はじまり
ジャン・ペリーナの田舎町。王都だったものを物語るのは、崩れた城塞の壁たちと、王が育てていたボールドウィンの赤いリンゴだけ。黄色がかったその紅玉が並ぶ店先の前を、ほこりを巻き上げて一台の車が進む。
高級車は運転手が白い手袋をはめてまじめに運転されていた。運転手は常に気を引き締めていた。脇で何が起きているかもつぶさに把握していた。だが、白いシーツを風でとばして、窓から身を乗り出す主婦に気を取られて、路地裏から一人の少女が駆け出して来るのを、一瞬見逃した。「あ!」とつぶやき、老熟したわざで運転手はそれを回避すると、後ろに乗っている紳士に声をかけた。
「大丈夫でございますか」
「ああ、大丈夫だ」
紳士は咳払いをして、前方の少女を見た。
何かから逃げているらしい、あわてて振り向いた顔には痣があった。その顔を見て、紳士はすぐに車に乗り込むように窓を開け、告げた。
「何から逃げているのか知らないが、乗りなさい」
「あ、ありがとうね、おじさん!」
ドアが閉まると、すぐに路地から男が飛び出して来た。
「あんなの、親父なんかじゃない!」
「出せ」
事情もきかず、紳士は車を発進させた。少女は何度も車の後ろから追って来る男の影を確認したが、やがて消えるとほっとしたように前に向き直って、身体を震わせた。
「よければどういうことか教えてくれるかい?」
優しく紳士が語りかける。少女はぱっと大きな瞳を紳士に向けた。
「私を父が殴っては蹴って……。毎日よ、気に食わないことがあると」
「それで逃げていたんだね」
「今日は特にひどかったわ。殺されるかと思った! なぜかしら、なぜ今日?」
「怖かったろう、私はこの先の森に屋敷を持っていてね、少し休んで行くといい」
「ありがとうございます」
少女はほっとすると、にっこりと笑った。
「君のお母様は、もしかしてアンと言う名前ではないかい?」
「ええ、そうです。もしかして母の知り合いの方ですか? だとしたら、残念なお知らせがあります」
「ふむ」
「母は先年亡くなりました」
「アンが!」
紳士はよろよろと、車の止まった屋敷の前に歩いて行くと、涙をこぼした。
「あのう、紳士様。お名前は?」
「リックだよ、お嬢さん。君の名は?」
「ヴィッキー」
「そうか」
少し微笑むと、ひょろりとした長身をしゃんとのばし、リックはヴィッキーに一礼した。
夕暮れの明かりが彼の鳶色の瞳と、アッシュグレイの髪をオレンジ色に染めていた。そしてヴィッキーの頬も紅く染まり、ボールドウィンのリンゴのようであった。
「この森は、深いから入ってはいけないよ。君のような子は迷子になるから」
「ええ、あのう、でも」
「どうしたんだい?」
「父が来たりしないかしら」
心配そうに言うヴィッキーに、紳士は深いまなざしで答えた。
「大丈夫」
次第にあたりは暗くなりはじめた。雨が近づいている。湿った空気が流れて来た。
「さあ、おはいり」
古びた門をくぐるのを、ヴィッキーは一瞬ためらった。
「さあ」
抱かれるようにして、ヴィッキーは屋敷に踏み入った。
ざわざわと、森の木々が揺れた。




