2人
「なつきぃ」
隣の部屋とは強化ガラスで仕切られ、残りの三面は白い壁に囲まれた、余計な物は何一つない観察室。そこに入った1匹の歪獣は嬉しそうに、その強化ガラスに子供のように顔と手を押し付け、その向こうにいる少女の名前を呼んだ。向こう側にいる白衣を着た少女はにっこりと微笑み返したが、それが取り繕った笑顔である事に、歪獣は気付かない。
少女のいる部屋は薄暗く、いくつものモニターや機器が何台もの机の上に所狭しと並べられ、様々なデータを記録し続けている。モニターの明かりに照らされた少女の顔は、どこか楽しそうであり、どこか寂しそうでもあった。歪獣は作業を続ける少女の様子をじいっと見つめ続ける。尻尾をゆらゆらと振りながら、親を待つ子のように。
しばらく忙しそうに色んな機器の間を行ったり来たりしていた少女は、一段落ついたかのように背伸びをし、小さく息を吐いた。そして強化ガラスの仕切りに近付き、額をガラスに押し当てる歪獣をガラス越しに撫でる。
「久しぶりだね、コウ」
「なつき あそぼ」
少女よりも二回りは大きいその歪獣は、幼い子供のように少女を見つめる。喉を鳴らし、身体からは粘液が垂れた。少女は申し訳なさそうに視線を逸らしながら答える。
「ごめんね、今日は遊べないの」
少しウェーブのかかった長い髪の毛を手で溶き、少女は歪獣に謝った。
「なつき たいへん」
少し残念そうにしながらも歪獣はガラスから離れ、へたりと腰を下ろす。少女はその様子を悲しそうな目で、俯きながら見る。
「じっけん しよ」
何も知らない歪獣は、そう言った。
「実験は」
少女はぽつりとそう呟く。そしてテーブルの引き出しからハサミを取り出し、歪獣に背を向けて自分の髪の毛をざくざくと切り始めた。
「実験は……しない」
床の上にさらさらの髪が降り積もり、隠れていたうなじが露わになっていく。歪獣は見た目がみるみるうちに変わっていく少女を不思議そうに眺めながら、何も生えてない自らの頭をぬるりと触った。
すっかり髪を切り終わった少女は、機器のスイッチを片っ端から切り始めた。モニターの電源も落とす。ただひたすら無言で、少女は歪獣のいる観察室の扉へと歩きながら、白衣のボタンを外し、脱いだ。ズボンも脱ぎ、下着ですらも、パンツを残して全て、体から外した。
外側からしか鍵をかけられない扉を開き、少女は観察室へと入った。歪獣は嬉しそうに少女に近付いて一鳴きする。
「なつき きた」
歪獣の青い肌に抱き締められ、崩れ落ちるように体を預けながら、少女は涙を流していた。
「コウ……私、コウとさよならしたくない」
少女は歪獣の背中に腕を回し、その確かな鼓動とぬるい体温とを感じる。歪獣は普段と違う格好と感触をした少女を不思議に思いながらも、きゅっと抱き締め返した。その部屋を映す監視カメラのスイッチは既に止められている。
「さよなら してない いま いる」
歪獣は少女を見ながら、答えた。少女は歪獣の手を振りほどき、その場に座り込みながら声を上げて泣き始めた。歪獣は見た事のない少女の姿をただじいっと見つめ、喉を鳴らした。
「私……コウと“2人”で生きて行きたい。ひとりぼっちは、嫌……!」
泣きじゃくる少女の頬に伝う涙。歪獣はその粒を、尻尾の先で器用にすくい取った。そしてしゃがみ、少女とおんなじ目線で、拙い言葉をこぼす。
「なつき ずっと いっしょ」
歪獣の粘液で貼りついて邪魔になるからと切り落とした髪の毛に隠れていた少女の頬に、歪獣はその口をそっとあてた。
少女は、悲しくて嬉しくて、座り込んだまま歪獣をいつまでも抱き締めて離さなかった。歪獣は少女の温かさを全身で感じながら、緩やかに尻尾を振り、その身体で少女を包み込み、自分の知っている唯一の存在である少女の命を感じながら、目を閉じる。
「なつきぃ」
“好き”という言葉を知らず、伝えられない気持ちを少女の名前に乗せながら。