18 小さき黒猫 ~後編~
薄っすらと目を開けると、視界には木造の天井が映った。
(……あれ? 僕、何でこんなところに?)
「ん? あ~、目が覚めたようね。おはよう、私の使い魔っ!」
「……き、君は、確かあの時の……っ!? あれっ? 僕、何で人間の言葉っ!?」
黒猫は自分が初めて発した言葉に驚き、その口を肉球でぷにん、と押さえる。
「ふっふっふ~。そりゃああんた、この偉大なる魔女オルコス様と使い魔契約を結んだんですもの。言葉の一つや二つ喋れるに決まってるでしょ?」
「魔女の使い魔っ!? そんな、困るよぉ。僕、子猫たちにご飯を……っ! そうだっ!! 早く戻って皆に――っ!?」
オルコスは、そう言いかけた黒猫の口に人差し指を当てると、困ったような優しい笑みを浮かべた。
「無駄よ。て言うか、もうあの町無いし」
「えっ!?」
「まあ、なんて言うの? 超凄い私でも、さすがに使い魔契約は初めてだったし。それにあんた死にかけだったじゃない? あんたさ、ざっと90日くらい寝てたわけよ。その間にあの町では疫病が大流行してね。どうにもなんなくなって、教会が町ごと燃やしちゃったのよ」
「そ……そんな」
黒猫は、これでは生きている意味もない、とベッドの上でうなだれる。
「シャキッとしなさいよ。命なんて遅いか早いかだけで、どうせ最後は無くなっちゃうんだから。それに、その子猫たちみたいな可哀想な子が出ないように、私の研究を手伝いなさいっ!」
オルコスはその細い指をびしっ、と向けてくる。
「……研究?」
「そう。私はこの世界を誰もが大爆笑しながら、最高の人生だったひゃっほうって、思える世界に作り変えてやろう思っているわけよ。わけなのよっ!」
オルコスは得意気にその慎ましやかな胸を張ると、ずいっと顔を近付けてくる。
「よくわからないけど、オルコスの研究が上手くいけば、もうあんな悲しいことなくなるのかな?」
黒猫は、オルコスから顔を背けながら子猫たちのことを思い出す。
「もちのろんよっ! だから、あんたはそれを手伝いなさいっ!!」
オルコスは、むふぅーと鼻息荒く言って、黒猫の背けた顔をぐいっと自分に向かせる。
「……うん。わかった。僕にできることがあるなら手伝う……ううん。手伝わせてよ」
黒猫はベッドから起き上がり、決意を固める。
「でも僕にできることなんて何か――っ!?」
あるのかな。そう言いかけて、黒猫はまたまた驚愕した。自分が人間よろしく後ろ足だけで立って、二足歩行していたからだ。
「あれーっ!? なにこれっ!!」
更には手足の先が靴下でも履いているかのように、白くなっている事に気付いた。
「いや~。ごめんごめん。やっぱり気付いたかぁ。まぁ、何て言うの。失敗しちったっ」
オルコスはまったく悪びれもせず、いたずらな笑みを浮かべてぱちりとウインクした。
「そんなぁ……」
黒猫は自分の間抜けに変わり果てた手足を見て、格好悪いなぁ、と落ち込む。
「まあまあ、やっちゃったもんはしょうがないんだからっ」
オルコスはそんな適当な事を言って、ぱしぱしと背中を叩いてくる。
「それにあれよ。手足の先だけが白い黒猫なんて他にいないでしょ? それは、あんたがあんたである証。私と使い魔契約を交わした唯一無二だと思えば、ね?」
オルコスは、落ち込む黒猫を見て、さすがに申し訳無さがこみ上げたのか、慰めるようにその手足に触れた。
「唯一無二って……」
できればもっと格好の良い唯一無二が欲しかったな、と黒猫は未練がましく間抜けに成り果てた手足を見つめる。
「あっ! そうだ、あんた名前はあるの?」
「え? 名前は……ないよ」
一度も人に飼われたことなどない黒猫は、少し寂しそうに答えた。
「なら良かったっ。そうだろうと思って、この私が素晴らしい名前を考えたのよ。この90日間、ずっと考えてきたわけよっ」
オルコスは拾った子犬に名前をつけるこどものようにきらきらと目を輝かせて、ずいっと顔を近付けてくる。
「……変な名前は嫌だよ」
ヌヴィはまたぞろ格好悪いことになるのではないかと、自身の手足を一瞥したあと、訝しむような視線をオルコスへ向ける。
「ヌヴィ。あんたの名前はヌヴィにするわ」
「ヌヴィ?」
何とも判断はつかないが、少し間抜けな響きだ。
「そうよ。あの冒険譚『猫魔導士ヌヴィ』のヌヴィよっ。どう? いい名前でしょ?」
オルコスは、自慢気にふふんと鼻で笑って両手に腰を当てると、どうなの? という視線を向けてくる。
黒猫は、ヌヴィという名より魔導士という言葉の響きに少し心を動かされた。
「ヌヴィ……うん、わかった。僕、気に入ったよ。オルコス、名前をくれてありがとう」
黒猫は主から名前をもらい、この時本当の意味で自分が唯一無二になれた気がした。
「ふふっ。どういたしまして。あとは、そうね……その僕って言うのは頂けないわね。ヌヴィはこの私、偉大なる魔女の使い魔なんだから……あれよ、自分の事はこれから我輩って言いなさい」
オルコスはそんな無茶を言って、だって我輩の方がかっこいいから、とヌヴィには理解できない理屈をこぼす。
「わっ、我輩っ? 無理だよぉ。僕は僕でいいよ……」
「よくないっ!」
それから、オルコスが変な人間を拾って来たりして、僅かばかりの出会いと別れがあり、数年の月日が流れていった。
そんなある日のこと。
「ヌヴィっ。完成したわっ! これが、世界の皆を大爆笑の第一弾よっ!」
長い間、自室に篭っていたオルコスは、奇怪な紋様が描かれた数十枚の羊皮紙を抱えて、部屋から飛び出してきた。
それは、世界の理に触れる魔女が魔女たりえる魔術の完成だった。
「えっ!? 完成したの? それで、どんな魔術なのさ?」
ヌヴィは興奮気味にオルコスへと詰め寄る。
「これからこの世界ではね、言葉が魔法になるのよ」
「言葉が?」
オルコスの説明にヌヴィは、よくわからないといった表情で聞き返す。
「う~ん。何て言うの? 痛いの痛いの、飛んでけー、ってあるでしょ? それを心から言うと、本当に飛んでいくのよ。すごいでしょ?」
オルコスがみんなを笑顔に作戦の第一弾として編み出したのは、医者にかかれない貧しい人たちを救うための魔術だった。
「……なにそれ?」
「まあまあ、第一弾だから。とりあえず、これで病気やケガで苦しむ人たちが激減するはずよっ」
オルコスは、麻袋から豆を取り出して行儀悪く口に放り込んでばくばく食べると、こどものような無邪気な顔で嬉しそうに笑った。
「じゃあ、これからは病気もケガも、何でも魔法で全部治っちゃうってこと?」
ヌヴィは、すごいや、と目を輝かせてオルコスに尊敬の眼差しを向ける。
「そゆこと。まあまだ、何でもとはいかないけどね。私は初めのきっかけを作っただけだから。あとは、みんながこの魔法を育てていくのよ」
そうすれば、いずれはこの世界から病気とケガで苦しむ人たちが消えて、今よりもっと多くの人たちに笑顔が灯ると、この時のオルコスはそう思っていた。
しかし、世界はオルコスの善意とは真逆の方向へと動き始める。
世界が望んだのは、癒しよりも破壊であったのだ。その後、オルコスが生み出した言葉の魔法は、負の心を孕んだ呪詛として成長を続けていく。
そして、後にスキル魔法と呼ばれるその言葉の魔法は更なる争いを生み、オルコスの術式のせいで、より多くの人間が世界を恨みながら死んでいった。
オルコスは、そんな人々の末路を目にして、こんなつもりではなかったと、自分のしでかした事の重大さに心を病んだ。
「……失敗した」
それから、明るかったオルコスは、その言葉を最後に全く笑わなくなった。自分の部屋へこもりがちになり、時折独り言を呟く抜け殻となった。
ヌヴィは、また普段のオルコスに戻って欲しくて、オルコスを笑わせようと様々な芸を身に付けた。そんなことしかできなかった。そんなことしか思いつかなかった。
それでも、いつかオルコスが笑ってくれると信じて、ヌヴィは芸を考えてはオルコスに披露し続けたが、結局その日までオルコスが笑う事は無かった。
そんな重い空気が続いたとある日の夕刻。
「ヌヴィ。私、今回は諦めたわ」
オルコスは、やせ細った体で部屋から出てくると、そんな事を言った。
「色々と考えて見たけど、やっぱりもう無理。私は、心が折れてしまっている。今回の私じゃ、もう駄目みたい」
オルコスはわけのわからない事を言って、ふらふらと覚束ない足取りで、居間の椅子に腰を下ろした。
「と、とにかく、何か食べなよ」
「うん。食べる」
それから、オルコスはこれまでの事を取り返すように、毎日しっかり食事を取るようになり、以前の美しさを取り戻していった。
ヌヴィは、これで元に戻ってくれるかもと淡い期待を抱いて、未だに表情が死んでしまったままのオルコスを笑わせようと、芸を磨き続けたのだが。
その日は突然訪れた。まるで、予め決まっていたような言葉と、よく晴れた天気の良い空が、ヌヴィの頭の中を激しくかき乱していく。
「ヌヴィ、ごめんね。私、これから次を生むから、あんたには次のオルコスを育てて欲しいの。こんなこと、わがままで酷いって思うけど……」
「え? 何を言って――」
「……ごめんね」
そう言って、オルコスがヌヴィの額を小突くと、その意識は深い闇へと塗りつぶされていった。
次にヌヴィが気付いた時、オルコスと共に過ごしたその工房は、ホコリまみれであれからどれだけの時間が経過したのかすら、わからない程に荒廃していた。
ヌヴィは、オルコスの術式により、三年もの間眠らされていたのだ。
テーブルに置かれた、埃の被ったオルコスからの手紙を読んで、ヌヴィは慌てて外へと飛び出した。
オルコスと使い魔の契約を結んでいるヌヴィには、その主たるオルコスがどこにいるのかが感覚的にわかる。
ヌヴィは、その感覚を丁寧に辿り、山を超え野を駆け数日をかけて、その場所へとたどり着いた。
やっと……やっと、オルコスに会えるっ! ヌヴィの心は弾んだ。
しかし、その小高い丘から見た景色に、ヌヴィは言葉を失う。
その先に見えたのは、おびただしい数の群衆と、銀色の鎧を身にまとった多くの騎士に囲まれる、火刑台の上で磔にされたオルコスの姿だった。
ヌヴィに残ったのは、オルコスからの頼みが記された、一通の手紙だけだった。
オルコスは、この世界でこれまでに起こった、すべての疫病、災害を自分がやったと嘘の告白をし、全ての人間の苦しみをぶつけられて死んでいった。
せめて、人間たちのぶつけようがない怒りと悲しみの矛先になろうと。
それから、ヌヴィは手紙に記されていたオルコスの言いつけを守り、オルコスのこどもの世話をした。みんなを笑顔にしたいと言っていたオルコスの願いが叶うように、精一杯尽くした。
しかし、次の世代、その次の世代のオルコスも、最後は皆同様に悲しい死に方をした。
それが、何度も何度も繰り返される内に、やがてヌヴィの心の方が耐えられなくなった。
ヌヴィは、オルコスが不幸な死を遂げてしまうのは、不吉の象徴である黒猫の自分がそばに居るせいだと、ありえない考えを肯定し、次の世代のオルコスには近づかず、遠くから見守る事にした。
すると、単なる偶然だったのだが、そのオルコスは魔女としての自分を受け入れながらも、一人の女として家庭を持ち幸せな生涯を遂げたのだ。
ヌヴィは、その代のオルコスが、自分の家族を笑顔にしているところを見て、これだけで十分ではないか、と言いつけを忘れて、自己満足の中へと身をうずめていった。
そうして、その後も何代にも渡って、遠くからオルコスの姿を見ていく内に、もう自分が居なくても大丈夫だろうと、深い眠りに付いた。
そして、次にヌヴィが目を覚ました時には、更に数百年の時が流れていた。初代のオルコスと交わした契約印も、残り僅かとなっている。
もう一度眠りにつき、そのまま逝こう。
ヌヴィはそう決めて、静かに瞳を閉じた。
だがその時、ヌヴィの胸の中に小さく空いていた穴が広がっている事に気が付いた。
寂しい。
それは、心が当たり前に持つ、極自然な感情だった。
大好きだったオルコスの姿を一度拝んでからでも、バチは当たらないだろう。
そしてヌヴィは、自身の残り僅かな時間を自分のためだけに使おうと思った。最後くらい良いだろうと。
その後、オルコスの気配を頼りに旅を続け、一つの町にたどり着いた。エスタディアという発展途上の街だ。活気に溢れていて商人たちが多く見られるが、まだどこか自身が生前暮らしていた港町のような素朴さも感じられる。
終わるには良い場所だ。
ヌヴィは、高鳴る気持ちを抑えて、手の甲で光る契約印の導く方へと歩みを速めた。
そうして見つけた一つの材料屋の中を窓越しに見て、ヌヴィの頬に一筋の雫が流れる。
オルコスだ。
今度のオルコスは、獣耳と尻尾が生えてはいるが、見れば見るほど良く似ている。
残された最後の時間ぐらい、自分が笑って過ごしたっていいだろう。
ヌヴィは、そう思って夜が明けるのを待つと、一軒の材料屋へと足を踏み入れたのだった。




