あの子、ストレンジ・レター
目が覚めると、授業はまだ続いていた。板書を理解しようとするが、
「駄目だ」
あえなく撃沈。眠りで錆びついた頭には荷が重かったようだ。まぁ、例え完全に覚醒していても理解できたかは怪しいが。
教室内には教授の声と黒板にチョークを走らせる音が交互に響く。それ以外は何も聞こえない理想の教室だ。しかし、それは音だけの話で七割の生徒はノートや教科書を枕に寝ていた。金曜日の最終コマで、おまけに雨が降っているから眠いのは当然だ。僕達眠りの民を非難する権利は誰にもない。
午後五時五十分。チャイムが授業の終わりを告げる。眠りの民達は解放の音色を聞いて次々と目を覚ます。教室内は次第に活気づいた。教授はそんな学生達を見渡して、
「じゃあ、来週中間テストやるから。範囲は第一回目から今日の授業まで。以上」
最悪なタイミングで爆弾を投下した。教授に罪の意識は無いらしく、平然と教室を後にする。
残された我々は沈鬱なため息を吐いた。天国から地獄へ突き落されたような落胆ぶりだ。
「いきなりすぎるだろ」「あいつドエスだな」「ねぇねぇ、ノート貸してー」「終わった、完全に終わった」
皆思い思いに口を開き、元気はないが賑やかになった。
「今日も睡眠学習ごくろうさん」
隣の男に声を掛けられた。彼の名前は黒森翔。大学一年のオリエンテーションで出会った友人だ。勉強では二人しかいない成績優秀者の一人として表彰され、部活ではエース、おまけに彼女持ち。それでも自慢したりはせず、謙虚な性格の持ち主だから逆に憎い。
「ああ、今日も良い学習ができた」
「じゃあ問題。ギブスエネルギーを用いた場合に有用な熱力学第二法則の表現は何か」
「残念、睡眠学習の効果は三分までなんだ。だから答えられない」
「それだったらノートに記録すればいいのに。そのほうがはるかに効率的だ」
「効率だけで動かないのが人間さ。ご飯の前にいただきますを言うようにね」
「あのさ、社会に出たらそんな屁理屈通用しないよ。君は真剣にやれば結果が出るんだから、もっと頑張るべきだ」
黒森は僕という人間を知り尽くしたかのように言った。彼が思うほど僕はできる人間じゃない。頑張っても結果が出ないから、何事にも真剣に打ち込めない。僕は価値のない、努力を放棄した凡人だ。
「黒森は天才だからそういうことが言えるんだ」
「俺はそんなんじゃないよ。天才っていうのは努力の対価が何万倍にも膨れ上がるヤツのことだ。凡人はせいぜい二倍程度で、俺は明らかに後者だ」
「どうだろうな」
「その点、君は凡人の域を出ないけど、俺よりも明らかに結果を出せるタイプだ。君は越谷さんと仲良くなってから簡単に諦めなくなってきたし、俺を超えるのも時間の問題だな」
「いや、別に仲良くないし」
「そんなに照れるなって。もしかして付き合ってるのか?お、噂をしていれば」
何者かが僕の肩をぽん、と叩く。人の気配を感じなかったから、黒森の一言がなければ驚いて飛び上がっていただろう。振り向くと、細い指がぐさりと頬に食い込んだ。
「……何をしてるんだ」
「毎回引っかかるから面白くて。学習能力低過ぎ」
「おいおい、肩を叩かれたら振り向くのは常識だろ」
「それは今すぐ止めた方が良い。この指が刃物だったらどうするの」
越谷ミユは物騒なことを言いながら、ぐりぐりと指を押し付けてきた。この温度の低い話し方が特徴的な女子とは、一年のときに英語の授業で出会った。以来、彼女は何かと僕に話しかけてくる。
初雪のように白く美しい肌、それを引き立たせる真っ黒な髪は肩まで伸びていて、容姿は悪くない。あくまで容姿は、だ。
「こんばんは、越谷さん」
笑顔であいさつした黒森を、
「あなたに用はない。話しかけないで。エネルギーの無駄」
越谷は無表情で突き放した。彼女は黒森のことを特別嫌っているわけではなく、誰に対しても冷たい態度をとる。だからいつも孤独だが、可哀想には見えない。彼女にとっては集団の中に身を置くことの方が悲劇なのだろう。
「相変わらず厳しいなぁ」
「なんでそうゆうこと言うんだ、越谷。もっと愛想良くしろよ」
「他人との交流は吉朗だけで十分」
吉朗というのは僕の名前だ。
「そんなわけないだろ。僕が言うのもなんだけど、社会に出たらそうもいかんだろ」
「社会に出ないから大丈夫」
「ただのダメ人間かよ。まぁいいや、ところで今日は何の用だ」
「これ」
越谷は鞄からノートを取り出して僕に渡した。ノートの表紙には化学熱力学と書かれている。さっきの授業の名前だ。
「月曜日、最後の授業後に図書館でテスト対策するから、その時に返して。じゃあ」
そう言って手を振ると、そそくさと教室から出て行ってしまった。
越谷はテストがある度にテスト対策を開いてくれる。容量の悪い僕にはありがたい話で、断る理由はない。彼女の教え方は分かりやすく、成績優秀者の肩書は伊達じゃない。しかし、受講者はいつも僕一人で、一度友達を連れて行こうとしたら却下されてしまった。せっかく教え上手なのにもったいない。
「はぁー、やっぱ訳わかんないな、越谷さん」
「同じ成績優秀者だし、通じる者があるんじゃないのか」
「ないね。多分、彼女は本物の天才だから。俺の肩書とは質が違うよ」
「そういうもんか。僕の位置からじゃその微妙な違いは分からないけど」
なんだか帰る気にならなくて、僕と黒森は教室でだらだらしていた。同じような思考の連中も三組残っている。未来の僕達はこの無駄な時間を嘆くのだろうけど、現在ではこれが一番有意義だ。これが永遠に続いても差し支えないとさえ思う。
清掃員が教室に入ってきて、仕事の邪魔だとこちらを睨む。まるで未来の僕達だ。その瞳から逃げるように、現在の僕達は教室を後にした。
帰宅して玄関のドアを閉めると、一枚の紙が足元に落ちた。
「なんだこれ」
薄暗くて何が書いてあるかは不明だ。でも、ピザや不動産のチラシとは違い、本のページのような手触りだ。ゴミ箱へ直行するのは惜しいと感じ、内容を確認することにした。
部屋に移動して明かりを点け、そのまぶしさに目を細めた。ベッドに腰掛けて、目が慣れたところでチラシを見る。白い紙に黒い文字という、簡素なデザインだ。
「読書家募集中、ヴェッキオ古書店」
教科書に載ってるお手本のように、端正な筆字の見出しだった。とりあえず、店名から古本屋の広告ということは分かった。しかし、読書家募集とはどういうことだろうか。
「読書でバイトしませんか。性別、年齢、国籍は問いませんが、日本語を読める方を募集しています。週に一冊でも大歓迎です。お給料は一冊当たり……一万円?そんなバカな」
それだけしか書かれていなかった。チラシの下段には店の電話番号と簡単な地図が載っている。近所の駅前通りに店を構えているらしい。買い物や遊びのときに何度も通っている道だが、この古書店の記憶はない。
怪し過ぎる。読書するだけで給料が貰える仕事なんてあるわけがない。何事も決めつけるのは良くないが、こればかりはありえない。文字を読める人間が貴重な世の中なら、この仕事も成り立つだろう。しかし、この国の識字率は何十年も前に99%を超えている。当然、一冊の本を読むだけでは一万円、いや、十円の価値もないだろう。
新手の詐欺だろうか。この広告を信じて店を訪れた人に、何か高額な物を売りつけるつもりなのか。そうだとしたら、この詐欺は計画の段階で失敗している。誰でも本は購買して、つまり金を払って読むものだと知っているからだ。この常識は何があっても打ち破れないだろう。だから、誰も広告の内容を信用せず、人が集まることはない。そもそも、こんな狡猾さも緻密さも感じない計画を立てる詐欺師がいるのだろうか。
三十分ほどチラシを睨みながら脳内論戦を繰り広げたが、結論は出なかった。無意味なことに時間を費やす悪癖が出てしまった。
突然、越谷の顔が思い浮かんだ。無駄な時間を過ごした僕を、非難しに来たのだろうか。
「はぁ、もう駄目だ」
未解決に終わった不愉快さとエア越谷の非難は、ストレスに変化して脳に蓄積した。それをチラシにぶつけると、無抵抗な紙はあっという間に引き裂かれてゴミ箱へ送られた。少し気が晴れて、自分の安っぽさに驚く。
さらに癒やそうと、ベッドに仰向けに寝転がった。疲労が気化して全身が軽くなった気がした。しかし、何かが脳の中に残っている。何度も感じたような、懐かしいような気持ち。どちらかというと、心地よい部類の感情だ。きっと、明日の休日に浮かれているのだろう。そういうことにして、僕はまだ真っ白な明日の予定を考え始めた。
初投稿です。一話目はあまり話が進みませんでしたが、二話目からは光速で進みます(たぶん)。おそらく、四話ほどで終わります。最後までお付き合いしていただけたら嬉しいです。
表現が稚拙で泣きそうになります。でも楽しいから止められないです。中毒でしょうか、中毒でしょうね。
何を書いていいのか分からないので、この辺で失礼します。