おかえりなさい
ふわりと浮き上がるように目が覚めた。まばらな光が窓から差し込んでくる。浮いては落ちて、落ちては浮いてを繰り返し、ベッドから上半身を乗り出してカーテンを開く。ピンとした。
目をこすると、ぼやけた目の前がだんだんはっきりしてくる。とても顔を洗いたくなった。ベッドから足を下ろす――裸足にフローリングは冷たい。ここにカーペットが欲しい、と言っていた彼の言葉を思い出しながら、わたしは立ち上がった。
寝室を出て、スリッパを履いて玄関のほうに少し歩いて行く。寒い廊下を通って、玄関に来た。靴は少ない。遮るものがないのは、楽、なのかな? 右手を下駄箱の上に置いて身体を支えながら、ドアポストに入った新聞をひょいと取り出した。右手に体重をかけて、浮き上がった足をスリッパに着地させる。あくびをひとつ。わたしは、新聞を左手の指先で揺らしながら、ダイニングに向かって歩く。
白くて飾り気のない廊下をのんびり歩いて、わたしはダイニングに来た。玩んでいた新聞を四角いダイニングテーブルの上に置いた。もちろん、窓に近い右側の椅子の前に、だ。
そのまま、キッチンに行き、冷蔵庫から、ペットボトルのブレンディとパックの牛乳を取り出した。ふたつは調理台に置いておく。戸棚からは、わたしのマグカップを取り出そうと思ったのだけど、そこにはなかった。誰も見てはいないけど、つい首を傾げてしまう。あ。ペタペタと音を立てて、わたしはまた冷蔵庫の扉を開けた。背の高い冷蔵庫の、いちばん上の段にムーミンが書かれたマグカップがあった。わたしのだ。どうして、そんな高いところに置いたのだろうと、昨夜の自分に腹を立てた。けれど、本当は「どうして」の理由を知っているから、いらだちはすぐに収まる。カップの中身は、記憶の通り、カップの半分くらい入った水だ。昨夜、寝る前に水を飲もうと思ってカップ一杯に注いだのだけど、半分飲んだところで満足してしまったのだった。残った水をどうしようか。カップの中を覗きこむと、透明な水はそこに何もないかのようにカップの底を映している。シンクに水を捨てた。
自分にムーミンの絵が見えるように、マグカップを台に置いた。まずは、ブレンディをカップの三分の一ほど淹れた。濃い茶色でカップの底は見えなくなる。続いて、牛乳をカップがいっぱいになるまで注いだ。濃い茶色に白が混ざる。注ぐ手を止めると、一瞬マーブル模様ができた。パックの注ぎ口をたたむうちに模様は薄まり、薄い茶色のカフェオレが残った。
テーブルで椅子に座って飲もうか、今飲んでしまおうか。ブレンディと牛乳を冷蔵庫にしまう間に考えよう。そう思いながら、ぼんやりと冷蔵庫にふたつをしまい、戻って来た。気づいたら、わたしはカップを持って、自分の口元に近づけていた。笑ってしまう。わたしはちびりちびりと少しずつカフェオレを口に含み、飲み干した。
カップを水で濯いで、シンクの右隣に飲み口を上にして置いた。タオルでぬれた手を拭う。ダイニングに戻って、壁掛け時計の針を見た。針は、七時五七、八分を差していた。出かけたあくびを飲み込んだ。彼は朝帰りの時はいつも、ちょうど八時二分に帰って来る。
スーツ姿のくたびれた彼に何をしてあげようか。真面目な彼は、手洗いうがいをして、軽くシャワーを浴びてから、ベッドで眠ってしまうだろう。「おやすみ」と、必ずわたしに告げてから。
想像して、わたしは、ふと思いついた。シャワーを浴びた後の彼に、カフェオレを淹れてあげよう。ブレンディと牛乳の量は同じくらい。にっこり笑って勧めよう。
「おかえりなさい」と言うわたしは、意地悪かもしれない。
利き腕は大事ですね。コーヒーもカフェオレも大好きです。読了ありがとうございました。