犬鍋のすゝめ
まず水を四カップ加え、だし用に昆布を一枚、切り目を入れて浸しておく。
ウシやブタといった陸生動物の肉の旨味成分は主にイノシン酸であるので、昆布を入れることでグルタミン酸による相乗効果で味に深みが出るといった効果がある。
イヌの肉を食べたことのある方なら分かると思うが、そこらへんをうろついている野良犬、いわゆる雑種犬の肉はよろしくない。路地裏に転がっているゴミ箱の中身や黒い袋に捨てられた得体の知れない肉を口にしているので肉は筋張っており、弾力もなくただただ固いだけの、現代人には物足りない代物だからだ(そもそも、共食いじみたことをしなくてはいけない野良生活、これ自体がよくないと私は思う)。
面倒だとは思うがイヌ肉は信頼のおける店から購入しなくてはいけない。私の場合、家から地下鉄で七十九駅先にある駅の目の前にある大きな白い塀の前の古ぼけた精肉店で、「チャウチャウ」という名前の肉を買う。実際に中国では食用ともされており、百グラムで約二百九十八円とさして高くない。白い袋に包まれた肉を胸に抱えながら電車に揺られていると、不思議と高揚とした気分になるのだ。
どの部位が美味しいのか気になる人も多いと思う。イヌはどこを食べても美味しい、これが私の回答だ。脚は必死で駆け回ったのだろう繊維が発達していて、噛む度に豊富なタンパク質の味わいが染みだしてくる。腹回りの肉は脂がさしており、特に良質なものだと適度に怠けさせているために真っ白に輝く脂肪には惚れ惚れする。内臓を食べるという人もいるが、どうもあの匂いは受け入れがたい。どうも腹の底から苦い水がせり上がってきて、舌が痙攣したように震えてしまう。
さて切り方や大きさについては各自好きなようにして構わない。私は四センチほどのぶつ切りにする。イヌの肉はお湯に入れると柔らかくなるので少々大き目に切っても食べる際に支障はきたさないと思われる(私の友人には切らずにそのまま食する者もいる。『喉をこじ開けていく感覚が好きなんだ』と彼談。別にイヌでなくてもいいじゃないかと思ったのはここだけの話だ)。
イヌの味は淡白で弱い。しかも旨味がだしとして相当量出てしまうのもそのことに拍車をかける。だから付け合わせの具は最低限に、味や香りのきついものは避けた方がいい。例えばネギやニラがこれに当てはまる。アサリ、エビやカニを入れようって輩は何のためにイヌ肉を入れたのか分かっているのだろうか。カニにでも食われればよい。
もやしと豆腐、葛きりを入れて煮込んでしばらくしてから水菜をたっぷりと。そろそろつけだれをどうするか頭を悩ませる頃だと思う。個人的にはポン酢を鍋のだし汁で割ったものをお薦めしたい。比率はポン酢一に対してだし汁五から六、ポン酢もゆず風味が聞いていないものが望ましい。味噌だれも悪くはないが、具を飲みこんでも口に残る甘ったるさとイヌの後味とがどうも馴染まなかった。
ふたをして二十分も煮こめば十分である。ではイヌ肉を賞味する時間だ。テレビやラジオ、その他情報機器や現実拡張デバイスは電源をオフにして、電灯も切ってロウソクぐらいの微かな灯りの下で食べよう。これはあくまで雰囲気作りだが、高級レストランの派手な装飾や控えめなピアノの音色と同じ役割と考えてもらいたい。余計な光や音を遮断して、鍋になったイヌを想像することで、罪の意識や嫌悪感を自分の中で掻き立てさせる。どうしてあんなに知性があって、私と同じ空間で生きていたイヌを殺してまで食べるんだ、と罪の呵責に苛まれる時間が必要なのだ。これはそうした食欲を減退させる思いをあえて思い浮かべることで、「でもそこまでして食べたい」という思いに昇華させようという狙いだ。罪悪感もまたスパイスとなるという訳だ。そうなると口の中は唾液で溢れそうになり、喉は体の一部となる、美味を求めてごくりと音を鳴らす。仏様を拝むように掌はきちんと合わせてから食べること。たとえ目玉焼きを食べる時であっても忘れてはいけないことだが、イヌ鍋の場合は尚更しっかりとしなくてはいけない儀式だ。鍋に箸を突っこみ肉の感触がしたら引き上げる。風呂に浸かるように、薄めたポン酢にしっかりとつけて一口で食べる。脂分はあまり多くないが、ウシやブタとは違った甘味があってしかも優しい味に、誰もが虜になるだろう(何度も登場させて読者にも、本人にも申し訳ないのだが、友人氏が初めてイヌ鍋を食べた時の話だ。張り切った私は例の精肉店でグラム千円もする高級肉を用意して、同志が増えることにうきうきしながら支度をしたものだ。ラジオを切り電気を消して、買ってきた仏壇用ロウソクに火を灯して合掌をし、いざ実食という運びになったのだが、彼の最初の感想は『嫌な味がするなあ』だったから驚きだ。私でさえも二、三度しか食べたことがないほどの上級品で、実際私はあまりの美味しさに脳天から足の小指の先まで、電気が流れたかと思うほどだっただけに尚更だ。『でもせっかくだ。栄養にはなるんだし、飲みこむなりして食えばいいさ』とアドバイスをすると、友人は飲みこみ始めた。まるで卵を丸飲みするように、顔を上に向けて食道を通過させた後の彼の一言が『うん、飲みこんだ感じは旨いね』だった)。
栄養の話が出てきたが、人間の体とイヌ肉は相性がいいらしく、よっぽどまずい調理法をしない限り消化不良を起こしたり寄生虫にやられたりすることはないという。また人間の細胞膜を構成するために必要な油脂も豊富に含まれており、しかもその組成もほぼ人間と同じであるために非常に栄養面からも優れているのだ。
そうそう、イヌ肉は信頼できる店で買うように先ほど言ったのだが、これは世間ではイヌ肉と偽ってブタやウシの肉を置いているところがあるからだ。「羊頭狗肉」という言葉は中国の故事に由来するが、現在でも似たようなことをするものがいるのは、食に関してごまかすことは人間の性ということになるのかもしれない。
<註>読者の時代では忌避されている名称を使用しているため、当該部は「イヌ」などで置き換えている。ご了承いただきたい。