包帯の向こう
プロットとしては面白いかな、と書き始めました。残念ながら少し、ヒネリが足りないのかな、と反省。もう少し「オレ」の切ないところが書き込めればよくなったのかな、と思いますが、いかがでしょうか。
全身の痛みで目が覚めた。
頭が割れるように痛むし、関節という関節がバラバラに外れたような気分だ。
少しだけ足を動かしてみようとしたが、なにかに固定されているようだ。
なにより痛みが先にあって、途中であきらめた。
ここはどこなんだ?
ブーンと低いエアコンの唸り声と、消毒液の匂いだけはわかった。
どこかの部屋なんだなきっと。
どこなんだろう。
考えをまとめようとしたが、オレは耐えがたい痛みでまた気を失った。
夢を見ていた。
黒い大きな球状の塊が、オレを追いかけてくる。
その塊にはビッシリと鋭い刃先がついていた。
オレは振り帰り振り返り、必死になって逃げている。
ああ、もうダメだと諦めた刹那、夢はブツリと切れる。
しかし幾らも経たぬうちに、またその塊が再生し、オレを追いかけ始めるのだ。
不思議なもので、ああ、オレは今夢を見ているということが意識できた。
しかし夢と意識できるのは、恐怖感が過ぎ去った後のことであって、黒い塊に追いかけられている間はうなされていたのかもしれない。
何度目かの塊をやり過ごした後、オレは徐々に意識が覚めてきた。
ん?
ひょっとしたらここは病院か?
オレの記憶はヤクザの組織にボコボコにされ、放り捨てられたところで途絶している。
動けないってことは、ああ、そうか、オレは今、全身を包帯で巻かれ、動かないように固定されているんじゃないか。
誰かがオレを発見してくれ、病院にかつぎこまれたのだろう。
このエアコンが効いた清潔なベッドは病院でしかありえない。
オレのような末端の麻薬バイニンが巣食うビルの一室とは違う。
もっともあの不潔さは、ドブネズミのようなオレに似つかわしいといえぬこともないが。
程なくすると、人が現れた気配がした。
おや、お気づきになられましたか、と驚いたように声をかけてきた。
オレはなにか答えようとしたが、ングググ、という呻き声が出ただけだった。
喉のあたりもやられているらしい。
続いてもう一人がドアをバタリと開いて現れた。
「どうです、わかりますか。ここは病院です。あなたは瀕死の重傷で搬送されてきました。いずれ怪我のお話しもしなくちゃなりませんが、警察も事情を聴きたがっています。ご気分はどうです?」
オレはとりあえず首を振ろうとしたが、痛みで動きを止めざるをえなかった。
とにかく音と気配と匂いしかわからない。
あとは見えない、動けない、口がきけない。
「あ、無理はなさらずに。とにかく免許証にあったご家族のところに連絡は入れてあります」
え?
家族?
免許証?
なんだそれ?
オレはチンピラだぜ。
身元の割れるようなものを持っているわけがないじゃないか。
組の中でもつまらないあだ名でしか呼ばれたことしかない。
第一、名前なんて符牒みたいなもんじゃないか。
名前が中村だろうが田中だろうが、そいつがそいつであることになんの関係もない。
なに馬鹿なこといってんだ、こいつら…。
いや、ちょっと待てよ。
違うぞ、そうじゃない。
アッ、そうか。
思い出した。
オレは戸籍と住民票を買ったんだ。
こうなるつい二、三日前。
そうだ、あれは、日雇い労働者の日割りアパート、そういわゆるドヤで知り合った男から買ったんだ。
オレは段々と鮮明に思い出してきた。
その日、オレはねぐらとしてドヤを一室借りていた。
安ウィスキィと缶詰を買い込んでゴロゴロしていた。
その時だ、妙な野郎がのっそりと入ってきやがったのは。
「ニイサン、オレにも一杯飲ましてくんねぇか」
そいつはアル中独特の酒焼けした鼻先と、回らぬ呂律でボソッといってきた。
バカいうな、テメェで買ってきな、ということもできたが、年恰好、体型、それになぜかしらオレと顔つきが似ていたためか、ああ、飲めよ、コップなんざねぇぜ、と瓶ごと渡した。
そいつは人懐っこい笑顔を見せると、すまねぇな、といって一気に三分の一近くを流し込んだ。
壮絶にゲップをかますと、もう一口流し込んだ。
「ふぅ、酒はいいな、やっぱし」
「一気じゃねぇか。アル中か、オマエ?」
「ああ、そうだ。もう体中ボロボロだがな、やめられん。もっとも、それだからこそアル中なんだろうがな」
「このドヤがねぐらなのか?」
「今のところはな。だが、もうだめだろう。先月あたりまでなんとか手配師から時々仕事をもらっていたが、こんなんじゃどうしようもない。仕事もずっとやってない。所持金もなくなった。あとは公園がねぐらだな」
「まだ若そうじゃないか。いくつなんだ」
そいつが答えた歳はオレと同じだった。
フーン、道理でな、なにしろ顔つきまで似ているんだからな。
「アンタはなにをやってんだい、ま、ここにいるようじゃ、ロクなことじゃないだろうがな」
グヘヘヘヘ、と笑いながらソイツが尋ねてきた。
当たり前だ、でなきゃこんなところで丸くなってるわけねぇよ。
「フン、アル中がエラソウに説教垂れんじゃねぇよ…といいてぇが、その通りだな。ちょいと気まずいことで生きてる。サツカンとは友達になれねぇな」
「だろうな。同い年のハンパモン同士ってことだな。まぁ、いい。でな、同い年でこんん吹き溜まりで出会ったのもなんかの縁だろう。ちょいとお願いがあるんだがな」
そいつは安ウィスキをゴビッと流し込んで続けた。
「見ての通り、オレは素寒貧の一文無しだ。なにもない。ナッシング、だ。売れるものは命くらいしかない。しかし、まだ死にたかねぇ。で、思い出した。もう一つ売れるもんがある」
「なんだよ」
オレはポカンとして聞いた。
「戸籍さ。まっさらの。特筆すべき賞はねぇが、前科もねぇ。どうだ、戸籍と住民票、それに免許証をつけて、どうだ、オマエ、買わねぇか。オマエのようなシノギなら、なにかと便利だぜ」
「はぁ?戸籍だと?」
「そうさ。オマエとは歳も同じだ。どういうわけか背格好、体型、それに顔つきまで似ている。初めて見た瞬間、親戚じゃねぇかと思ったくらいだ。オッ、すまねぇが煙草も恵んでくれ」
オレが煙草とブックマッチを渡すと、アル中男は一本を抜き出し火を点け、パッケージごとそのまま自分のポケットにいれた。
仕方なくオレは新しい煙草のパッケージを開け、別のブックマッチで火を点けた。
ヤツは天井に向け、盛大に煙を吐き出すと、悪い話じゃないと思うぜ、といった。
確かにそうだ。
まんざらじゃない。
コイツになりすませば、少々のことならトボけることができる。
第一、免許証が有効だ。
身分証明にこれ以上はない。
オレは生まれてこのかた免許証を持ったことがないのだ。
運転?
そんなもん、そこらのババアよか、よっぽどシッカリしてるさ。
問題は、いくらで売ろうとしているか、だな。
「いくらで売ろうってんだ」
「一本」
「十万か」
「一桁違うな」
「百だと?ふざけるな。いらねぇよ。なくったってどうにかこうにかシノいでんだ。ハナシにならんな」
「ぐへへへへ。やっぱりな。高いか。ちょっと吹っかけすぎたな。まあ、悪く思うな。これしか残ってないんでな、スケベ心だよ」
アル中男は、またウィスキィを瓶ごと傾けてゴクリと流し込んだ。
口元を汚れた袖口で拭きながら、続けた。
「七十でどうだ」
「三十だな」
「五十だ。五十で買ってくれ。言い出しの半額だ、リーズナブルな値段だろうが」
戸籍の闇売買にリーズナブルもクソもあるもんか。
オレが払えるか払えないかだけだ。
今、オレの懐を逆さに振れば、それくらいならなんとかなる。
よし、わかった、買ってやるよ。
「キャッシュだな、当然」
「当たり前だ。戸籍を売るのに手形をもらうバカがいるわけないだろう。日本銀行の絵葉書だよ」
「わかってるよ。五十だな、よし、買ってやる」
オレは肌身離さず持っているワレットから五十枚の札を抜き出した。
ワレットは一気にペラペラになってしまった。
はっきりいえば、この金は今週末に組に上納しなくちゃいけない分だ。
どこかで工面しなくちゃいけない。
ヒモをやってるオンナでも締め上げればなんとかんるだろう、と思うことにした。
アル中男は一枚一枚指を舐めながら勘定した。
「おう、ちょうど五十枚だ。消費税はまけといてやる。ぐへへへへへ」
バカかこいつ。
戸籍売買に消費税なんざあるもんか。
「で、売買成約の記念だ。もう一本ウィスキィをおごってくれ。あー、こんな安ウィスキィじゃだめだぜ。せめてジャックか、そうだな、できればメイカーズマークにしてくれ」
アル中のくせしやがって、結構いいバーボンを要求しやがるな。
まあ、いいか。
たいした値段じゃない。
わかったよ、とオレは答え、近くの酒屋に買いに出た。
ほれ、とオレはアル中男にメイカーズマークを手渡した。
「ヘヘッ、すまねぇな。オレはアル中だがな、酒の味にはうるさい。酔ったときの虚脱感が全然ちがうからな。安酒は肩が凝っていけない。その点、こういう酒はしみじみ天の美禄とおもう」
そうかい、そりゃよかったな。
オレは新しい煙草にブックマッチで火をつけた。
「もう、用はないだろう。そろそろ消えなよ」
「ああ、わかっている。この金でしばらくはつなげる。フワフワと雲の上を漂うさ。あ、それからな、免許証は紛失したことにして、住民票を持っていきゃ再発行してくれる。うまく使いな。世話になった。また機会があれば会おう」
へん、もう会うわけねぇだろ。
どこかで野垂れ死にしてるよ、オマエはな。
アル中男はノロノロと立ち上がると、フラフラとした千鳥足で出ていった。
流れからいえば、結局オレは上納の期日までに五十万を用意できなかった。
女を締めて金を巻き上げようにも、女はアパートにいなかった。
そこらにノソノソしているリーマンをカツアゲして、腕力で奪うことも考えたが、リスクと果実を天秤にかけると、どうにも踏み切れなかった。
焦った。
ジリジリするような焦燥感で判断力が狂った。
オレはトボけることにした。
つまり、ずらかったんだ。
最悪のチョイス。
組織の力を舐めてしまった。
半端者の立ち回り先に目星をつけるなんてな、組織から見れば児戯に等しい。
半日も逃げおおせることなく、オレは組織事務所の片隅に転がされた。
こういう場合、暴力組織は無残なまでに力を見せ付けて、一罰百戒にしなければならない。
オレは捨てられた子猫のように慈悲を乞うた。
しかし、組織がそれを受け容れることは決してない。
オレは入れ替わり立ち替わり殴られ、蹴られ、ボロ雑巾以下の惨憺たる有様で、人気のない路上に打ち捨てられた。
顔は倍ぐらいに膨らみ、骨という骨が折れていたのじゃなかろうか。
もっとも、放り捨てられた時には、なんの意識もなかったがね。
で、気がつけば病院だったという寸法だったんだな。
そんなことをとつおいつ思い出すうちに、体中に差し込まれた輸液管に強力な鎮静剤が入っていたのだろう、また猛烈な眠気とともに、墜落するように意識が遠のいていった。
名前を呼ぶ声で目覚めた。
免許証のアル中男の名前が呼ばれていた。
オレは声にならない呻きを搾り出しながら、体を捩った。
なけなしの力を振り絞り、目を開けようとした。
開いたのか開かなかったのかわからない。
なにしろぼんやりした光を感じるだけだったのだから。
「気がついたのかい、あー、よかった。お宅の息子さんですか、って連絡を貰ったときは驚いたよ。で、話を聞いたらもっとビックリ。お医者さんからダメかもしれないといわれたんだよ。体中に管を巻かれて、こりゃいけない、と思ったんだけどね。どう、気分は。どこかきついところはないかい」
アル中男の名前を呼ぶ人間が、オレの手を強く握ってきた。
そこは多分、折れている。
固定具の上からでも、激痛が走った。
オレは、ううううう、と呻いた。
「あ、痛かったんだね。ごめんね、気がつかなくてさ。うれしくてはしゃいじまったよ。そうだ、先生に連絡しなきゃね、気がつきましたって。もう少し起きているんだよ、いいかい」
その人間は立ち上がるとドアを開けて出て行った。
あれは、誰だ?
声としては老婆のそれだ。
オレは少しの間、シナプスが混乱した。
老婆はあのアル中男の名前を呼んでいた。
ははぁ、そうか、つまり、オレはあのアル中男と思われているんだ。
年恰好、背格好、顔つきも似ていたんだ。
体中に管を差し込まれ、顔も含めて全身包帯で巻かれている。
しかもなにも喋れない。
ズタボロにされて放置され、病院に運ばれて治療されたんだ。
そのときたまたま身に着けていた免許証で身元が判明したんだ。
そう、あのアル中男として。
あの老婆の息子として。
ほどなく二人分の足音が戻ってきた。
老婆と医者だろう、多分。
「気がつかれましたね。鎮痛剤の大量投与をしていますが、怪我が怪我ですから、痛みがぶり返すかもしれません。とりあえず安静に眠ること、これが治療のスタートと考えて下さい。なにしろ瀕死の重傷だったんですから。どうです、喋ることができますか?」
オレは辛うじて首を左右に振ることができた。
事実、喋ろうとしても声にならなかった。
それに今は、オレはそのアル中男じゃねぇよ、といいだすタイミングでもない。
まして必要もない。
少しでも回復するまで、このままでバックレて通すほうが都合がいいじゃないか。
勘違いしてもらっている間に、次の手を考えるさ。
ふむ、まんざらツキが残ってないわけでもなさそうだ。
「口蓋付近も大怪我で、当面、喋れないでしょうし、食事も無理でしょう。管を使って流動食ですね。無理して喋る必要はありません。ゆっくり治療しましょう。警察には私から事情説明しておきます」
へへー、ありがたいねぇ。
病院で守られて、のうのうとしていられるんだ。
オマンマが流動食なのは仕方ない。
そこまで舐めちゃ、ツキが逃げる。
面倒なことは先送りだ。
それで今まで生きてきたんだ。
なるようになるだろう。
医者が出て行き、老婆が一人残った。
オレは動きの気配を追った。
老婆はパイプ椅子を押し広げ、腰掛けたようだった。
「体中、包帯だらけで…大変だったねぇ…。ずっと何年も、何の便りも音沙汰もないんだもん、母さん、ずっとおまえのことを心配していたんだよ。それがいきなり警察からの連絡じゃない、母さん、もう動転しちゃってねぇ。慌てて特急列車に乗り込んだんだよ…」
老婆は独り言のように話し始めた。
なるほどね、ヤツもやさぐれて家を飛び出したのか。
そういや、オレもずいぶん家に帰ってねぇな。
どうせ家人もオレのことを死んだとしか思っちゃいまい。
「そうそう、大切なこといい忘れてた。オマエがどうしても許せないといってた父さんだけどね、死んじゃった。3年前にね。脳梗塞。あっけなかったよ。倒れたと思ったら、もう半日後には冷たくなっちゃった。だけどね、父さんはおまえのことずいぶん気にしていた。達者でやってるだろうか、って。親の気持ちってそんなもんなのよ。いくら喧嘩してても、親子は親子なの。治ったら、線香上げてちょうだい、後生だから」
おいおい、ここで愁嘆場なんて勘弁してくれよ。
まさかオレはアンタの息子と違う、アンタの息子はアル中でヘロヘロになってますなんて、いえんよな。
もっとも口が動かないんじゃ、なんともいいようがないがな。
「そうだ、今日は天気もいいし、少し窓でも開けよう。外の空気を吸うのが体には一番。おまえ、カタギの暮らしじゃなかったんだろ?それくらいわかるさ。こんな格好で道端に放り捨てられていたなんて、まともな暮らしじゃそうはならないわね…。いけない、答えにくいこと聞いちゃったみたいだね。まあ、いいじゃない、なにがあったって。またやり直せばいいんだから」
確かにね、やり直せばいいんだろうよ。
ところがどっこい、オレはもう抜き差しならぬくらいズブズブだ。
振り出しに戻れねぇんだよ、オレの人生双六は。
老婆が窓を開ける音がした。
気持ちよく乾燥した空気が心地よかった。
こんな大気を嗅ぐのは、一体、いつ以来だろう。
包帯ごしにも躍動を感じる。
太陽と大気がなす神気だ。
気持ちがいいねぇ、と老婆は呟いた。
そうだ。
気持ちがいい。
スーッと喉のつかえが溶解していくようだ。
オレはこれまで湿った暗い路地をずっと這いずり回ってきた。
なにかに怯えるように、そのくせなけなしの虚勢を張って。
昼間にノソノソするやつなんざ、男じゃねぇと吐き棄てていた。
いつかデカイことやらかして男を磨くためだと、チンケなバイニン稼業をこなしていた。
その挙句がこれだ。
ヘッ、どこまで行ってもドブネズミはドブネズミってわけかい。
クソッ、なにもかにもが鬱陶しくなってくる。
ん?
いけねぇな。
チンピラが反省したってクソにもならねぇ。
ヤキが回りやがった。
チンピラに自省は無縁だ。
いつだってなんにでも噛み付く剣呑さを持たなきゃだめだ。
ドブネズミより始末の悪い飢えた狂犬でなきゃならない。
老婆が独り言のように喋りかけていた。
それはなにか遠くで歌われる和讃のように聞こえた。
オレは鎮痛剤の効果なのか、また激しい睡魔に襲われ始めた。
体中あちこちに痛みがあるが、睡魔が痛みを圧倒した。
またあの悪夢を見た。
どれくらい眠ったのだろう、夜とも昼とも分からないが、目が覚めた。
覚めたところで、顔全体を包帯で覆われているんだ、明るい暗い程度しか判断できない。
目が使えないってのは、どうにも具合が悪い。
なにかの本で人間の情報は七割が目から入るとあったが、まさにその通りだ。
どうなっているのやらチンプンカンプンだ。
オレは少しもぞもぞと体を動かした。
うん、少しはいいようだ、と思ったら背中に激痛が走った。
咄嗟にくぐもった呻きが漏れ出た。
「おや、目が覚めたかい。ぐっすり眠ってたもんね。どうだい、痛くないかい。眠るのが一番だ、って先生も仰ってたからねえ。溶けるまで寝てればいいよ」
喋りかけてくるこのバアサンの顔もわからない。
どんな病室なのか、どういう状態で横になっているのかわからない。
クッタレ、どうしようもねぇな。
「包帯だらけだからわからないだろうけど、今は夕方だよ。朝からずっと眠ってた」
へー、そうなんだ。
そんなに寝てたんだ。
「眠っていたときに先生がお見えになって診察してくださった。先生が仰るには、命に別状はないけれど、治療のためにしばらくは包帯グルグル巻きだってさ。顔の包帯もあと二週間は取れないだろうって。なんにも見えないだろうから、つまらないだろうね。でも、もう少しの辛抱だからね」
オレはビクッと体が反応した。
痛いなんていってられない。
顔の包帯が取られてしまったら、オレがあのアル中男と別人なのがばれてしまう。
まずい。
ということは、あと二週間しか猶予がないのか。
そいつは、ちょっと…弱った。
考えろ、どうするか考えろ。
頭の中までは怪我しちゃいない。
こすからくせこい悪知恵でしのいできたんじゃないか…。
オレのなけなしの脳細胞シナプスがブーンと唸り始めた。
絵を描いてみた。
しかしどれもこれも体が動かない、この一点が乗り越えられない。
とにかくトンヅラするのが一番なのだが、どうにもならないのだ。
えーい、とりあえず今日はここまで、明日になりゃ別の考えでも浮かぶだろう。
後先なんぞ一切考えずにこれまで生きてきたんだ、そう簡単にことは進まないよ。
オレは強引に思惟を遮断した。
たぶん、翌日になったのだと思う。
相変わらず老婆は病室からほとんど離れず、独り言のような口調でオレに話しかけていた。
口が利けないということは、生返事もなにもしなくていい、ということだ。
体中、包帯でグルグル巻きということは、ボディアクションすらしなくていい、ということだ。
都合がいいじゃないか。
これでとにかく二週間はバックレることができる。
今んとこ妙案を思いついちゃいないが、あと二週間、いや、正確には十三日間の余裕はある。
横になっていることと、眠ること、そのほかはなにもない。
あとは老婆の独り言を聞くことと、妙案を考えつくことしかなかった。
起きている間、聞くとはなしに老婆の独り言を積み重ねていくと、あのアル中男の輪郭がぼんやりと形作られてきた。
ヤツは大学院を中退した。
しかも専攻は数学だ。
オレも中退だが、それは高校だ。
オツムの出来が違いすぎる。
しかしヤツは子供だ。
考えが幼稚だ。
父親とぶつかって、家を出ている。
それも惚れた女がどうとかこうとか。
バカじゃねぇか。
父親とぶつかたって、知らねぇふりしてりゃいいんだよ。
オレなんざ居たくたって居れやしなかった。
気まずいことだらけでよ。
居たらパクられる、それでずらかったんだからな。
どうせ親なんてテメェより先に死ぬんじゃねぇか。
オレにいわせりゃ、辛抱が足りねぇな。
ハイハイ、と適当にうっちゃらかっときゃいいのさ。
そうすりゃ大学院出て短大の講師くらいにゃなれたろうによ。
それがドヤでアル中かい。
戸籍まで売っぱらっちまって、まあ、ヤツの自業自得だがな。
今頃、どこで酒の海を泳いでんのかね。
やさしいオフクロさんじゃねぇか。
まだやり直しがきくのによ…おっと、チンピラが仏心を出しても絵にならねぇな。
「なにか食べることができるなら、リンゴでも摩り下ろすんだけど、この姿じゃ無理よね。子供の頃はすぐに熱をだしてたから…その度にリンゴのお汁を飲みたがったわね。氷嚢をあてながら、真っ赤な顔でフウフウいってた…」
あー、オレもそうだった。
グレる前、ガキの時分は虚弱だった。
蒲柳の質ってやつだな。
どうもな、どこでしくじったんだか、気付いたらゴミタメの隅を這いずり回ってた。
やることなすことハンチクだらけの下がり目。
好きでこうなったんじゃないが、なっちまったもんは仕方あるまい。
おっといけねぇ。
こんな愚にもつかないことを考える余裕はないんだ。
なんとかトンズラする方法を考えなきゃいけない。
ん?
ちょっと待てよ…。
オレがアル中男じゃないと、バレたって構わないんじゃないのか?
それでパクられるわけじゃない。
勝手に向こうが勘違いしているだけだ。
そりゃ警察にガチャガチャ面倒なことは聞かれるだろう。
しかしそれさえしのげば、あとはお世話様、ありがとよ、でチャラじゃねぇか。
戸籍の売買だって、それはオレとアル中男との紳士協定みたいなもんだ。
たまたま持っていたヤツの免許証でこうなったって寸法だ。
拾ったんだよ、でトボけ通せばいい。
オレがビビる必要はまったくないじゃないか。
なにいわれたって、怪我の直後で混乱してたんだよ、これでいい。
あはははははは。
なんだ、そういうことだ。
いよいよヤキがまわったってかい。
取り越し苦労もいいとだ。
オレは知らんよ、これでいい。
声をたてて笑えはしないが、顔の筋肉が緩んだと思う。
多分、それは包帯の向こうからでも確認できたと思う。
何日くらい経ったのだろうか。
一週間くらいか。
顔の包帯はそのままだ。
無論、カレンダーを眺めることはできない。
包帯越しに陽の光と蛍光灯の区別が朧にわかるくらいだ。
痛みもほとんどない。
前回の回診のとき、医者はオレの体のあちこちをさわり、若いだけに回復がはやいですねといい、声は出せますか、と尋ねた。
オレは聞こえないふりをして、その問いを無視した。
もう少しですね、最初に顔の包帯をはずしましょう、と医者は付け加えた。
実は誰もいないと確信できたときに、声がでるかどうか試してみていた。
あいうえお、と発声してみた。
くぐもったような濁声がでた。
それは確かに、あいうえお、と聞こえた。
渋くていい感じだった。
ウィルソン・ピケットみたいじゃないか、と感心した。
目は見えるのだと思う。
少なくとも自然光と蛍光灯の区別はつくわけだから。
体も少し動かしてみた。
骨折してギプスを当てられているのは左指と左上腕部、それと右足。あと鎖骨と肋骨が折れているようだった。
ボロボロに折れているんじゃないかと危惧したが、そうたいしたこともない。
だから回復が早いのだろう。
まあチンピラの勲章ってところだな。
いずれにせよ足をやられているんで、トンズラはあきらめた。
いよいよもって「知らねぇよ、なんにも」で通すしかなさそうだ。
ここのところ老婆のオレへの言葉が続いている。
朝、おはようと現れてから、夜、おやすみ、といい残して帰るまで。
いわく。
もう少しだから。
若いんだからすぐによくなる。
またやり直そう。
まだ包帯が取れないかねぇ。
どこか痛くないか。
ギプスの下は痒くないか。
家に帰ったら線香をあげろ。
大丈夫だよ、とにかくなんでも大丈夫…。
これが終日、延々、のべつまくなしだ。
女親ってこんなにうるさかったかね。
わかったよ、いつまでもグダグダいうんじゃねぇ、向こうへ行け、と啖呵を切りたいが、否が応でも耳に入る。
聞きたくなくっても、動けないんだ。
偸安を保証される担保とあきらめるしかない。
やれやれ、これはこれで面倒なこったぜ。
老婆が帰ると、一気にシンと静かになる。
エアコンのブーンという低い唸りの他は、なにも聞こえない。
ときに別の入院患者らしい人間の歩く物音が聞こえるくらいだ。
それも便所スリッパをひきずるペタペタという貧相な足音が、だ。
この時間だけがオレの思惟が冷静になれる。
夜は確かに思考を平滑ならしめる時間だ。
こんなにものを考えたことがあったろうか、と思うほどオレはさまざまなことに考えを巡らした。
今のチンピラ稼業。
金。
身体。
ヤクザ組織。
警察。
刑務所。
中退した高校。
ヒモをしている女。
不義理ばかりかけた友人。
老婆のこと。
オレの家族のこと。
チンピラには益体もないが将来のこと。
このままトボけてズラかっても、もとのバイニン稼業に戻るしかない。
警察にオタつきながら、汚い路地裏を這いずり回る日常のはずだ。
男を磨いているんだとうそぶいたところで、所詮チンピラはチンピラ。
幹部の目はありそうでない。
いってみれば暴力組織ほど実力主義の組織はないのだ。
ヤクザに年功序列なぞ、ハナから存在しない。
金と力がすべてだ。
オレはわかっていた。
瀬戸際になると、オレはいまひとつ踏み込めない。
逡巡してしまう。
引いてしまう。
一気、無際限な爆発ができない。
そこのわずかなコラエ性のなさが、組織でのしあがっていけない弱さなんだ。
いまだにできないということは、これからもそうだろう。
こうやって病院に放り込まれる前から、ぼんやりとオレはその弱さを自覚していた。
オレはこのままチンピラなんだろうな、という不安だ。
いまさら引き返せない。
さりとて展望はない。
そこで判断中止になっちまっている。
進むも引くも考えようとしなかった。
日々、なんとなく過ぎていけばいいや、惰性でどこが悪い、と居直っていたのだろう。
確かに惰性は居心地がいい。
目が覚めて、眠りにつくまでダラダラと流れていけばいいのだから、こんな楽はない。
第一、チンピラがモノを考えるなんざ、似つかわしくないだろう。
チンピラは暴力と威嚇がすべてだ。
しかし、若さに任せた威勢も、徐々に下っていく。
否応なく思い知らされる。
動いていた足がもつれ、鋭く伸びていたストレートがなまくらなパンチになる。
剛速球投手もいつか技巧派に転向せざるをえないのと同じだ。
しかしオレには技巧派たるクレバーさが欠落している。
クソッ、オレにはもう勢いがなくなったのか…。
思考はいつも堂々巡りの袋小路で終わった。
考えることにくたびれ果て、脳がオーバーヒートしたまま眠りについていた。
とめどない思考のループの中で、時間だけは確実に刻まれていた。
包帯が取れるまで、残された時間はそうはあるまい。
事実、回診の医師からは順調です、間もなく、と告げられていた。
オレは腹を括っていた。
なーに、トボけりゃいいんだ、と。
「もうすぐ包帯も取れるんだってさ。よかったねぇ。安心したよ。退院したら家に帰って来なさいな、ね、後生だからさ」
頼む。
頼むからその和讃のような繰言をやめてくれ。
横になったきりの桎梏は心をシュリンクさせる。
どうしても脆弱になりがちであって、ヘナヘナとコラエ性が腰砕けになる。
老婆の一言一言が鬱陶しくもあり、また妙に里心を励起させた。
オレはチンピラだろうが、と自らを叱るのだが、しばらくするとまたうなだれてくる。
まったく、なんてこったい、情けねぇ…。
あともう何日もないんだ、オレの素性を隠し通せるのは。
このバアサンもオレが息子じゃないとわかったら、ちょいと辛かろう。
それくらいの人間性ぐらいオレにだってある。
はっきりいや、こういうことだ。
このバアサンを泣かしたくねぇ。
それだけだ。
あーあ、半端モンから足を洗う潮時かね?
悶々鬱々とした空気が流れていった。
秒針は確実に一秒一秒を回転していた(はず)。
数日過ぎた(と感じた)あと、ドクターがニコリ(であろうとオレは想像した)と笑いながら、明日、包帯を取りましょう、と告げた。
老婆は小さく拍手して、よかったわねぇ、と心底うれしそうだった。
弱った。
弱ったよ。
これは。
いくら腹を括ったといっても、あらまほしき状態は招来されんぞ。
愁嘆場になることは火を見るより明らかだ。
あー、そいつはイヤだ。
こうなる前は散々人に迷惑をかけてもどってことなかったんだが、今のオレはものを考えすぎた。
このババアの苦しげな顔は見たくない。
親の普遍性を見たくない。
できることなら、このままズラかりたいんだが、これもできぬ。
八方塞のどん詰まり、次善の手がない。
ノーテンファイラじゃねぇか。
ついに、というか、とうとう、というか、参った。
本当に参った。
老婆は、うれしそうに、よかった、よかった、と繰り返していた。
よかったねぇ、本当に。
よかったねぇ、おうちに帰ろうね。
よかったねぇ、すぐに話もできるようになるよ、と。
だめだ、ますますよくない。
オレは飛び起きて走り出せないもどかしさに歯噛みしていた。
よほど(オレは別人だ!)と叫びたかった。
そう、声が出せることは確認していたからな。
そいつは喉まででかかったが、寸止めで止めた。
冷や汗が出た。
夜になったのだろう。
老婆も帰った。
明日が楽しみだねぇ、と言い残して。
ちぇっ、なにが楽しみなもんかい。
アンタのおかげで、こっちはすっかり弱気だい。
優しいチンピラなんざあるもんか。
使いもんにならねぇな、これじゃ。
オレはチンピラにもなれねぇってことかい。
いや、もともと向いてなかったのかもしれん。
いまさらどうこうなるもんじゃないが、そもそもの選択が誤っていたのか?
オレは自分でいうのもナンだが、ガキの時分は結構、利発だった。
成績も悪くなかったし、体育祭のスーパースターだった。
進学校といわれる高校に入ってからだ、おかしくなりやがったのは。
担任ともめた。
それからはお約束の暴走族、喧嘩、喫煙飲酒。
で、退学、家出、チンピラ稼業となる。
フゥッ、なんとも芸のない半端人生じゃないか。
いくらでも軌道修正の余地はあったんだろうにな。
まあ、詮ない繰言じゃあるがね。
敷居は高いが、一回帰ってみようかな。
親はどうしてんだ?
妹は?友達は?
家を飛び出して十年以上経つ。
なんの連絡もいれてない。
死んだとも、生きているともわかるまい。
縁もゆかりもないこの土地に来て、オレは張れるだけの虚勢を張ってもがいてきた。
もうくたびれたかもしれん。
残念ながら人間には虚勢のキャパシティもあるのだ。
無限ではありえない。
いつかは枯渇する。
どうやらそれが今のようだ…。
オレは浅い眠りに千切れ千切れなことを思っていた。
老婆の、おはよう、という声で目覚めた。
ついにきやがった。
あかん。
心底、逃げ出したい。
ここだよ、ここ。
ここでオタつく。
これが徹底してチンピラにもなれないオレの弱さだ。
女々しさなんだ。
老婆がカーテンと窓を開けた音がした。
爽やかな外気が流れ込んでくるのがわかった。
いよいよ包帯が取れるね、よかったねぇ、と老婆は明るい声をかけてきた。
オレはちっとも明るくない。
どんより落ち込んだままだ。
これからいくらも時間がたたないうちにドクターがやってきて、どれどれ、見てみましょう、とかなんとかいいやがって包帯を取る。
包帯が取れてビックリ、って寸法さ。
ババアが立ち竦むね。キャー、と叫ぶかもしれない。
あの子じゃないっ!ってね。
それからは大騒ぎ。
なんだ、どうした、警察を呼べ、逃げ出す恐れはないのか、鍵をかけろ、警備会社はどうなってる…。
クソッ、バカにしやがって、逃げ出せるんなら、とうの昔にトンズラしてらぁ。
いや、違うかな?
あのババア、息子じゃないとわかったら、どうして、こんな、と絶句したまま、顔を覆って泣き崩れるかもしれん。
えーい、どっちもいやだ。
チンピラ流に大声で威嚇するとか、暴力をチラつかせるとは全く無縁のシチュエーションだ。
警察とモメるほうがウンとましだ。
それならオレの独参湯だ。
屁理屈と大声でなんとかなる。
しかし…今回ばかりは…ロクなことにゃならんだろう。
引き戸が開く音がした。
おはようございます、という声はドクターのそれだ。
きた。
もうどうしようもない。
あとは成り行きに任せるほかない。
往生際の悪いオレもさすがに観念した。
なるようになりやがれ。
「どうですか、ご気分は。今から顔の包帯を取りますからね。鬱陶しかったでしょう。さっぱりしますよ」
いや、別にサッパリしなくたっていいんだ。
このままでいいんだがな。
とにかくダンマリでやりすごすしかない。
バックレが基本だ。
「あ、看護婦さん。いきなり明るくなると患者さんの視力によくないんでね、窓とカーテンを閉めて、蛍光灯を落としてください。それからハサミもお願いします」
ドクターが指示すると、同道している看護婦がテキパキと動いた。
包帯の向こうが急に暗転した。
ドクターがオレの顔を覆う包帯にハサミを当てたとき、老婆の声がした。
「ちょっと席を外しておきましょうね。ビックリさせちゃいけないもの」
そうですか、じゃ、どうぞ、というドクターの声に促されるように引き戸が開く音がした。
足音が遠のくと、同時に引き戸がカタンと閉まった。
それじゃ包帯を外しますね、という声とともにハサミが動き始めた。
ジョリジョリジョリ。
ドクターは端を切った包帯をゆっくりと外し始めた。
「痛かったらサインを出してください。まあ、大丈夫とは思いますが」
なんの痛みもなく包帯が外れた。
ドクターがオレの顔を覗き込んだ。
「どうですか、私の顔、見えますか?」
オレは小さく頷いた。
見える。
はっきり。
いままでなにも視界に入らなかったのが、突然の光景。
なんかちょっと不思議な気分だ。
「しばらく、そうですね、半日ほどはこの明るさで。徐々に明るくしましょう。OKです。すべて順調です」
そ。
ありがたいね。
目も耳も鼻も口もOKだ。
あとは骨がくっつきゃいいわけね。
オレは視線を回りに送ってみた。
あの老婆はまだ戻ってきていないようだった。
ドクターと看護婦が二人して出て行った。
オレは病室にぽつねんと横になっていた。
少し開いた窓から、爽やかな風が吹き込んでいた。
薄暗くはあるが、気持ちがいい。
風は陽光の匂いを含んでいた。
もうじきあの老婆が現れるだろう。
どんな状態を出来するか、そいつはわからない。
わからないが、あんまし愉快ではなかろう、という予測はたつ。
やむをえない。
流れに任せるしかない。
オレは鬱屈したまま老婆を待った。
オレは鬱屈をぼんやり眺めるうちに、いつのまにか眠ってしまった。
検温と血圧測定します、という看護婦の声に目覚めた。
え?
随分と寝込んでしまったんじゃないか?
まだあのバアサンは戻ってきていないのか?
どれくらい眠ったんだ?
オレは視線を巡らせ、壁の時計を見た。
一時間以上眠っている。
なぜだ?
なぜあのバアサンは戻ってこない?
包帯が取れることを、あれだけ楽しみにしていたじゃないか…。
看護婦が測定した体温と血圧をクリップボードに書き込むと、白衣のポケットからゴソゴソと封筒を取り出した。
「この封筒なんですが、あのご婦人からお預かりしました。手紙だそうです。よろしければ封を切りましょうか?」
手紙?
手紙ってなんだ?
あのバアサンからだって?
オレは混乱したまま、頼むという意思表示の代わりに、首を上下させて頷いた。
看護婦はハサミを取り出すと封緘を切り、中味の何枚かのペーパーをオレに手渡した。
オレは動きに支障のない右手で受け取った。
大丈夫ですか、と看護婦が問うてきた。
オレは軽く頷いた。
看護婦はさも用済みといわんばかりに、さっと踵を返して出て行った。
まだカーテンが引かれたままで薄暗いが、文字は十分に読める明るさがある。
左手は固定されているので使えない。
もどかしさをこらえ、オレは右手でなんとかそのペーパーを広げると、文字列を目で追った…。
知らないあなたへ
わたしはあなたが誰なのか存じ上げません。
息子に良く似ていらっしゃいますが、息子ではありませんね。
あなたがこの病院に搬送されて、わたしに連絡があったとき、それこそ飛び上がるほど驚きました。
まったく消息不明でしたから。
それこそ鳩に豆鉄砲のようにここへ参りました。
ベッドの上で包帯でグルグル巻きにされたあなたを見たとき、わたしは不思議な感覚がありました。
これは別人だ、という直感です。
しかし体型や背格好はまったく同じです。
しかもあなたは息子の免許証をお持ちだった。
わたしは直感が間違っているんじゃないかしら、と思いました。
しばらく会ってないからそう感じるのよ、と納得しようとしておりました。
しかし、違う、別人よ、という気持ちは拭えませんでした。
あなたは一言も発しないし、わたしに対して意思を表さない。
それも疑問を加速させました。
日々の看護、見守りの中で、わたしはあなたが別人であることをほぼ確信していました。
ほぼ、と申し上げたのは、心の片隅では、あなたが息子であってほしい、というのが望みでもあったからです。
やっと再会できた、ということでしょうか。
それが母親の自然な気持ちだと思います。
同じ状況であれば、あなたのお母様もそう感じられることでしょう。
しかし、あなたを見捨てることはできなかった。
息子かもしれない、その思いもありました。
それに傷つき、瀕死の状態のあなたを見ると、本当の息子がこのような目にあったら…母親はたまりません。
情けは人のためならず、と申します。
あなたも、よくぞここまで息子の役割を果たしていただきました。
わたしの息子じゃない、と宣言なさることもできたのに、わたしにお節介を楽しまさせてくださいました。
哀れな母親へのあなたのご配慮、心より感謝申し上げます。
おかげで本当の息子を介抱しているような幸せでした。
うれしゅうございました。
今日、あの包帯が取れましたね。
あとは全快を待つばかりです。
お節介ついでに、余計なことをもうひとつ申し上げます。
できれば、できればで結構です。
あなたのお母様のところへ一度お戻りください。
それを心よりお願いします。
最後に。
一昨日、近くの警察から行路死亡人の問い合わせがありました。
息子でした。
場所が自宅のすぐ近くでしたから、きっと帰ってくる途中だったのでしょう。
明日、荼毘にふすつもりです。
手紙の金釘文字は、ところどころで滲んでいた。
(了)