雨恋、
私が図書館でその人を見つけたのは、レポートの為に通い始めて数日経った日曜日だった。
少し皺になった作業服にニッカポッカという出で立ちのその人は、近所で行ってる工事の作業員の人だとすぐに分かった。帰り道にある為、作業中のその人を何度か見かけた事があるからだ。
その人は工事が休みなのだろう日曜日に毎回来ては、窓際の隅の椅子で長い時間何冊かの本を読んでいた。
大学生の自分より数歳上、 20 代後半と思われる若い雰囲気で、少々強面の顔立ちは言ってしまえばガテン系、と言った感じでおよそ図書館に通うような印象の人ではない。
しかし真剣に棚の蔵書から本を探し、椅子で静かにページを開いている姿が不思議と綺麗で、気付いたら視線を追ってしまう。
工事現場で重そうな木材を軽々肩に担いで運んでいる姿も見ているから、そのギャップもあるのだろうか。
ただそれが、恋なのか、単純な興味なのかは分からない。
結局レポートの提出が終わった後も、私は日曜日には必ず図書館に通うようになっていた。
そうして分かった事は、その人は日本人作家の文学作品をよく読むという事、逆に外国人作家の本は日本語訳のものでも読まないこと、専門書はたまに読む、新聞は読まない。
長い時間いても喫煙コーナーに行ってる様子はないから、喫煙者ではないようだが、たまに入り口近くの自販機コーナーでコーヒーを買って飲んでいる。
―― そこまで知るようになって、自分は何をしているんだろうと思い至った。
ただ図書館でよく一緒になるだけの人なのにと思い至ってしまえば、すごく意味のない事をしている気持ちになって、私は今日の日曜日を以て図書館に通うのは止めようと決めた。
今日までは行こうと思ったのは、先週読み始めた本が途中だったから ―― なんて言い訳染みた考えも持ちながら外に出ると、あいにくの雨模様の空だった。
「雨かぁ。折角最後の日なのに」
残念な気持ちになりながらも仕方なく玄関先で傘を開く。
さぁ行こうと前を向いた私の目に、少し皺になった作業服が飛び込んできた。
「――え?」
私の家の前には小さな酒屋があり、その脇に設置された自販機の上には屋根が付いている。あの人は、そこで雨宿りをしているようだった。
数秒目を奪われた私の視線に気が付いたのか、空を仰いでいたあの人の目がふと私に向く。
あの人は何故か、私と同じように目を見開いた。
そして一瞬逡巡したように視線が泳ぎ、意を決したようにその足がまっすぐ私の方に向かってくる。
(…え?なんで、どうして?)
歩いて数秒。
すぐに私の正面まで来たあの人は、驚く私を尻目に、静かに聞いてきた。初めて聞いたその声は、外見からは想像できないような、静かで優しいものだった。
「…図書館に行くのか?」
そう聞いてから、彼は何かを思い出したかのように「あ、いや…」と口ごもり、私の返事を聞くより早く言い直す。
「悪い、怪しいモンじゃないんだ。よく図書館であんたを見るから、いきなりそう聞いちまった」
慌てているのか、先程より僅かに早口でそう弁解する彼に、私も慌てて答える。
「あ…、あの、私もあなたの事知ってます。いつも日曜日に来てますよね?えっと、あの、今日も行かれるんでしたら、傘、一緒に入りますか?」
時折噛みながらも一息に告げると、彼は目を何度か瞬かせてから言葉の意味を理解したのか、少し口の端を緩めて静かな声で「すまない」と答えた。
(あ、笑顔見るの初めて)
彼を知ってからずいぶん経つのに、今日初めて見た笑顔に、心が浮き立つ。
「なら傘は俺が持つ。そっちの方が楽だろう」
確かに私と彼では頭一つ半ほど身長差があるので、私が傘を持ってしまうと彼は頭をぶつけてしまいそうだ。
私がおとなしく「それじゃあ」と言ってお願いすると、彼は短く「ん」とだけ呟いて傘を差した。
――そうして並んで歩きだしておよそ 5 分。
あれ以降会話らしい会話も無く、無言で二人並んで歩いている。
傘に雨が当たる規則的なパタパタと言う音と、水溜まりの跳ねる二人分の足音だけが世界を満たしていた。
会話の種もこれと言って思い浮かばず、とりあえず図書館で見た本の話でも振ろうかと私が考えていた矢先、彼がやはり静かな声で話を切り出した。
「本当は」
「は、はい?」
突然の会話の始まりに、驚いて疑問形での返事になってしまったが、彼はそのまま言葉を続ける。
「あんたの事をずっと知ってた。あんたを追って図書館に通ってた」
「……え、えぇ?」
「 帰るとき、うちの現場の脇を通るだろう?そこであんたを見かけて、ずっと気になってて、少ししてからあんたが図書館に通ってるって分かって、日曜日には俺も行くようになったんだ」
「…」
彼の話を、私は多分マヌケな顔でただ黙って聞いていた。
「ずっと話しかけたかったけど、あんた位の年の女が好きな話題とか分かんなかくて、時間ばっか過ぎてって。だからさっき、雨宿りしてる前にあんたが現れて、目が合った時にこれが最初で最後のチャンスだって思った」
そこまで言って彼は立ち止まり、初めて私の方に顔を向ける。
「褒められた手段じゃないことは分かってる。だからあんたに、いい返事は求められない。だけど、俺からは伝えさせてほしい」
そこで、彼は一息言葉を切る。
「俺は、あんたが好きだ」
その言葉の意味が理解できるまで、数秒かかった。
頭のなかで無意識に言葉を反芻して、ようやく理解に至ったのと同時に、身体中の血液が顔に集まってきたかのような感覚がした。
「ーーーっ!!?」
今にも爆発するのではないかと思うほど頬が、顔が熱い。
対して、多分私の返事を待っているのだろう彼は、静かで淡々としている。
その姿が、図書館で何度も見た本を読んでいる姿に重なる。
「あ…」
気付いたら、頭がふっと冷えた。
ーーこの気持ちは、興味ではなく恋だったんだ。
分からなかった気持ちに、ようやく答えが現れた。
結論を持ったら、緊張のドキドキは甘いドキドキに変わる。
傘を叩く雨音すら、祝福の鐘の音のように聞こえ始めた。
「あの、私もーー」
音に背中を押されるように、急かされるように、私は初めて自分から彼に手を伸ばしたのだった。
ちょっとキュンとする話を目指して執筆しました。
一歩間違えればストーカーと呼ばれてしまいかねない状況なので、その中で彼の告白の台詞はどうするかすごく悩みました。