが、清虎は引き下がらない。
「でも困ってる人を放っておけません。手伝いますよ」
「いいんです。一人で探せます」
そんなやりとりが数回、繰り返されたあげく、折れたのは少女の方だった。
「……そこまで言うなら、お願いします。このくらいの木彫りのひょうたんなんですが、白くて小さいのでなかなか見つからなくて」
少女が指で示した大きさは大体百円玉くらいだった。確かに小さい。
「明良はそっちを頼む。とにかく、この辺を手分けして探しましょう」
清虎は一方的に決めるとその場にしゃがみ込み、雪をかき分けるようにして根付を探し始めた。
「ったく、仕方ないな」
「あの、本当にすみません」
「謝らなくていいですよ。うちの兄貴、困ってる美人は放っておけない性質らしいですから」
明良はそう言って肩を竦めると、清虎の近くにしゃがみ込んだ。
スキー用の手袋をはめてはいるものの、指先はすぐに冷たくなり、感覚が無くなってくる。
「雪がなければすぐ見つかるんだけどな」
思わず毒づきたくもなるが、相手が自然現象ではどうしようもない。
「本当に、すみません」
少女がまた、申し訳なさそうに頭を下げる。
その後も十分ほど辺りを探したが、ついにそれらしいものは見つからなかった。
「そろそろ時間がやばいんじゃない?」
明良がふ、と気づいたように言った。
「あ、そうですね。すみません、付き合わせてしまって」
「こちらこそすいません。結局見つけられなくて」
清虎は立ち上がると、手袋を外した。指先は霜焼けですっかり赤くなっている。
「うむ、やはり冷気までは防げないか」
清虎はうんざりしたように言った。
「また帰りにも探してみますよ。それじゃ、俺はこれで」
清虎が歩きだすとすぐに、右足が何かを踏みつけた。
「……ん?」
足を上げると、足跡の真ん中に白い塊が落ちていた。
雪の塊にしては少し黄ばんでいる。
拾ってみると、木彫り細工のひょうたんだった。真ん中のくびれた部分に色あせた紐で小さな鈴が結ばれていた。
「ひょっとして、これですか?」
少女に見せると、彼女の困ったような表情がみるみる内に明るくなった。
「あ、ありがとうございます! 良かった……」
「もう落ちないように気を付けてくださいね」
清虎はひょうたんを少女に手渡した。
「あの、お名前を伺ってもよろしいでしょうか?」
少女は少し頬を赤らめながらたずねた。
***
朝はぽつぽつと遅刻者がいた教室も、昼休みにはすっかりいつも通りの喧噪に戻っていた。
「……で、教えたのかよ?」
「ああ。変わったお名前ですね、だとさ」
「くそっ、羨ましい!」
「ま、お前みたいに下心丸出しな奴には縁のない話さ」
清虎が朝の話をすると、福島彰一は悔しそうに地団駄を踏んだ。
「澄まし顔しやがって、本当はお前も下心あったんだろ?」
彰一に指摘され、清虎の顔がさっと赤くなった。
「いや、まあ少しはあった……けどそれだけが全部じゃないぞ」
「ほっほう、つまりあわよくば、とか思ってたりしたわけだ」
「まあ、そう言うな」
彰一とは中学からの悪友で、普通なら言い辛いようなこともずばずばと言える間柄だ。だが、角刈りに太い眉で、制服をきちんと着ている清虎に対して、彰一は違反ギリギリの茶髪に細く整えた眉毛、制服は今風に着崩していて、外見は見事に正反対だった。
「それにしても、女に興味ないお前が惚れるとは、相当可愛かったんだろうな、その子。写真とか撮ってないのかよ?」
「初対面の相手にそんなこと言えるか、バカ。それにあれは、可愛いというより美しい、だったな。なんだかこう、すぐにでも消えて無くなりそうな危うさがあってだな」
「んだよそれ。そんな灯命蛍の漫画みたいな美少女が存在してたまるか。あ、さては全部お前の妄想だな!」
彰一は清虎を指さして大声を上げた。周囲の生徒たちから失笑が漏れる。この反応からもクラスにおける彰一の立ち位置がわかろうというものだ。
「またコントやってんのかよ、お前ら」
教室の外にまで聞こえていたらしく、日本史の木下がこめかみに手を当てながら入ってきた。
「あれ、先生、チャイムまだですよ?」
「ああ、配るもんがあるから早めに来た。授業始まるまではべつにくっちゃべってていいぞ。俺は優しいからな」
そう言ってにやり、と笑う。
顔立ちはそれなりに整っているし、背も高くすらりとしているので黙っていれば元宝塚女優と言われてもおかしくないほどの美人なのだが、口を開けばこの通り、男勝りの伝法な口調が飛び出す。そのため、今まで一度も彼氏ができたことがない、という噂がまことしやかに語られている。まあ、それも生徒から慕われているがゆえなのかもしれないが。
その木下は教卓に立つと、小声で歌いながらプリントの枚数を数えている。その様子から何かを感じ取ったか、周囲の生徒たちは自然と席に戻り、日本史のノートをめくり始めた。
「ひょっとして今日、豆テストでもやんのか?」
「そうかもな」
「ちょ、なんでお前はそんなに余裕なんだよ」
「誰かさんと違ってちゃんと授業受けてるからな。ほら、ノート見るか?」
「お、おう……って、ノートくらい俺も取ってるぞ」
「船を漕ぎながら書いた、イカスミスパゲティみたいなノートが役に立つか」
「くっそ、見てろよ、あのノートで高得点とってやる」
彰一が鼻息も荒くノートを取りだした瞬間、予鈴が鳴った。
「ん、あと五分か。今の内にトイレ行っとけよ。今日は楽しい楽しい豆テストだからな」
木下の宣言に、教室のあちこちから「やっぱり」「抜かったわ」「そんな気がした」という声が上がる。
清虎はそんな周囲をよそに筆箱からよく削った鉛筆を取り出すと、腕を組んで目を閉じた。
脳裏に朝の少女の顔が浮かぶ。
別れる時に見せた、はにかむような笑顔。雪と同じで、触れれば溶けて消えてしまいそうな危うさ。
今日はずっとそうだ。
清虎は何度も頭を切り替えようとしたが、少女の姿はいつになっても清虎の脳裏から消えなかった。今までに同じくらいの年頃の女子生徒と話すこともあったが、今日のようなことは初めてだ。
結局、頭を切り替えられない内にチャイムが鳴った。日直の号令がいつもよりヤケっぱちに聞こえるのは勉強が間に合わなかったからかもしれない。
「よーし、それじゃあ楽しいテストの時間だ! 答案配るぞー」
木下が心底楽しそうな顔で宣言する。
普段の清虎なら豆テスト程度どうということはないのだが、今日はまったく集中できなかった。
問一。大老伊井直弼が暗殺された事件を答えよ。
問二。治安維持のために京都で組織……。
問三。坂本竜馬の仲立ちで……。
問四。徳川慶喜の……
問五。小栗……
午前はそこまででもなかったが、午後になってまったく集中できなくなった気がする。
「おう、加藤が不調とは珍しいこともあるもんだな」
答案を集めた木下が不思議そうな顔をした。そこに彰一がすかさず声を上げる。
「今朝会った美少女に一目惚れしたらしいっすよ」
「なに、そうなのか? あの加藤がなぁ。ふーん」
木下は腕を組んでうんうん、と頷いた。
「恋はいいぞ。お前らもちゃんと恋してフられて青春しろよ。ただし良識の範囲内でな。ストーカーなんかになるなよ」
「じゃあデコ先生は恋したことあるんすか?」
また彰一だ。デコ、というのは別に木下の額が広いというわけではなく、名前の秀子からついたあだ名だ。発案者は木下が顧問を務める文芸部の部員だと言われるが定かではない。
「ったりまえだろ。俺の青春はベラ・ルゴシとクリストファー・リーに恋する日々だった。うらやましかろう?」
「……誰っすか、それ?」
「よくわかんないけど、歴史上の人物じゃない?」
「アメリカの大統領にそんな人いなかったっけ?」
「あー、あの岩山にデカイ顔彫ってあるやつか」
生徒たちの多くは木下が挙げた名前にピンと来ないのか、そんなことを言い合っている。
「バカ野郎、映画スターだよ。よーし決めた、次の試験に出すから二人の代表作調べとけよ」
木下は中指を立てて宣言した。教室中にうめき声が広がっていく。
「職権濫用反対! なあ、清虎」
唐突に意見を求められ、清虎は我に返った。
「ん、ああ、そうだな……」
「お前、話聴いてなかったのか?」
「いや、聞いてたぞ。確か、次のテストがどうとか言ってたな」
「そこだけかよ!」
彰一が頭を抱えるのを見て、清虎は首を傾げた。
「その前に何かあったのか?」
「あーもう、今日はおかしいぞ、お前。まさか雪女に取り憑かれたわけじゃあるまいし!」
「雪女? なるほど、そうかもしれんな」
清虎は雪女と言われてようやく腑に落ちた。なるほど、彼女が雪女ならこの集中力の低下にも納得が行く。
「ほら福島、一応まだ授業中だぞー。加藤もいちいち相手しなくていいからな」
「すみません、先生」
「なんだよそれ、ひっでぇ……」
彰一が大げさに肩を竦めてみせると、教室のあちこちからまた失笑が起きた。
***
放課後、清虎は特にすることもなく、部室で他の部員たちと雑談を交わしていた。
雨くらいなら気にも留めないサッカー部だが、この雪ではさすがに外で練習するわけにはいかない。かといって屋内でも基礎練習ができるような数少ないスペースは部員だけは無駄に多い野球部と大会成績優秀なテニス部がさっさと制圧してしまったため、一通り用具の手入れをした後は特にすることもなくなり、こうなったのである。
その用具の手入れも実際には一年生がやったのであり、二年生はユニフォームどころか体操着にすら着替えてもいない。
せめて顧問か部長が音頭を取ってグラウンドの雪かきをすれば練習ができるようになるかもしれないが、顧問は職員会議で不在、部長は部室の奥で赤外線ヒーターに当たっている。
一応部室とはいうが、コンクリート打ちっ放しの安普請で、外の寒気が容赦なく侵入してくる。それでもマネジャーの北野がどこからか調達してきた赤外線ヒーターとほうじ茶のお陰で外よりは大分マシだ。
「せめてウチにもテニス部くらいの成績が出せればなぁ」
「それか、野球部くらい人数がいてもいいんじゃね」
話題はついついそんな方向に行ってしまう。
「それも一理あるか。まあ、今年の一年生がほとんど野球部やバスケ部に入るとは思ってもなかったからな」
清虎はそう言って、黙り込んだ。
そもそも、サッカー部の大会成績が良くないのは単純に練習に熱が入っていないからで、新入生が他のスポーツに流れるのは大会成績がパッとしないからだ。そして、練習に熱が入らないのは新入生が少なく、なあなあになってしまうから……。
堂々巡りに陥って、清虎は頭を振った。うまいように頭が回らない。やはり少女の姿が脳裏を離れないせいで考えに集中できないのだ。
「そういえば先輩。空手部の福島先輩から聴いたんですけど、一目惚れしたそうじゃないですか」
興味津々といった顔でそんな話を振ってきたのは、前野という一年生だった。清虎は肩を竦めた。
「その話はもう止しにしてくれ」
「えーっ、なんでですか? 知りたいですよ。なあ、みんな?」
前野が訊ねると、部員全員がうなづいた。
「断る。いいか、一目惚れなんか映画だけの話だ。現実にそんなことがあるわけないだろう」
清虎はそう言って話を終わらせようとしたが、部員たちが納得するはずがなかった。前野がその後ろ盾を受けてなおも突っ込んでくる。
「いいじゃないですか先輩。別に話したって減るわけじゃなし」
「断る。それになんか、あれはもう話しちゃいけない気がするんだ」
「ふんふん、つまり妄想でしたー、って言い出せなくなるから広めたくない、と」
「ち、違う!」
清虎は必死で否定したが、それが却って部員たちの興味を引きつけたようで、好奇の視線はますます強くなっている。
清虎はなんとか逃げ出したかったが、生憎と清虎たち二年生は部室の奥が定位置となっていて、簡単には部室から出られそうにない。
清虎が頭を抱えた時、それを待っていたかのように、部室のドアがノックされた。
「はーい、どちら様?」
部室の隅で魔法瓶を抱えてほうじ茶を飲んでいた北野が応答する。
「あの、二年の加藤、いますか?」
「あ、はいはい。加藤先輩、女の子が呼んでますよー」
北野がおちゃらけた調子で言うので、部室内は騒然となった。
「北野、ふざけるな!」
清虎が思わず声を荒げたので、場はさらに盛り上がる。だが、北野が開けたドアから入ってきたのは校名入りのウィンドブレーカーに身を包んだ明良だった。額に少し汗をかいている。
「なんだ、噂の美少女じゃないのかよ」
「明良は女子じゃねーぞ」
そんな落胆の声があちこちで上がる。
明良は腰に手を当てて部室を見回すと、大げさにため息をついた。
「兄貴、ちょっと顔貸して」
「帰りじゃだめか?」
「だめ。今すぐ。ほら早く」
明良が急かすので清虎は仕方なく立ち上がった。
さっきまで逃げだそうと思っていたのに救いの主が明良となるととたんに部室を出たくなくなる。その事に気付いて、清虎は内心で苦笑いした。
自分のロッカーからコートを出して袖を通す。
清虎が立ち上がったのを見た明良は北野に顔を向けた。
「そうだ、音々(ねね)ちゃん。こんだけの人数が暇してるんだから少し出してよ。今から陸上部とソフト部で校庭の雪かきやるんだけど、男手が足んなくてさ」
「あれ、そーなんだ? じゃあ一年生出動!」
事前に打ち合わせたような見事な連携に一年の部員は抗議の声を上げるが、部長が手を一つ叩くとすぐに静まった。
「北野、勝手に決めるんじゃない。でもまあ、そうだな。一年生はすぐに出動して雪かきの手伝い。前野が代表になって一年を監督しろ。喜べ、初キャプテンだぞ」
部長の決定に反対できるのは同じ二年生だけだが、誰も反対しなかった。要するに、誰も部室から出たくなかったのだ。
日中の温度で幾分か溶けたのかもしれないが、校庭に積もった雪の深さはほとんど変わっていなかった。
そんな中で陸上部とソフト部の部員たちが白い息を吐きながら雪かきを始めている。ソフト部は無論のこと、陸上部の部員も大部分が女子である。それを見た現金な一年生たちは我先に校庭へ飛び出していった。
「下心丸出し。ま、少しは役に立つかな」
明良の言葉に、清虎は苦笑いするしかなかった。
先を行く明良は校庭ではなく、その縁をたどるようにして駐輪場の方に歩いていく。
さすがに駐輪場に停まっている自転車はほとんどない。わずかに停まっている自転車はどれも昨日から停まっているらしく、轍はなかった。
「なあ、俺たちはこっちでいいのか?」
「うん。校門とこで待ってる人がいるから」
清虎はまさか、と思った。だが、待ってくれるような相手は今の清虎には一人しか思いつかない。
しかし、それはあまりにも虫のいい予想だった。それこそ安い少女漫画のような展開だ。
「んじゃ、あたしはここで。雪かきしなきゃね」
明良は意味ありげな笑顔になるとさっさと校庭の方に走っていった。
「あっ、おい……」
清虎は引き留めようとしたが、明良はするりと身をかわして行ってしまった。あっという間に部室の前を通り過ぎ、校庭に出て行く。
残された清虎はどうしようか逡巡したが、相手をあまり待たせるのもまずいと思い、校門へ足を向けた。
やがて、校門の前に佇んでいる人影が見えてきた。
腰まである艶やかな髪に透けるような白い肌。襟や袖口に洒落た縁取りの入った紺色のブレザーで、同じく紺色のハイソックスと黒いローファーが細い足を包み込んでいる。
衣服が暗い色であるが故に、わずかに露出した肌の白さが際だっていた。
心持ち俯きかげんで、朝と同じ学校指定の鞄を両手で持っている。
「鈴木さん!」
清虎が呼びかけると、彼女……鈴木沙耶香は顔を上げ、こちらを見た。わずかな憂いを秘めた垂れ気味の目を向けられ、清虎の胸が高鳴る。
「すみません、忙しかったでしょうか?」
「いえ、練習ができなくて暇してたところですから」
「そうですか、良かった」
沙耶香はにこやかに笑った。
「でも、どうして学校が分かったんですか?」
「校章です。コートの胸元に刺繍してありましたよね」
「え、ああ、そうか……」
沙耶香の言うとおり、清虎のコートは胸元に大きく校章が刺繍されている。校章から学校がわかれば後は適当に生徒を捕まえて呼び出してもらうだけだ。それが明良だったのは妙な噂が広まらないだけマシというものだろう。
いや、もしかすると顔見知りの明良だったから声をかけるつもりになったのかもしれない。
「あの、朝のお礼です。どうぞ」
沙耶香はそう言って、少しはにかみながら小さな箱を差し出した。両手で包み込めるほどの大きさの箱で、赤い包装紙に包まれている。
「いいんですか、こんなもの?」
「ええ、たいしたものではありませんから」
清虎は少し遠慮しながら箱を受け取った。その時、一瞬ではあるが二人の指先が触れ合った。
どれほど待っていたのか、沙耶香の指は冷凍庫から取り出した氷のように冷たかった。
「あっ、ごめんなさい……」
沙耶香は小さな声で謝った。白かった頬にわずかな赤みがさしている。
それに気付いた清虎は顔がかっ、と熱くなるのを感じた。きっと、今の清虎の顔は熟れたリンゴのように赤くなっているのだろう。リンゴでなければ、パプリカだ。
「あ、あの、えと」
清虎は何も言えずに固まった。何か言わなくては、と思うが言葉が出てこない。
「う、ふふ、ふ……」
唐突に、沙耶香が笑い出した。
「おかしい。よくできた青春映画みたいですね」
「え、ええ、そう……」
清虎はなんとか気の利いたことを言おうと思ってはいるのだが、並外れた緊張のために口が自由にならず、そんな途切れがちの言葉しか出てこない。
それでも、沙耶香は怒ったりはしなかった。
「緊張してるんですね。私にも経験があります」
「そそ、そうなんですか」
「そんなに緊張しなくていいですよ。私まで恥ずかしくなってしまいます」
頬に手を当てて照れるように言う沙耶香。その姿に清虎はすっかり参ってしまった。
それからも何か他愛のない話をしたような気がするが、よく覚えていない。気が付くと、ちょうど十八時のチャイムが鳴ったところだった。
「あら、もうこんな時間だわ。……ごめんなさい、加藤さん。長々と付き合わせてしまって」
「いえ、いえ、お構いなく」
「加藤さんは構わなくても、ほら……」
沙耶香は清虎の後ろを指さした。
清虎が釣られるように振り向くと、明良が腕を組んで仁王立ちしていた。ただし、顔はにやけている。その隣で同じように仁王立ちしているのは彰一だ。
「加藤。こんなところでデートか? ちぃっとは考えた方がいいんじゃねぇの?」
彰一が意地悪く笑った。不良じみた言い回しに明良が苦笑いしている。
「あ、あの、その……」
「まあ、加藤さんのお友達ですか? はじめまして、鈴木沙耶香と申します」
沙耶香は律儀に深々と頭を下げた。
「お、おう。俺、福島彰一っす」
「まあ、ご丁寧にありがとうございます」
沙耶香に毒気を抜かれたか、彰一はとろけたような顔になって自己紹介を返す。
明良が肩を震わせながら、清虎の肩を掴んだ。
「ご、ごめん兄貴。なんか、おかしくって」
「そんなにおかしいことでもないだろう?」
「そ、そうなんだけどさ。くく、彰一が……あの顔!」
要するに彰一の表情がよほどおかしいらしい。美人を前にした彰一はいつもああいう顔になるのだ。
「彰一、とろけすぎだぞ。明良が立てなくなる」
清虎が苦言を呈すると、彰一の顔が引き締まった。どうやらだらしない顔になっていたのを自覚したらしい。
「いやーぁ、すまんすまん。そうだ、お茶にしようぜ! 俺雰囲気のいい喫茶店知ってるからさ!」
彰一は鼻の頭を掻きながら提案した。
「またあの店か? ロックがガンガンかかってて少しも落ち着けなかったぞ」
清虎が彰一の頭をこつんとやる。
「あ、ひっで。暴力はんたーい」
「教育的指導ってんだ。お前のばかはこれでも治らんからな」
清虎はそう言うと手をひらひらさせた。
「にしても石頭だな、お前」
「ふ、ふふ、ふ……。楽しい人ですね」
黙って見ていた沙耶香が口元に手を当てて笑い出す。
その動作はあくまで優雅で、育ちの良さを感じさせた。
「でしょ? あたしの友達も楽しい人は結構いるんだから。今度紹介するよ」
「楽しみにしますね。あっ、もう遅いので、私はこれで失礼します」
「うん。今度は時間のある時にね。ねっ、兄貴」
明良が清虎の背中をばしり、と叩いた。
「うん、そうだな。今度は立ち話ではなく、ゆっくり話しましょう」
清虎が頷くと、沙耶香はもう一度お辞儀をすると、駅の方に走っていった。
その後ろ姿を名残惜しげに見ながら彰一がぽつり、とつぶやいた。
「なんか、いい子だな。お前にはもったいない」
「どういう意味だ、それは」
答えながら、清虎は自分が冷静に戻っていることに驚いていた。昼間の集中力の低下も、たった今まで感じていた緊張も嘘のように消え去っている。
これまでに覚えのない、不思議な感覚だった。
その夜、自分の部屋に戻った清虎はもらった箱を開けてみた。
箱に入っていたのは、短い手紙を添えたバタークッキーの袋だった。
手紙には、根付を探してくれたことに対する礼が小さく丁寧な字で書かれていた。丸文字を使っていないところに沙耶香の真心が見えた気がして、清虎は知らず笑顔になっていた。
袋の方には駅の近くにある『アップルトン』という洋菓子店のロゴが入っている。
味は良いが値段も良いと評判の店だ。
一枚食べてみると、ほどよい甘さが口の中に広がった。
しつこいほど甘すぎるということもなく、かといって物足りないということもない。評判に偽りなし、というわけだ。
「あの辺に住んでいるのか、それとも単に通り道なのか」
どちらにせよ、清虎のためにわざわざ買ってきてくれたのだ。それを考えると頭が下がる思いだった。
「そういえば、連絡先を交換しておくべきだったな」
携帯電話を置いたサイドボードに目をやって、清虎はため息をついた。
沙耶香の控えめな笑顔が脳裏をよぎる。
清虎は大きく伸びをすると、鞄から日本史の教科書を取り出した。今日の豆テストを復習しようと思ったのだ。
普段ならそんな殊勝なことはしないのだが、さすがに今日は成績が悪すぎた。
その時、部屋のドアが勢いよく開いた。明良の仕業だ。
「兄貴、ゴハンだって」
「ノックくらいしろ」
「あ、ごめん」
明良はてへ、と舌を出すと申し訳程度にドアをノックした。それから思い出したように体を震わせる。
「兄貴、なんかこの部屋寒いよ」
「そうか? 俺は特に感じないが」
「そうだよ。温度計ないの?」
「うむ、確か時計に組み込んであったはずだ」
清虎は机の上の置き時計に目をやった。
デジタル式の時計で、時刻表示の下に小さく温度が表示されている。その表示は外気温とほとんど変わらない。
「兄貴、正気? 凍えちゃうよ」
「む、まったく分からなかったな。言われると寒くなってきた」
清虎は立ち上がると、部屋の隅に置かれている赤外線ヒーターを持ってきた。
「ちょ、兄貴。もうゴハンだってば」
「ん、あ、そうか。そうだったな」
「兄貴、なんか変じゃない? 心ここにあらずっていうか」
「いや、そんなことはないぞ。俺は至って平常だ」
「それ、自分じゃ気付いてないってことだよ。本当に大丈夫?」
「しつこいな。大丈夫だと言ってるだろ」
「じゃあいいけどさ」
明良はなおも不安げな顔をしていたが、清虎は無視した。
「あ、何これ。沙耶香さんから?」
「お前はもらわなかったのか?」
「うん。『アップルトン』のバタークッキーかぁ。シンプルだけどおいしいんだよね、これ」
明良はクッキーを一枚口に放り込んだ。
「うん、おいし」
「夕飯じゃなかったのか?」
「あ、そうだった」
清虎は明良の襟首を掴むと引っ張るようにしてダイニングまで連れて行った。
二人が出て行った後、時計の温度表示がまた一度、下がった。
***
土岐日向は学校の帰りに市立図書館に寄った。
霧雨市立図書館は市民公民館に併設されており、小じんまりとした規模ではあるが、学校の図書館にはないような本が多い。
日向の通う第一高校は進学校として県下に名を馳せているが、それとは別に地域活性化を目指した活動でも知られ、年に何度かは地方紙に活動を報じる記事が載る。
日向が図書館に来たのも、彼女が所属する料理研究部と霧雨市婦人会の共同企画である、郷土料理をベースにした創作料理の資料を探すためであった。
料理の棚から適当に数冊、群馬の郷土食や粉物文化について述べた本を選び出した後、日向は何気なく郷土の棚にも目をやった。
特に目的があったわけではない。何か発想のヒントになるような本でもないかと思っただけだ。
郷土の棚には国定忠治や上泉信綱、中島知久平といった郷土の著名人を扱った本や県下の養蚕・製糸業の歴史に触れた本に混じって地元新聞社から出版された連載記事の単行本なども並んでいる。
そんな雑多なラインナップの棚の前に、高校生らしい学ランの後ろ姿があった。
男子の制服が学ランの高校は市内だと三校、公立の商業、工業と私立の大徳学院だ。
だが、大徳の学ランにはハイカラなステッチが入っているのですぐに違うと分かった。
だとすれば公立のどちらかだ。
日向はその後ろ姿になんとなく覚えがあるような気がした。だが、誰だったか思い出せない。
仕方なく、日向はそっとその高校生の隣に移動してみた。適当な本を手に取りながら横目で顔を確認する。
「あっ、明良のお兄さんですか?」
覚えがあるのも道理だった。中学時代からの友人である加藤明良の兄だったのだ。名前を聴いたのは一度だけなのでよく覚えていないが、確かえらくイタい名前だった。
「え? あぁ。君は確か、明良の」
「はい。何か探してるんですか?」
「うむ、実はこの辺りの民話とか、言い伝えみたいなものを集めた本がないかと思って探しに来たんだが……」
「へぇ……。なんか意外です。そういうイメージがないので」
明良の兄は一瞬目を丸くしたが、すぐに小声で笑い出した。
「参ったな、そういう風に見られていたのか。いや、俺だってたまには調べ物くらいするさ」
そう言いながら一冊の本を抜き出した。
鳥居の連なる、稲荷神社の参道の写真が使われた単行本で、筆文字で『霧雨・流鏑馬の昔話』とあった。発行は地元新聞社で、連載記事をまとめたものらしかった。
「そうだな、これが良さそうだ」
「他には……あら、こっちはお爺さんから直接聴いたみたいですよ」
日向が見つけたのは『囲炉裏ばなし~鈴木秀一翁夜語り~』という本だった。こちらも同じ新聞社の発行だが、ロゴマークの色が違う。自費出版だったようだ。
前書きによると、市内在住の鈴木秀一なる人物から聴いた昔話を録音テープから書き起こしたものらしい。
「鈴木……? まあ、その家独自のアレンジとかもあるかもしれないし、比較してみる価値はありそうだな。ありがとう。……ところで君は、そういうものに興味があるのか?」
明良の兄が首を傾げながら日向が持っている本を指さした。
日向は自分が何かまずいものを持っていただろうか、と頭を高速で回転させた。だが、それらしい本を取った記憶はない。
何の話をしているのですか、などと聞き返して人の話をろくに聴いていなかったなどと思われたくないが、だからといって適当に話を合わせていて、後で面倒なことになっても困る。
答えに詰まっている日向を見かねたのだろう。明良の兄は指で頬を掻きながら言った。
「ほら、普通、女子はメカニック関係にはあまり興味を持たないというじゃないか。うちの明良も男のようだと言われてはいるが、そういう系統には見向きもしないし」
そう言われて、日向はようやく自分がさっき適当に取った本のことに思い至った。
見れば、戦前から昭和後期までの県内の重工業の歩みを述べた本だった。
「いえ、別に興味があるわけではありません。適当に取っただけです。本来の用事ではありませんので」
日向は本を棚に戻しながら答えた。恥ずかしい。
蒸気で眼鏡が曇るかもしれないと思うほどに顔が熱くなった。
「そうか。すまん、勘違いだったようだな」
「構いません。それより、お兄さんは何を調べようとしてたんですか?」
「ああ、実は雪女についてなんだが」
「雪女というと、小泉八雲の『怪談』に出てくる、あれですか?」
「うむ、というよりはあれの同類だな。この辺りにも伝承のようなものはあるのか気になったんだ」
「なるほど。なら、民俗の棚も調べてみたらどうでしょう? 全国レベルで知られるモノですから、詳しい資料が見つかるかも知れません」
「いや、そっちはもう調べたんだ。雪女に触れている本もあったが、ほとんどは『怪談』の話だった」
「そうですか。あれは有名ですからね」
日向は頷きながら首を伸ばして民俗の棚をのぞいてみた。棚に並んでいるのは一般向けの入門書や国内外の民話集、それに妖怪を図鑑的に並べたムック本やペーパーバックだった。まともな研究書や民俗学論文などは書庫にでもしまってあるのだろう。
「カウンターで問い合わせれば見つかるかと思いますが」
「だが、時間がかかるだろう。冬は日が落ちるのが早いから、これ以上時間をかけたくないな」
明良の兄はそう言って腕を組んだ。
「とりあえず、この二冊で良いか。すっかり付き合わせてしまったな」
「いいえ、お構いなく。私は今日はもう、家に帰るだけですから」
「そうか。ではすっかり暗くなったし、途中まで送ろう」
「いえ、悪いですよ。方向も逆ですし」
「気にするな。どうせ練習がある日はもっと遅いんだ。君を送るくらい、大したことじゃない」
日向は少し考えて、その申し出を受けることにした。
「ではお言葉に甘えさせていただきます。……それにしても、どうして雪女なんですか?」
日向が訊くと、明良の兄は答えづらそうに口ごもったが、数瞬の後、口を開いた。
「そうだな、あえて言うなら雪が降ったから、か。昨日、不思議な人に出会ってな……綺麗な人だった。もしかしたら雪女じゃないか、なんて話になるくらいだ」
「それで、急に雪女の伝承を?」
「うむ。まあ俺は妖怪だなんだというものを信じるわけじゃないが、友人がしつこく言うもので、それなら伝承を調べて違うということをはっきりさせようと思ったんだ」
「それは面白いですね。それでは、お兄さんの想い人が雪女でないことをお祈りします」
「お、想い人だ? なんてことを言うんだ、君は」
日向が胸の前で手を組むポーズをすると、明良の兄は慌てて否定した。見れば顔が少し赤くなっている。
見た目通りの素朴な人だ。だが、それだけに人にも化け物にも好かれるだろう、と日向は思った。
***
その翌々日のことだった。
数日が経って路面の雪もおおかた溶けてきたとはいえ、朝方はまだまだ冷え込む。そんな中、清虎は以前と同じ交差点で沙耶香と再会した。
「お久しぶりです、加藤さん」
「あっ、鈴木さん」
沙耶香の声を聴いたとたん、清虎の心臓が飛び出さんばかりに弾みだした。
沙耶香は以前同様、第一の洒落た制服に身を包んでいる。
「待ってたんだ。沙耶香さんって情熱的だねぇ」
明良が茶化すが、沙耶香には聞こえていないようで、ただまっすぐ清虎の方を見ている。
「あの、今日の放課後、お時間ありますか?」
「ええ、夕方でしたら。何か?」
「雰囲気のいいお店を知っているので、お茶でもどうでしょう?」
「そうですか。でも、遅くなるとお家の方に悪いのでは?」
清虎が言うと、沙耶香は首を振った。
「いいえ、大丈夫です。今日は遅くなるそうなので」
「そうなんですか」
清虎はむう、と唸った。
「兄貴、どうすんの?」
「でも、俺は六時まで練習ですから、どうしたってその後になります。それでもいいんですか?」
「そのくらいなら私、待ちます」
沙耶香はじっ、と清虎の顔を覗いてきた。一瞬、沙耶香の鳶色の瞳に赤い光が走ったような気がした。
次の瞬間、清虎は頷いていた。
そして、放課後。サッカー部の練習が終わった清虎は素早く支度を終えて校門に向かった。
沙耶香は門柱にもたれるようにして待っていた。
「あっ、加藤さん。お疲れさまです」
沙耶香は清虎に気付くと控えめに頭を下げた。
「すみません、お待たせしました」
「いいえ、待つのは苦じゃありませんから」
沙耶香が首を傾けてにこり、と笑った。それだけで清虎は世界が明るくなったように感じる。
「じゃあ、行きましょうか」
沙耶香が先に立って歩き出す。
正門前の道路を渡り、向かい合う消防署の脇の道を駅に向かって歩く。そのまま駅舎を抜けて北口に出れば大型量販店『ランスロット』を中心に広がる駅前商店街だが、そちらには向かわず、駅の手前で横道に入る。
この街は一本横道に入れば昔ながらの入り組んだ道路網が広がっている。その蟻の巣のような道を、沙耶香は迷わずに進んでいく。清虎はついていくのがやっとだった。
住宅街の複雑な道を右に折れ、左に折れを繰り返し、三十分ほど歩いただろうか。
沙耶香が足を止めた。
「ここです。ここのコーヒーがおいしいんです」
そこは大正時代に建てられたと思しき洋館付き住宅だった。
きちんと手入れされた庭を装飾の施された塀が囲っている。塀は腰ほどの高さで金属の柵に変わっていて、その上端部には槍先のような装飾が施されていた。
開け放たれた門には表札の代わりに『珈琲・軽食 スノードロップ』という看板が出ていた。洋館部分を改装して喫茶店として営業しているらしい。
「す、すごい建物ですね」
「でしょう? 親戚がやってるんです」
清虎が躊躇していると、沙耶香は慣れた様子で庭に入った。洋館側のドアを開けると、取り付けられたベルがからころと音を立てる。
「いらっしゃい」
ワイシャツにベスト姿をした、四十代半ばと見えるマスターがカウンターでコップを拭いていた。
中はカウンター席が六席と四人掛けのテーブル席が二つあるだけの小さな店だったが、清虎たちの他に客の姿はない。
元々はカウンターの辺りから別の部屋だったらしく、見えている梁の向きが変わっている。
部屋の隅に置かれたレコードプレイヤーからジャズらしい音楽が流れているが、音量はさほど大きくなく、あまり邪魔にならない。
以前彰一に紹介された「いい雰囲気の喫茶店」とは違い、本当にいい雰囲気の喫茶店だった。
「伯父さん、こちらが昨日話した加藤さんです」
沙耶香に水を向けられて、清虎は頭を下げた。
「どうも。この前は姪っ子が世話になったそうで」
マスターは沙耶香によく似た笑顔で会釈を返した。
沙耶香がさっさとカウンター席に座ったので、清虎もその隣に座る。
「ブレンドコーヒーと、それからチーズケーキを下さい。加藤さんはどうしますか?」
「あ、えっと……じゃあ、同じものを」
清虎は完全に場の空気に呑まれていた。
目の前に広がっているのは映画の一場面のように現実味のない光景だ。それだけに清虎は自分が今、目覚めているのか夢を見ているのか分からなくなっていた。
ぼんやりしている清虎を不思議に思ったか、沙耶香が首を傾げた。
「あの、どうしたんですか、加藤さん?」
「え、ああ、いえ。なんだかあまりにも現実離れしていて……」
「夢かもしれない、って思ったんですか? 大丈夫、現実ですよ」
沙耶香がおっとりと笑う。その笑顔を一目見た清虎は、もう夢でもいいと思った。
「夢かと思った時には普段何気なく見ているものを二度見するといいそうですよ」
マスターがそう言いながらコーヒーとケーキを清虎の前に出した。
「何気なく見ているもの?」
「ええ。普段何気なく見ていて、曖昧にしか記憶していないものは夢の中で再構成する時も曖昧にしか構成できないそうなんです。だから二度見すると細部が微妙に変わるとか」
「そうなんですか」
清虎はコーヒーを口に運んだ。ただ苦いのではなく、適度に酸味が混じっている。
「じゃあ、試してみようかな」
清虎は店の壁に飾られている古い洋画のポスターに目をやった。タイトルは『ダンケルクの傘』とある。
そこの背景に描かれた海岸線をよく見て、いったん顔を背けたあと、もう一度海岸線に目を向けた。
特に変化はなかった。
「良かった、変わらない」
「当たり前じゃないですか。おかしな加藤さん」
沙耶香が口元に手を当てて笑っている。
「そう、そうですよね。夢なはずがない。でもなんだか実感が湧かなくて」
「う、ふふ、ふ……。じゃあ、この雪と一緒に私が溶けて消えてしまう、とでも?」
「そ、そんなことは! あっ、その、ないです」
沙耶香の笑みに一瞬、翳りが差した気がして、清虎は慌てて否定した。顔が猛烈に熱くなる。きっと真っ赤になっているのだろう。
「優しい人。だから私は……」
沙耶香はそこで言葉を切った。頬の辺りがほんのりと赤くなっているように見える。
二人はしばらく無言で見つめ合って、そしてどちらからともなく笑い出した。
穏やかな時間はゆっくりと過ぎていった。
***
(十八)雪女
そうさな、さっき話した羽柴のお嬢さんのことがあってから四、五年は経った頃だぃね。だから太平洋戦争の直前ってことになるんかね。
用があって前橋までいってさ、その日に用は済まなかったから、とりあえず宿をとって飲み屋街に繰り出したんさ。そしたら見慣れない店を見つけてね。ふらふらーっと入っちまったわけなんさ。
そしたら、そこにものすごい美人で、ちょっと近寄りにくいって感じの姐さんがいたんさね。
いや、これが世に言う雪女郎ってやつかと思ったね。ほら、昔話でよくあんだんべ? 雪の山に出てくるっていう綺麗な女のお化け。あー、今はヨーカイっちゅうんか? まあ、そういうやつ。
俺も気圧されてさ。でもあんな美女はよく見とかねぇともったいねと思ったわけさ。芸者遊びなんかできるほど稼ぎもねぇしな。で、端っこの方の席でちびちび呑りながらその姐さんの方をちらちら見てたんよ。そしたら、姐さんと目があっちゃったんさ。いや、気まずかったね。
そしたら姐さん、隣にいた自分の弟子になんか言い含ませて立たせたんさ。
その弟子は……まあ姐さんには負けるけどこっちもなかなかの美人だったな。それで、その弟子は俺の席まで来ると「こちらへおいでなさりませ」と言う。
夢かと思って頬をつねったりしたんだけど、痛いから夢じゃねぇ。それなら人違いかと思ったけど、店ん中に他の客はねぇ。
だから俺に言ってるんだとようやく分かったわけだ。
俺はもう、わかりやすいほどほいほい付いてったよ。
あの夜のことはぽーっとなっちゃってもう、それ以上覚えてないんさ。もう、年寄りだしな。
で、次にその雪女と会ったのは戦後だよ。戦争が終わって、ようやく帰ってきた後、戦死した兄貴の代わりに家族を食わせなきゃならなくなった。そんで、がむしゃらに働いて、たまに余裕があると飲み屋街に息抜きぃ行ってたのよ。
そしたらその雑踏の中で偶然、あの夜の雪女……弟子の方だから雪ん子か? まあ、再会したわけなんさ。
意外なことに、向こうも俺を覚えていて、それから時々会うようになって……つっても、当時はしゃれたデートができるような余裕はなかったけどな。
祝言は、昭和三十一年の二月九日だった。ああ、忘れるとあいつが拗ねるもんで、ちゃんとメモしてるんだよ。
なに、ただの惚気話だろうって? ぎゃふん、バレたか。
でもすごいだろ。あいつ、一緒になった頃の写真と比べてもあまり変わってないんよ。だからほら、お前さんも初めて会った時、娘と間違えただろ。一体どんな化粧をしてるんか、女っちゅうのはおっかねぇよな。
――昭和六十年六月三日、霧雨市の鈴木氏宅にて採話
***
翌日の放課後、清虎は掛け持っている文芸部の活動拠点である図書館に顔を出した。掛け持ちといっても去年の春、廃部を避けるために是非にと頼まれて名簿に載せただけの幽霊部員で、今まで何かを書いたことはないし、活動に顔を出したこともない。
それなのに今日、顔を出したのは木下に呼び出されたからだった。
この学校の図書館は正面玄関の前に通路を挟んで向かい合っているプレハブの一戸建てだ。ただし、運動部の物置同然の部室とは違い、暖房と加湿器が備えられており快適さは比べものにならない。
その図書館の奥、資料閲覧用のテーブルが並んでいる辺りで、文芸部の面々はてんでに本を読んだり雑談したりしていた。
「ようやく来たな、幽霊」
木下は清虎が入ってきたのに気付くと、軽く手を挙げた。
正規の部員である二年生三名、一年生二名が清虎の方を向く。
「加藤君、まだ退部してなかったんだ」
部長の石田が口走った言葉が文芸部内での清虎の扱いを端的に表していた。
「元々名前だけの幽霊部員だからな。今年になって黒田と片桐が入部ったからお役御免なわけだが、一応退部届出しとくか?」
木下はまじめな顔で訊いてきた。
「出さなくても影響はないですから、このままでいいですよ」
本音を言えば面倒なだけなのだが、そこは伏せておいた。
「はははははっ。まあ、退部となると手続きが面倒だからな。さて、冗談はこの辺にしとくか」
「は、はあ……」
絶句する清虎に木下は得意げな笑みを浮かべると、真顔に戻って続けた。
「で、だ。加藤、お前この頃顔色が悪いぞ。一体どうしたんだ?」
「どうって、別にどうもしてないですよ」
「そうか。なんだかこう、生気がないと言えばいいのか。顔が段々白っぽくなってきてる。この前の大雪の日からな」
「そうですか? 別に、俺はなんとも……」
「それにお前、注意力が散漫になってるぞ。今日の授業中もどこか心ここにあらずって感じだったし」
清虎は返答に詰まった。言われてみれば、授業内容をよく覚えていない。
「でも、ノートはちゃんと取ってます」
「ちゃんと取れてりゃいいってもんでもないだろ。ノート取るくらい彰一もやってる。さてはお前、雪女にでも魅入られたな?」
「ばかなことを言わないでください! 彼女はそんなんじゃありません!」
清虎は思わず声を荒げた。文芸部員たちが驚いた顔で固まる。
木下は冷静に頷いた。銀縁眼鏡の向こうで、鳶色の瞳が鋭くなる。
清虎は蛇に狙われた蛙のごとく動けなくなった。嫌な汗が背中を伝い、不快な感覚を残す。
「なんつったっけな、彼女……鈴木沙耶香か。まあお前が誰に惚れようと、誰と付き合おうと俺は知らん。他に影響を及ぼさない範囲ならな。だが、今のお前はだめだ。明らかに悪いモノに魅入られてる」
「……っ!」
否定はできなかった。取り憑かれている。魅入られている。確かにこの数日を思い返せばそんな状態だったかもしれない。そして、その原因は沙耶香に会ったことに違いない。
この数日、清虎は気が付くと沙耶香のことを考えていたのだ。
「なあ、加藤。今のお前はどう見ても普通じゃない。明良から聞いたが、この寒いのに暖房を使いたがらないそうじゃないか」
木下は諭すように続けた。清虎は耳を塞ぎたかったが、体はまるで言うことを聞いてくれなかった。
「今のままじゃお前、体調崩すか、それともいきなりぶっ倒れてそのまま死んじまうかもしれん。今のお前はそういう状態だ。いいか、加藤。今後しばらく、お前は一人になるな。あの娘と会うのも止せ」
「でも……」
「口答えするな!」
大きな音を立ててテーブルが震えた。
今まで激しいだけだった木下の語調に怒気が混じった。
「俺はなにも意地悪してるわけじゃない。お前が見ていて不安だから言ってるんだ」
「……放っておいて、下さい」
「あぁ?」
「俺のことは、放っておいて下さい」
清虎は喉の奥から絞り出すように言った。
「お前、それ本気で言ってるのか」
今や、その視線は人を殺せるのではないかと思うほどに鋭さを増している。
「自分のことは自分でできます!」
清虎は木下の目を見ないようにしながら叫ぶと、図書館を飛び出した。
サッカー部の部室には向かわず、校舎裏の土手を越えて渡川の河川敷に出た。そこから迷わず北へ。雪はまだ浅く積もっているが、走るのに支障はない。
上流の水道橋を過ぎたあたりから草むらが多くなり、走りにくくなる。それでも、清虎は無我夢中で走り続けた。
心のどこかで自分らしくないな、と思いながら、それでも走らずにはいられなかった。
草むらを突き抜け、新雪を踏み荒らす。靴に冷気が染み込み、少しずつ足が冷えてくる。だが、サッカー部で鍛えた足は、そう簡単には鈍らなかった。
とはいえ、制服は体操着やユニフォームと違い、走り続けるようにはできていない。三分もしない内に体中から汗が噴き出した。汗を吸った制服やワイシャツの生地が体に貼り付き、体の動きを邪魔するようになる。
そのままさらに五分も走るとさすがの清虎も息が上がってきた。ついに足がもつれ、清虎は新雪の上に転がった。体を大の字に広げて仰向けになる。
今にもまた雪が降り出しそうな、黒に近い灰色の空が目の前に広がっていた。
走り続けて火照った体に雪が心地よい。体が冷えるのと同時に嫌なものも抜けていくようだった。
俺は正常だ。何者にも取り憑かれたり、魅入られたりしていない。
木下に言われたことを否定するように頭を振る。しかし、そんなことをしても意味がないこともよく分かっていた。
清虎は、沙耶香と出会ってからのことを思い出していた。
交差点で出会った時の困った顔。
クッキーの箱を差し出してきた時のはにかんだ顔。
『スノードロップ』で話していた時の楽しそうな顔。
一つ一つの場面をありありと思い浮かべることができる。
ただ、思い出していてふ、と気になったことがあった。
昨日、沙耶香の顔に一瞬差した翳り。
一度気になると、心に刺さったトゲのように気になってしまう。
「どうしてあんな顔をしたんだ?」
清虎はぽつり、と呟いた。
「本人にきいてみたらいいじゃない」
頭上から声がかかった。一人だと思っていた清虎は慌てて身を起こし、後ろを振り向いた。
一人の少女が土手の上の道路に立っていた。
年の頃は十七、八というところか。
豪奢なフリルで飾りたてた黒地のゴシックドレスとビロードらしい光沢のあるマントに身を包み、腰まである長い髪によく映える赤いカチューシャを戴いている。膝丈のスカートと厚手の白いタイツが細い足を覆っていて、足下には古風なエナメルの靴を履いていた。
切りそろえた前髪の下に並ぶ切れ長の目は鋭い眼光を放っていて、近寄り難い高貴な雰囲気を漂わせていた。その美貌は時代錯誤な衣装と相まって生き人形のような印象を抱かせる。
ただし、少女はやや背を丸めて両手で口元を覆っていた。その仕草が、少女が人形ではなく人間であるということの証左だった。
「あなたは……?」
「木下の親戚の者よ。といっても、私が本家筋だけれども」
少女はそう言うと、清虎を手招きした。
「ちょっとこっちにおいでなさいな。そこじゃあ凍えてしまうわ」
「いえ、大丈夫です」
「大丈夫なわけないわ。唇が真っ青よ」
「そんなバカな!」
清虎は反論しようとしたが、少女が肘に下げていたバッグから手鏡を取り出したので、仕方なく立ち上がり、土手の上に上がった。
手渡された手鏡で自分の顔を見た清虎は言葉を失った。
そこに映った顔は蒼白で唇は真っ青。目は落ちくぼみ、まるで病人のような有様だった。
「ね、大丈夫じゃなかったでしょう?」
「え、ええ……」
愕然とする清虎に、少女は微笑みかける。救いをもたらす女神のように。破滅をもたらす魔女のように。
「かわいそうに、まったく自覚症状がなかったのね。秀子が心配するわけだわ。ああ見えてとても心配性だもの。さ、話してご覧なさい。あの雪の日から今まで、何があったのかを。私ならなんとかしてあげられるわ」
少女はまるで芝居の台詞でも読み上げるように、一言一言をはっきりと、しかし流れるように発音した。
「もちろん、いきなり初対面の人間に洗いざらい話せと言われても無理なのは分かるわ。信用していいものか分からないものね。でも、あなたは状況を認識した。もう猶予はないわ。早くしないと死んでしまうもの」
死んでしまうと言われ、清虎はぎくりとした。だが、目の前の少女が真実を言っているという保証はない。清虎が体調を崩しているのにこじつけて適当なことを並べているだけかもしれない。
清虎は逡巡した。
その間に、少女はゆっくりと清虎の背後に回った。
「残念ながら、ゆっくり悩んでいる時間はないわ。放っておいたら近い内にあの子に取り殺されてしまう。あの子より私を信用できると思ったなら……そうね、今晩にでもまゆ玉ホールにいらっしゃい。時間はそちらの都合でいいわ」
少女が言うまゆ玉ホールはこの街の市民ホールで、学校から歩いて三分ほどのところにある。一階には食堂や喫茶店も入っているから、会見の場所としては問題ない。
「ちょっと待って下さい。あなたは一体誰なんですか?」
「あら、まだ名乗ってなかったかしら。藤よ。羽柴藤」
空気がざわついた。
羽柴藤と名乗った少女を畏れるように。
突如吹き始めた風が少女の髪を、マントを、スカートをはためかせる。
少女は髪を手で押さえて艶然と笑った。
「う、ふふ、ふ……。風が出てきたわね」
清虎は底知れぬ恐怖に捕らわれ、少女に背を向けて走り出した。
***
清虎は第一高校の前にいた。とにかく沙耶香に会いたかった。会えば、何かが解決する気がした。
放課後ということで校門周辺に人影はない。
清虎は中に入ろうとして思いとどまった。
校内に入ったところでどこを探せばいいか分からないし、そもそも沙耶香がまだ校内にいるかもわからない。
それに、商業の男子制服は特徴のない平凡な学ランで、スタイリッシュな縁取りの入った第一のブレザーとは見間違えようがない。校内に無断侵入すればまずいことになるのは確実だ。
校門の前で立ち尽くしていると、昇降口から一人の女子生徒が出てきた。
メタルフレームの眼鏡をかけたきつい印象の女子生徒で、洒落た縁取りの入った紺色のブレザーの上にネイビーブルーのトレンチコートを羽織っている。
名前は覚えていないが、つい数日前にも図書館で話した、明良の中学時代からの友達だった。
女子生徒は清虎に気付くと目を大きく見開いた。
「明良のお兄さん……? どうしたんです、その顔?」
「いや、気にしないでくれ。それより、少しききたいことがあるんだが」
言い掛けて、清虎は沙耶香の学年もクラスも知らなかったことに気付いた。
「気にするなという方が無理です。と、とりあえず何か暖かいものを買ってきますね」
「いや、本当にいいんだ。それより、人を探してるんだ」
「そんな有様で人探しですか? よほどの事情と見えますが、サッカー部関係ですか? でしたら工業に遠征してますが」
「いや、違うんだ。鈴木沙耶香という女子生徒なのだが、分かるだろうか?」
「鈴木沙耶香さん? ……いえ、私の知人にはいませんね。その方に緊急のご用なんですね?」
「あ、あぁ。どうしても確認したいことがあって」
清虎はこれまでのいきさつや沙耶香の特徴を簡単に話した。女子生徒は腕を組んで話を聴いていたが、やがて小さくため息をついた。
「なるほど。それで着の身着のまま、携帯も持たずに駆けてきた、と。情熱的ですね」
女子生徒は呆れたような口調で言うと、コートのポケットからスマートフォンを取り出し、電話をかけ始めた。親しい先輩に探りを入れてくれているらしい。
しばらく話した後、女子生徒は相手に礼を言って電話を切った。怪訝な顔をしている。
「その人、本当にうちの制服を着てたんですか?」
「ああ。間違いない」
「そうですか。噂好きの先輩にそれとなく訊いてみたんですが、うちの学校にそういう人はいないし、鈴木沙耶香という名前にも覚えがないそうです」
「その人が知らないだけという可能性はないのか?」
「ない、とは言えませんがあまり高くはないですね。普通の人ならまだしも、希有希現な美女とあれば彼女の情報網に引っかからないはずがありませんから」
「そうか」
清虎は暗澹たる気持ちになった。
鈴木沙耶香という人間はこの学校には存在していないという。それでは、彼女は一体どこの誰だったというのか。
「すまなかった。……自分の足で探してみる」
やっとの思いで絞り出すように言うと、清虎はふらふらと歩き始めた。やけに体が重い。そのせいで一歩一歩を踏み出すのにもやけに力が必要だった。
「探すって、その人をですか? でもどうやって?」
「昨日案内してもらった店に行ってみる。大体の道筋は覚えているからな」
清虎は記憶を頼りに『スノードロップ』を探すつもりだった。ついていくのがやっとだったとはいえ、大体の方向や道筋は覚えている。『スノードロップ』に行けば、沙耶香の手がかりが掴めるに違いない。
「お兄さん、いくらなんでもそれは無茶です。少し休んで下さい」
「だめだ。沙耶香さんを探さなくちゃいけない。それで、ことの真偽を確かめないと」
「確かめるって、何をですか?」
「君は雪女なのか、って」
清虎は深呼吸しながら答えた。
正直、立っているのがやっとというくらい、体が重くなっていた。
「まさか、本当に?」
「前に話しただろう。雪女にでも魅入られたんじゃないかと言われたって。あの時はほんの冗談だったが」
「本当にそうなってしまった、とでも?」
女子生徒が駆け寄ってきて、清虎の額に手を当てた。
「やはり氷のように冷たくなっています。体を温めて安静にしていないと」
「だが、そんな時間はないんだ。夜までに沙耶香さんに会って、話を……」
そこまで言い掛けた時、視界がぐらり、と傾いだ。
全身から力が抜ける。
「お兄さん!?」
女子生徒が体を支えてくれなければそのまま路上に倒れていただろう。
「すまん、急に力が抜けてしまって」
「はぁ……。お兄さん、分かってますか? 今のあなたは重症なんですよ」
「分かってるさ。だけど、行かないと」
「だめです! 休まないと命に関わります!」
女子生徒はスマートフォンを操作して一一九番にかけようとしたが、清虎が押しとどめる。
「せめてあと少し、少しだけ待ってくれ」
清虎は女子生徒に向かって頭を下げた。本当なら土下座でもしたいところだったが、体を支えられている状態ではこれが精一杯だった。
女子生徒は黙って清虎を見ていたが、やがてスマートフォンをポケットに戻した。
「仕方ありませんね。でも、単独行動はだめです。私もついていきますよ」
「本当にすまん。えーと……」
「土岐日向です。気にしないで下さい」
日向はそう言うと清虎に自分のコートを羽織らせる。
「気休めかもしれませんがこれを。じゃあ、行きましょうか。どっちの方ですか?」
「あっち、駅の方だったはずだ」
清虎は日向に支えられるようにして歩き出した。
自分一人で動けないのは腹立だしいが、この短時間でありえないほど衰弱しているのは事実だ。そして、それをなんとかするには沙耶香に会わねばならないという、強迫観念にも似た思いが清虎をせき立てていた。
それから一時間ほど、二人は入り組んだ街路を歩き回った。
頼りになるのは清虎の記憶だけで、目印になる案内板の類はないため、何度も迷ったのだ。とはいえ、大通りを渡った記憶はなかったから探す範囲は自ずと限られた。
そして、ようやくそれらしい建物を見つけた時には辺りは薄暗くなっていた。
「ここ、ですか?」
「たぶんな」
清虎は目の前にあるものが信じられなかった。
確かに、大正時代に建てられたであろう洋館付き住宅で、庭を塀が囲っている。塀は腰ほどの高さで金属製の柵に変わっていて、その先端部は槍先のような形になっている。
だが、喫茶店として営業するどころか、整備された様子すらなかった。
柵の向こうの庭は枯れ草と雑草に覆われ、日陰には溶け残った雪が白く積もっている。
建物もだいぶ痛んでいて、壁面の漆喰は剥げかけ、ガラス窓も埃で濁っている。
人の気配は感じられず、門柱には当然ながら看板などない。
「別のお屋敷と間違えた、ということは?」
「こんな狭い範囲にこういう屋敷が二軒も三軒もあるとは思えん。おそらく間違いないんだろう」
「そうですよね……」
門扉は堅く閉ざされていて、少なくとも数年は開けられた様子はない。
触れてみると、錆びた金属の嫌な手触りがした。そのまま力を込めると、門扉は耳障りな音を立てて動く。
「こいつ……動くぞ」
「まさか、入るんですか? さすがにまずいのでは?」
「いや、行くよ。この先で待ってる気がする」
日向は唖然とした様子だったが、清虎は構わずに庭に踏み込む。
人の気配はなかったが、清虎には沙耶香が待っているという不思議な確信があった。あるいはそれは確信というより願望に近かったのかもしれない。
一歩足を進める度に枯れ草を踏みしめるざり、という音がする。清虎は足を取られないように注意しながら家の玄関部分に近づいていった。
衰弱した体は自力ではゆっくり動くのがやっとだ。
ざり。
ざり。
ほんの数メートルを進むにしては余りに長い時間をかけて、清虎は玄関の前に到達した。
ドアノブに手をかけた瞬間、指先に痛みが走り、清虎は思わず手を引っ込めた。
よく見ると、ドアノブに霜がついている。窓ガラスが濁っているのも埃ではなく結露しているのだった。
「どうしました?」
清虎が止まったのを見て、日向が駆け寄ってくる。
「見てくれ。ドアが凍ってる」
「なんですって?」
日向もドアノブを見て状況を理解したらしい。
「……仕方ありませんね。お兄さんは中にその彼女がいるとお考えですか?」
「分からん。だが、なんらかの手がかりはあるんじゃないかと思う」
清虎が言うのとほぼ同時だった。ドアがひとりでに開き、中から冷気が漏れ出してきた。
日向が数歩、後ずさる。
「行ってくる。君はここで待っていてくれ」
「嫌です。もし、中に誰もいなくて、しかもお兄さんが倒れたりしたら」
「まず、そんなことはないと思う。だが、もし三十分経って俺が出てこなかったら、その時は人を呼んでくれ」
清虎は日向の肩を掴み、言い聞かせた。
メタルフレームの奥で吊り気味の瞳が不安げに揺れている。
「……分かりました。くれぐれも気をつけて下さい」
わずかな時間そうしてにらみ合った末、日向は頷いた。
「すまん、恩に着る」
言いながら、これで今日何度目の「すまん」だろうか、と清虎は思った。
日向の肩から手を離すと、意を決して冷蔵庫のような家の中に足を踏み入れる。
玄関を上がると、右手が洋館部分につながる扉、左手は廊下が長く伸びていた。
清虎はまず、洋館の扉に手をかけた。玄関の時とは違って痛みと間違えるほどの冷たさはない。
違う、と直感した。
それでもそっと扉を開ける。
外に出られる作りの大きなガラス窓から夕暮れの弱々しい光が差し込む洋館部分には、何もなかった。
それに、清虎の記憶では奥の部屋と繋がっていたはずなのだが、その形跡もなく、漆喰の壁が立ちはだかっていた。
清虎はそっと壁に触れてみた。壁は、壁だ。
その壁に小さな染みがあるのを見つけた清虎は、一度目を離した後もう一度見てみたが、染みの形は変わっていなかった。
「夢なら良かったんだがな」
ぽつり、と呟く。
廊下に戻ると、いつの間にか玄関のドアが閉まっていた。
日向が閉めたとは考えづらい以上、開いた時同様、勝手に閉まったのかもしれない。
清虎は廊下の奥に目を移した。
雨戸が閉まっているせいで廊下はすっかり暗くなっている。その廊下の奥に白い人影が立っていた。
「……沙耶香、さん?」
清虎の問いかけに人影は答えなかった。
答える代わりにゆらり、と一歩近づいてくる。
「やはり君は、そうなのか?」
ゆらり。一歩進む度に人影は左右に揺れる。
「雪女、なのか?」
答えはない。
それでも、清虎は呼びかけた。
「沙耶香さん、嘘だと言ってくれ」
ゆらり。ゆらゆら。左右に揺れながら、人影は清虎めがけて歩いてくる。
五メートルほどまで近づくと、それが白い和服を着た沙耶香であることが分かった。ただし、俯いているせいで顔の上半分が影になり、表情は読みとれない。
「もう少し、だったのに」
沙耶香は小さな声で、呟くように言った。
「あと、もう少しだけ気付かなければ……」
「俺を、取り殺すことができた、と?」
答えはなかった。代わりにまた少しずつ、近づいてくる。
「そうなのか?」
清虎は全身の毛が逆立つのを感じた。
だが、逃げることはできない。逃げたところで、おそらく屋敷の外に出ることはできないだろう。
「違うんです、清虎さん。私……」
清虎から一メートルほどの距離で沙耶香は顔を上げた。
彼女は、今にも泣き出しそうな顔をしていた。
「私はただ、人になりたかった。人として暮らしたかっただけなのに」
「それで、俺に近づいたんだな」
清虎は低い声で言った。意識してそうなったわけではない。
自然とそうなったのだ。それは、清虎の胸中で膨れ上がる怒りのせいだった。
「最初から人間ごっこが目的だったのか?」
「そ、そんなわけではありません」
「じゃあどんなわけなんだ? 寒さに鈍感になったり、体が急に弱ったりしたのも……!」
「知らなかったんです。そんなことになるなんて」
沙耶香は何度も謝るが、清虎はとても許す気になれなかった。
沙耶香と知り合ったのはほんの数日前でしかない。じっくり話をしたのは昨夜が初めてだ。だが、それでも清虎は沙耶香のことを信じていた。
だから、木下に会うなと言われても反発したのだ。だというのに。
「ごめんなさい」
沙耶香は体が二つに折れるかと思うほど深く頭を下げた。
許す気にはなれないが、しかしここまで恐縮している相手に手を上げることも、清虎にはできなかった。
清虎はそっと、沙耶香を起こした。
沙耶香の目尻から、かすかに光るものがつう、と流れ落ちた。
「清虎……さん?」
「沙耶香さん、俺は君を許すことはできない。だが、暴力に訴えることもできない。だから……」
消えてくれ、と続けるはずだった言葉は、そこで止まった。
沙耶香が、清虎の胸に飛び込んできたのだ。
「私、男の人なら誰でもいいなんて思ってませんでした。いいえ、むしろ清虎さんじゃなきゃ嫌だって」
清虎の胸に顔をうずめたまま、沙耶香は泣きながら言った。
「だから私、あんな映画みたいな手を使って会いに行ったんです」
「そうだったのか」
清虎は沙耶香を突き放すことはしなかった。ただ泣くのに任せる。
と、急に、強い睡魔が清虎を襲った。清虎は遠のく意識をつなぎ止めようとふんばったが、睡魔の力はその努力を上回った。
体から力が、抜ける。
自分の体が糸の切れたマリオネットのように崩れ落ちるのを自覚しながら、清虎の意識は闇に吸い込まれていった。
熾火のように光る一対の目。それが、最後の記憶だった。
***
洋館付き和風住宅。あるいは文化住宅とも呼ばれるその家は名前の通り、平均的な日本家屋に小さな洋館を増築したような外観になっていて、洋館部分は応接間や書斎などに使われている。
ただし、日向の目の前にあるそれは、人が住まなくなってだいぶ経つようで、朽ちつつある廃墟だった。
清虎が廃墟に侵入してもうじき三十分が経つ。
警備会社のステッカーは見当たらないから警備員が駆けつけてくるということはなさそうだが、それでもこんなところを近隣住民に見られでもしたら面倒なことになる。
日向はスマートフォンを操作するふりをしながら周囲を見渡したが、幸いにも通行人の姿はなかった。
「出てきません、か」
玄関のドアは固く閉じており、内部で何が起きているのかは分からない。何度も開けようとしたが、ドア全体が石にでもなったように動かなかった。
日向はしばらくやきもきしながら待っていたが、それでも中の様子が分からないので、応援を呼ぼうと明良に電話をかけてみた。
しかし、耳に当てたスマートフォンからは砂嵐が流れるばかりで呼び出し音はおろか、発信音すらしない。
「ど、どうして……?」
日向は何度もかけ直すが相変わらず繋がらない。それならとメールを打ってみたが、焦っているのかミスタイプが目立つ。なんとか文面を打ち終えても、肝心の送信は失敗した。
見れば、電波状況は圏外になっていた。
ありえない事態に日向が硬直していると、背後から声がかけられた。
「繋がらないでしょう?」
振り向いた日向の目に、黒々としたシルエットが映った。
ビロードのマントにゴシックドレス。抜けるように白い肌。
それに、右が黄色、左が青の燐光を放つ、怜悧な瞳。
彼女は、肩で風を切るように堂々と歩いてきた。
不意の登場ではあったが、日向には絶対の救世主に等しかった。
「ここは、人間の世界とは少しずれているのよ。だから電波は通じないの」
「お、お姉さま! 来て下さったのですね」
「ええ。心配だったものだから。あの子と、彼が」
藤の言う彼、が誰を指しているのか、日向にはすぐに分かった。
「お姉さまがいらっしゃったということは、やはりお兄さんは妖物に魅入られているのですね?」
「ええ、話からすると雪女の類ね。昔から人間が好きなモノたち。だから彼女たちと人間との悲恋物語は絶えないのよ」
藤は口元だけで笑った。
「さて、急がないと。そろそろ、彼が危険ね」
右手で軽く髪を梳くと、そのまま薬指と小指を曲げて剣印を作った。
剣印をドアに向けると、その指先に赤い火の玉が生まれた。
火の玉はみるみる内に大きくなり、固く閉じたドアをなめる。しかし、その炎がドアを焦がすことはない。代わりに、ドアの表面に張った氷が蒸気となって噴き上がる。
目の前で起きた異常な事態に、日向は目を見張る。
「あらま、強情ね。でも、これはどうかしら?」
藤はドアをにらみつけた。炎が激しくなり、蒸気の噴き上がる量が増えていく。
やがて蝶番が耐えきれなくなったのか、ドアは内側に向けて倒れた。
「さて、入りましょ」
藤は倒れたドアを踏みつけるようにして玄関に上がる。日向も慌てて後を追った。
屋敷の中は冷蔵庫のように冷え冷えとしていて、日向は自分の体を抱くように身震いした。
玄関の右手には洋館部分へ繋がる扉があって、しっかり閉じられている。
一方、左手には薄暗い廊下が続いていて、その中程に白い人影があった。
藤はその人影に対峙している。
「この土地の支配者……マドウクシャですね」
人影の問いかけに、藤が頷いた。
「あなたは、秀一さんの孫ね。隔世遺伝とは恐れ入るわ」
「はい。沙耶香と申します……」
沙耶香は名乗ると、深々と頭を下げた。
それきり、藤と人影はしばし無言で見つめ合った。
日向にははじめ、ただ白い人影としか分からなかったが、目が慣れるにつれて、それが白い和服姿の少女だというのが分かった。
それも、美人だ。
薄暗い廊下に儚げに、しかし凛と立つ姿は月下美人を想像させた。
だが、その双眸には熾火のような光が宿っており、彼女が人間でないことを示していた。
「あの、お姉さま。彼女は……」
「私の古い知り合いの孫娘よ。お婆さんに瓜二つ。深雪姐さんが帰ってきたみたい」
藤の口元は実に楽しげに笑っている。
「祖母をご存じなのですか? 私がこの力に気付いた時にはもう、祖母はいなかったので、私は何も知らないのです」
教えてほしい、と沙耶香は再び頭を下げた。
だが、藤はうんとは言わなかった。油断なく剣印を構えたまま、一歩前へ出る。
「嫌よ。それこそ秀一さんにきいておけば良かったじゃない。ああ、そんなことはどうでも良かったわ。それより清虎はどこ?」
藤は固い足音を立てながら沙耶香に近づいていく。
「清虎さんは洋館部分に寝かせてあります。死なせてしまうのは私の本意ではありませんので」
沙耶香は寂しそうに笑った。
「あら、そうなの。日向、とりあえず屋敷の外に連れ出して」
「わかりました」
藤に命じられた日向は扉を開け、洋館部分に踏み込んだ。八畳ほどの広さの洋間の中央に清虎が寝かされ、日向のコートが布団代わりに被せられていた。
日向は清虎に駆け寄ると枕元に屈み込み、そっと鼻の前に手をやった。弱々しいが、まだ息はあった。
体を起こそうとするが、意識のない人体は思いの外重く、思うように動かせない。それに、清虎の体は完全に冷え切っていた。
それはそうだろう。もう三十分も冷蔵庫のような環境にいたのだ。
日向はそれでも肩を抱くようにして立ち上がらせ、ゆっくりと玄関の方に戻った。そこでは、未だに藤と沙耶香が対峙していた。
「まだ息はある?」
「はい。ですが、危険な状態です。なんとかできませんか?」
「やぁね、私は医者じゃないわ。そういうことはお医者さんに頼みなさい」
藤は背を向けたまま言った。言い回しからすると冗談のつもりなのだろうが、その口調は早く、どこか余裕がないようにも見えた。
日向は意識のない清虎を引きずるようにして屋敷を出ると、適当な枯れ草の上に寝かせた。
「お兄さん、しっかりしてください」
呼びかけても反応はない。
とにかく体を温めようと、鞄から携帯カイロを取り出した。帰りが冷え込んでもいいように用意しておいたものだ。
焦る手で封を切り、学ランの前を開いて胸の上に置くとコートを被せ直す。
もうできることはない。
日向は清虎の右手を握りながら、屋敷の方に目をやった。
壊れた玄関の向こうで火影が揺らめいている。
祈る気持ちで、日向はその火影を見つめた。
と、突然轟音と共に火影が膨れ上がり、火竜の如く荒れ狂って屋敷を飲み込んだ。
「お、お姉さま!?」
日向の見ている前で、業火の中から藤が出てきた。豪奢なドレスもマントも少しも焦げていない。後ろに沙耶香を従えて傲然と歩く姿は煉獄の魔王モロクの如く。
「あら、心配してくれたの? いい子ね、日向」
「お姉さま、この火事は?」
「この子のけじめよ。安心なさい、あなたたちの世界には影響はないから」
藤はにこり、と笑った。
屋敷は相当派手に燃えているが、近隣の人々が外に出てくる様子はない。それどころか、窓を開ける様子も無かった。
「じゃあ、話はついたのですね?」
日向が訊くと、沙耶香は寂しそうな笑みを浮かべて答えた。
「ええ。私は、祖母を訪ねて山に行ってみようと思います。人間と共に暮らす術を学ぶために」
「本当に素直でいい子だわ。食べちゃいたいくらいに」
「えっ?」
「冗談よ。さて、それじゃあ帰りましょうか」
藤がぱんぱん、と手を叩くとどこからともなく使用人の前田が現れて清虎の体を軽々と抱え上げた。
「そうね、厚生病院にでも運び込もうかしら」
そう言うと、藤は先頭に立って歩き始めた。前田が黙って後に続く。日向は燃える屋敷を何度か振り返りながら最後尾についた。
***
藤は、暖炉の前に置かれた安楽椅子の上で目を閉じている。膝の上で丸くなった黒猫がごろごろと喉をならした。
あの火事から半月が経っていた。清虎は病院に運び込まれたが、数日で後遺症もなく快復した。その速度に医者は首を傾げたが、特に異常もないので退院となった。
その後、日向と清虎は改めてあの洋館付き住宅を訪ねてみたが、喫茶店『スノードロップ』は何事もなく、普通に営業していた。むろん、火事の痕跡などどこにもない。
日向はそうした細々とした報告と、それからいくつかききたいことがあって羽柴屋敷を訪れていた。
通されたのはいつもの応接間ではなく暖炉のあるサロンの方だった。そこには先客がいて、出された紅茶に手も付けずに固まっている。
日向は一応声をかけたのだが、藤が用件を促したため、話し始めた。日向の話が終わっても、藤は瞑目したままだった。
「あの、お姉さま?」
「聴いてるわ。それで、何が知りたいの?」
「ですから彼女が何者で、どうしてお兄さんを狙ったのか、です」
日向が訊くと、藤は安楽椅子を揺らしながら答えた。
「動物が狩りをする時に狙う獲物は、自分が狩れるものならなんでもいいの。あの子も同じよ。たまたまそこに加藤清虎というお誂えむきの獲物がいた。だから付け狙った」
「付け狙ったって……」
「あら、人間も一緒よ。だましやすい異性を結婚詐欺師が狙うようなもの。なにもあの子に……雪女に限った話でもないわ。あなたじゃないとだめなんです、なんて魅力的な異性に言い寄られて袖にできる人なんてそういないものね」
後半は日向ではなく、先客に向けられたものだった。その先客はまだ、押し黙っている。
きい、と安楽椅子が小さな音を立てた。
窓の外の暗闇に青白い光が横切ったような気がして、日向は顔を向けた。
「猫よ。この山は猫山だから」
安楽椅子に揺られたまま、藤が言う。膝の上で丸くなっていた黒猫が目を開けて首を持ち上げていた。
「いい、日向? 雪女というのは、人間に極めて近しい化け物なのよ。時には人間の男性と家庭を作ることもあるほど。もっとも、そのせいでクォーターが増えているのだけれど」
「それって、あの時言っていた隔世遺伝ですか?」
「そうよ。ただ、大抵はお婆さんから自分たちがどういうもので、人と生きるにはどうすればいいか、ということを教わるものらしいのだけれど、彼女の場合、深雪姐さんがお山に帰ってしまって、誰もそれを教えられなかったのね」
がたり、と音がした。
先客……清虎が立ち上がった時に椅子を蹴ったのだ。
「それじゃあ、沙耶香さんは……!」
「不幸よね。あの子は自分が雪女の末裔だと知らなかったから、こんな不幸なことになったのよ。それにしても」
藤は楽しそうに笑った。膝の上の黒猫が大きく欠伸をする。
「二十六にもなって高校生を引っかけようなんて、よほど若い子が好きなのね」
「に、二十六!? それは、年齢……ですか?」
突然藤が出した具体的な数字に、清虎は言葉を失った。
「そうよ。そのためにわざわざ学生時代の制服まで引っ張り出してきて。涙ぐましい努力だわ」
日向には、藤が必死に笑いをかみ殺そうとしているのがよく分かった。
確かに端から聴く分には滑稽かもしれないが、とても笑う気にはなれない。騙されていたと知ったことで傷ついた人間がいて、自分の出自を知らずに傷ついたモノがいる。
日向の目の前で、清虎が俯いたまま立ち尽くしている。その幅広の肩が小刻みに震えていた。
「そうか、それで……だけど、どうしてなんだ? どうして……」
清虎が呟いているのが聞こえる。
だが、日向はそんな清虎にかける言葉が見つからなかった。
不意に、黒猫が藤の膝から飛び降りた。カーペットの上を素早く歩いてきてテーブルの上に跳ね上がると、清虎の顔をじっ、と見上げる。
「あの子は今、お山に行ったわ。深雪姐さんを探しにね。その内帰ってくるでしょうから、言いたいことがあったらその時にでも言ってあげなさい」
藤に言われ、清虎は顔を上げた。その目尻が少し濡れているように、日向には見えた。
「ええ、言ってやりますよ。たくさん、ありますから……」
清虎は宣言すると、にっ、と笑った。
無理をして笑っているのは明らかだったが、日向は何も言わなかった。
と、いうわけで本シリーズでは異色の作品、『雪の日』をお送りしました。
孝美が苗字しか出てこないで、代わりに藤が出ている点もそうですし、完全にホラーを放棄した点もそうです。
なんというか、うん、雪女によって引き起こされる、ちょっと怪奇な現象が中々ホラー方面に行かなくて。作中でも触れられている八雲の『怪談』にある、青梅の雪女伝説では、雪女は怪しまれることなく数年間も人間として暮らしているわけで、だからきっと、彼女たちはそういうモノ、なんです。