10 無かった事に。
真上から街を照らしていた陽が少し角度を変え、商人たちに一時の休息が訪れる頃、ひっそりとした区画にある小さな材料屋の前に、一台の魔導馬車が横付けされた。
ロクは馬車から降り、思いの外強い日差しに少し目を細めると、我が家である筈のその建物の前で、中に入るのを躊躇してしまった。
胸元にしまわれた、その小さな小瓶が戻って来た理由だと考えると、中々その一歩が前に出なかった。
とは言え、ここでいつまでも考えていても仕方ないと、扉に手をかけた瞬間。
「……ロク?」
声に振り返ると、そこには、ぽかん、と抜けた表情でこちらを見るリコベルが立っていた。
「え? なに? あんた体は大丈夫なの? なんで?」
リコベルは、夢か幻でも見るような顔で駆け寄り、ロクの全身に無遠慮な視線を向ける。
「いや、少し休みが出来たから戻ってきたんだが……とりあえず中に入っていいか?」
「え? ああ、うん」
混乱した様子のリコベルを促して、とりあえず我が家である店内へと入って行く。
ロクは、自身がこれまで心を預けてきた店の中を懐かしむように一望すると、静かに椅子に腰を下ろした。
「アビスは変わりないか?」
「うん。でも、あんたが居ないから寂しいみたいよ」
「そうか」
小窓から陽が差し込むだけの薄暗い室内に沈黙が流れる。
「アビスは……学校か。帰ってくるまで、少し街の様子でも――」
「ロク……あんた、死ぬ気なの?」
リコベルは、逃がす気はないといった構えで、腕組みをして壁に寄りかかったまま、単刀直入に言葉をぶつけた。
「……何の冗談だ? 死ぬつもりなんてさらさらないし、今回の件ももうすぐ片付く」
ロクは、リコベルを見ないまま、アビスが作ったのであろう木箱の上に置かれた花かんむりを手に取る。
「はい、そうですかって、私が信じると思う?」
リコベルは、こっち見ろ、と言った風にロクの手からその花かんむりを取り上げて、睨みつけるような目をする。
さすがに、だよな。と、ロクは観念したかのように一つため息をつくと、まっすぐにリコベルへ向き直した。
「何でも腕の立つ魔導士が一人、討伐に加わったらしくてな。俺の担当は半分になった。まあ、それでも余裕とは言い難いがな」
ロクは嘘偽りの無い事実を告げたあとで、その自分で吐いた言葉に嫌悪した。当然、今日戻ってきた本当の理由を隠しているからだ。
「そう……なんだ。本当にそれで」
終わりなの? リコベルがそう言いかけたところで、がちゃりと音を立てて店に入ってくる者が現れた。
その獣耳と尻尾を有したちっこいやつは、呆然とした表情でロクを見つめ……その双眸にキラキラとした光を灯した。
「ロクっ!」
アビスだ。
アビスは、満面の笑みを浮かべると小走りでこちらへ来て、ロクの脚にはしっと抱きついた。
「ロクっ。もう、おしごと終わった? あびす、いいこにできてたよ?」
「いや、まだ終わってないが、少し休みができたんでな」
アビスは、子犬のように尻尾をぱたぱたとさせ、いいこで待ってたから褒めて、と上目遣いでロクを見上げる。
「リコのおてつだいもちゃんとしたよ?」
「そうか」
「うんっ。あと……あとはね、お料理もれんしゅーしてましたっ」
ロクの服の裾をぎゅっと掴んだまま、嬉しそうに身体を弾ませて喋り続けるアビスに思わず頬が緩む。
「それは凄いな」
ロクは、ほぼ無意識の内にその手のひらをアビスの頭に乗せようとしていた。
だが、その手がアビスの頭を撫でることはなく、すんでのところで制止する。
「……?」
不思議そうに小首を傾げるアビスと、あの日殺した狂騎士の持っていた写真に映る小さな女の子の姿が重なる。
奪ったのだ。
自分は恐らく、こういう暖かいものを壊してしまった。否、これまでずっと壊し続けてきたのだ。
「ロク?」
「……いや、ちょっと着替えてくる。来る途中で何度か魔導馬車を整備したんでな」
ロクは、半ば逃げるようにアビスから離れると、はしご階段を登っていく。そうして視界に入ったのは、自分が居た頃より綺麗に整頓された寝室だった。
ロクは、リコベルが綺麗に畳んでくれたのであろう服を手に取り、レギオンからの旅路でよれたシャツのボタンを外す。
衣服を脱いだその身体には、血の跡が付いた包帯が巻かれている。ロクは、さすがにな、と思い棚を漁って包帯を探すと、
「あんた、その身体……」
ぎしり、とはしご階段を軋ませると同時にリコベルが顔を覗かせた。
「……なんだ? 少し見ない内に覗きが趣味になったのか?」
ロクは振り返らないまま、冗談めかした言葉を返す。
「大丈夫なの? フレアに見せてもらった報告書だと、あんた普段の力が出せないくらいまで負傷してるって」
リコベルは、血の滲んだ包帯が巻かれたロクの体を見て、慌てて駆け寄ってくる。
「いや、傷は負ったがもうほとんど回復している。レギオンの術式がかかったベッドで寝てたからな。問題ないレベルだ」
ロクは、胸中でフレアの行動に舌打ちをしながら、自身の身体に巻かれた痛々しいそれを乱暴に解いていく。
「ほら、貸して。自分じゃ難しいでしょ?」
「ん? ……ああ、助かる」
リコベルは半ば奪うように、ロクの手から包帯を取る。
「まったく、あんたは……」
リコベルは言っておきながら、若い男の肌に直接触れたことなどない生娘なので、顔が熱くなるのを感じていた。
「……ああ、でも傷はほとんど閉じてるのね」
「だから、問題ないと言っただろ?」
リコベルは照れ隠しもあってか、そんな事を言いながら器用に包帯を巻いていく。
「ねえ。あんたにこんな傷を負わせるほどの奴と、まだ戦わなきゃならないんでしょ?」
「……ああ。だがまあ、さっきも言ったが、戦力が増えたからな」
「……」
リコベルは、ロクの背中にまわした包帯をピン留めして、軽く肌に触れたまま、嫌だ、嫌だ、嫌だ、という自分でも抑えきれない感情が頭の中に渦巻いていくのを感じていた。
「じゃあ、そろそろ飯でも買いに行くか」
ロクは、そんなリコベルからすっと離れると、新しいシャツに着替えて、話は終わりと言った風にそう切り出したのだが。
「……?」
はしご階段へ向かったロクの足は、背後から服の裾を引っ張る者によって止められた。
「行かせたくない……もう、待ってるの辛いよ」
リコベルは、俯いたまま本音を口にする。
「リコ……?」
「もうさ、このまま三人でどっかに逃げちゃうのってどうかな? どっか地図にも載ってないような小さな村なら、レギオンだって簡単には見つけらんないでしょ? そしたら、前みたいに楽しく暮らせると思うんだけど……な」
リコベルの声は、少しずつ小さくなっていく。本人もそんなことは無理だとわかっているからだ。それでも、自分の想いを寄せる相手が傷つき、死ぬかも知れないのをただ待つのは苦痛だった。
「今回の件が片付いたら、全部元通りだ。どこにも逃げる必要なんてない」
ロクはリコベルに背を向けたまま、心が入っていないただの言葉を返す。
「うん。言葉ではわかるんだけど。何かさ、今日のロク見てると、もう最期みたいでさ。さっきもアビスちゃんのこと避けてたでしょ?」
「いや、あれは服が汚れていたから……」
ロクは、自分でも心の無い言葉を吐いている自覚がある。だからだろうか、信頼できる相手を前にして、つい弱い部分が顔を覗かせそうになるのは。
「リコ。お前は……」
人を殺したことがあるか? そう言いかけて自重した。
「……なに?」
「いや。飯にしよう。腹ペコのやつが下から覗いてる」
ロクは、話はこれまでと言わんばかりにそう切ると、はしご階段を降りていってしまった。
その後は、屋台で買った大漁の夕飯を三人で囲み、他愛もない話に花を咲かせ、次第に夜が更けていった。
そして深夜。リコベルは、後ろ髪を引かれる想いで、久しぶりに自分のねぐらへと帰り、アビスが深く寝入った頃のこと。
一階には、灰色のローブを身に纏った金髪の魔導士が待っていた。
「事情はわかりましたわ」
フレアはロクから渡されていた密書を胸の内にしまうと、魔導士らしい表情で頷いた。
「頼めるか?」
「……先輩。本当にいいんですの?」
「ああ。もう決めたことだ。あとのことは頼む」
ロクは決心が揺らがぬよう、予め決めていたような言葉を吐くと、魔導レギオン殲滅階級のローブを手にして材料屋をあとにした。
まだ、漆黒の闇が辺りを包み、しんと静まり返る街の中を一台の魔導馬車が進んでいったのだった。




