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気持ち

作者: chikubi

「…だからぁ、あきらめきれないんだよ」

ムードのある静かな音楽を遮って、酔った男が店主に言葉を投げる。

「俺だってわかってるつもりなんだよ。いつも彼女は自分が店にいるときにしか連絡はよこさないし、プライベートで会う時は全部オレの財布。買い物が終わればすぐ帰るし」

店主は煙草の灰を灰皿におとすと、静かに口を開いた。

「私だったらすぐに諦めますね。キャバクラの女の子じゃなければわからないですけど、話を聞けばどう考えても貢がされてるじゃないですか」


「分かってる…。でも諦めるには金を使いすぎたんだよ…」


店主は、ふぅとため息を一つだけ漏らした。

いつも閉店間際に、酔っ払って自分に愚痴を聞かせにくるこの男を好きになれなかった。

男は危ない手つきでカウンターのカクテルをぐいっと飲み干すと、倒れ込んで呟やいた。

「水をくれ…」

店主は無言でゾンビグラスに氷を入れ、水道からグラス一杯に水を注ぐと、男の前に静かに置いた。

閉店時間はもう過ぎている。【HIDE】と書かれた看板の下に店はある。小さく、薄汚い外見からは想像できないほど、店内は広く、清潔で、キレイな照明が薄暗い、小洒落たバーと言うのがぴったりな雰囲気に仕上がっている。


この店はまだ店主、正也がまだ二十歳のころに父から任された店だ。当時は父に、

「任せると言っても、仕事だけだ。お前には経営するのはまだ無理だろう。」

と言われ、仕事もせずぶらぶらと遊び歩いていた正也からしてみれば、経営はしていなくとも形式上は店長?なんかかっこいいじゃん!とだけしか思わず、もちろん引き受けた。

しかし、二十四歳になった今は、父はこの店を完全に正也に任せ、父もそれが当然のように店のことには何も言わなくなった。


正也はそれに苛立っていた。客はそこそこ来る。売り上げも悪くないし、同年代の男達よりは収入もあった。しかし、父の口先だけの言葉と、全部自分でやらなければならないこの店の経営が、面倒くさくてイヤだった。それでも自分一人しかいないし、やらなければならない、と変な責任感から投げ出すことはなかった。



「告白したほうがいいのかな…」

男が独り言のように呟いた。

正也は呆れた様子で男に見向きもせず、店を閉める準備を始めた。

「おいおい、まだ客がいるだろう?人が真面目に話しているのにそれはないだろう」

正也はその言葉にまた苛立っだ。この男は三日前もやはり閉店間際に現れ、同じことを言っていた。いつもいつも閉店間際に現れては同じことを言って、相談するくせに何か言うとやたら否定する、この男がうっとうしかった。


「何度でも言いますけどね、そんなに言うなら自分の思ってることその娘に全部言えばいいじゃないですか。それでダメなら諦めればいいし」


「ダメでも諦めきれないんだよ。いくら使ったと思っているんだ?」


「このまま今の状態が続くようだと、もっと使うことになると思いますけどね」


男は沈黙した。その様子がさらに正也を苛立たせた。


「さ、もう店を閉めますよ」


男はまた来るよ。と、とぼとぼ帰っていった。正也も店閉まいが終わり、もう薄明るい外をぼんやり眺めては、大きくため息をついた。




次の日、正也はいつもとは違う、少し晴れやか気分で昼を迎えた。普段は夕方に起きてそのまま店に行くところだが、昔から仲のいい友人のヒサが、合コンをするからこいよと誘われ、正也の希望で翌日定休日の日にしてほしいと頼んだ。

そして今日がその日だ。


ヒサと待ち合わせの時間が午後4時だったので、ゆっくり昼食をとり、シャワーを浴びた。髭や眉毛を整えると、鏡にはいつもの自分よりずっと清潔な顔が写っている。


正也の顔を見た女性のほとんどが、

「カッコいい!」

「キレイな顔だね」

と、口々に言う。

正也にすればそれは当然嬉しいことで、しかし飾らず、調子に乗るのは痛いな、といつも思っていた。


自分に自信があるわけではなかった。あまり社交的ではないため、初対面の女性にカッコいい人だな、と思われても、口数が少なく、自分では意識せずとも少しむっとした態度をとることがあり、嫌われてるのか、ノリの悪い人と思われて終わることが多い。


それに比べてヒサは、顔立ちもスッキリしていて、明るく、誰とでも仲良くなれる人懐こい性格で、一緒にいて飽きることはない。店に来るときはいつも違う女性を連れてくるし、彼に泣かされた女性を何人も知っている。


しかし正也はそんなヒサが羨ましかった。誰とでもすぐに打ち解け、悩むことも少なく、いつもケロッとしているヒサに、自分と比べて劣等感を感じていた。



待ち合わせの場所の大きな公園に少し遅れて到着すると、ヒサと、女の子二人が既に楽しそうに話していた。

ヒサが正也に気付き、近づいてきた。

「よっ、あの子達が今日遊ぶ子!真理子ちゃんと美香ちゃんだってさ」


「どこから引っ張ってきたんだよ…」


面倒くさそうにしながらも、胸は期待で一杯だった。

「俺のバイト先の知り合いの紹介!現役女子大生だってさ!」


正也との話もそこそこに、女の子たちを手招きし、正也を紹介した。


「えっと、こいつが俺の友達の正也。正也、真理子ちゃんと美香ちゃんね」


正也は軽く会釈した。女の子達はくすくすと笑った。


真理子は化粧が濃く、香水の匂いをプンプンさせ、金色の髪をくるくると指でいじりながら、やたら高い声でよろしくぅ〜、と笑った。一方、美香は、ストレートのセミロングの黒髪を風になびかせ、真理子の隣で正也に会釈を返すと、にこりと微笑んだ。嫌みもなく、大人しい印章をうける。


正也は、真理子のような派手で、今時の若者といった感じの子は苦手だ。その逆に、ヒサは美香のように大人しい感じは苦手で、真理子のような子がタイプらしい。


「とりあえず早いけど、軽く何か食べよう」


ヒサは慣れた口調で皆を喫茶店へ促す。



喫茶店に着くと、決まっていたかのように真理子はヒサの隣に座り、正也と美香を気にもかけずにヒサとはしゃいでいた。それをぼんやりみつめながら、美香と何か喋らないと…。と思い、美香の方を見た。


丁度美香も正也を見た。目が合い、少し照れたように笑うと、

「正也君はお仕事何をしてらっしゃるんですか?」


正也は困った。昔なら迷わず、バーで店長やってるよ、と言っただろう。しかし今は、それが嫌らしい気がして、答に困っていた。

「正也は駅裏通りでバー経営してるんだよ!すごくない?」


ヒサが軽い口調で言った。途端に真理子が食いつく。

「え〜、すごぉ〜い!お金持ちなんだね〜!バーテンダー?」


正也はたいしたことないよ、と苦笑いしながらもヒサに感謝した。自分から言うより、友達から言ってくれた方が嫌らしくないと思ったからだ。

そして、そう思う自分に、結局いいように見らるたがっていることに嫌気がした。




結局、その日は喫茶店をでたあと、カラオケでヒサと真理子の歌を聞かされたあと、お開きになった。もちろん、帰る方角が違うはずのヒサと真理子は同じ方角に二人で消えていった。


取り残された美香と正也はどうしようか?と顔を見合わせ、正也は駅まで送るよ、と美香と駅まで歩いた。

美香は、四人の時とは全く違い、色んな話を正也にした。

正也は美香の話すこと全てに頷き、また、返答した。話の内容は他愛のない話だが、最近は店に来る客の相談事ばかり聞いていた正也にとって、それは新鮮だった。

ヒサには女の子と遊ぶとき、何度も誘われたが、皆、真理子のようであったり、高校生であったりと、正也にとってはまともに会話するのも疲れる相手ばかりだった。


美香はそれこそどうでもいい、全く今の状況に関係ない話ばかりした。そしてその口調は落ち着いていて、彼女が真理子や同年代の女性より賢いことをうかがうことができた。


正也はいつのまにか美香との会話を楽しんでいた。久しぶりに会話を楽しいと思った。


駅につき、美香はありがとうございました、と会釈した。正也はどうにも寂しい気持ちになり、自分の名刺を渡した。素直に連絡先を聞けばよかったのだが、よく考えたらまだあまり親しくないからな、と変な壁を作り、名刺なら嫌らしくない。と一人で解決し、

「これ…、もしよかったら。俺の連絡先書いてあるから、いつでも連絡ちょうだいね。」

ぶっきらぼうに渡すと、

「じゃ、またね」

と、後ろを向いて歩き出した。

少し歩いてから振り向くと、彼女の姿はもうなく、電車に乗ろうと速足で人々が改札を抜けていった。


…当然か。とおもいながらも、少し期待していた。もし、振り向いて彼女がいたら…。ここまで考え、正也はまた自分が嫌になった。


…好きになったわけでもないだろうに。


自分の住んでいるアパートに着くと、何度も鳴らない携帯電話を見た。そして、淡い期待はくだかれ、鳴らない携帯を握りながら眠った。




昼過ぎに起きると、ぼんやり窓から外を見る。

はっと気付いたように携帯を見るが、やはり昨日のまま、携帯は沈黙を保っていた。


…オレは寂しがっているのか?会ったばかりの子とちょっと話が弾んだだけじゃないか…。

煮え切らない自己嫌悪は続き、正也は家を出て店へ向かった。




「そういえば、あれからどうなった?」


ヒサがにやにや笑いながら、カクテルグラスを片手にカウンターの向こうの正也に問い掛ける。


「どうなったって…。あのあと少し喋って、普通に駅まで送っただけだよ」

「えっ?本当か?全く…。いつもいつも、お前は真面目すぎないか?」


ヒサの言葉に正也は少し眉をひそめた。ヒサにしては真面目でも、オレはこれが普通のつもりだ。

「そんなだから彼女できないんだよ。いつからいなかったっけ?」


「いいだろ?焦ってつくるものじゃないんだし。」


いつもヒサの誘いにのって女の子と遊んだあとは、こんな風に二人で話す。それは遊んだ子がかわいかっただとか、ノリがよかっただとか、そんな話だ。


「美香ちゃんだっけ?よかったじゃん。顔も綺麗だったし、大人しいから正也好みだと思ったんだけどな」

「確かに嫌いじゃないし、ああゆう子はタイプだけど。でもそれだけだよ。」


ヒサはふぅ、とため息を一つつくと、

「まぁ、また何かあったら呼ぶよ。」

そう残して、帰っていった。

まだ少し中身の残っているグラスを片付けながら、携帯を気にした。


その日も、携帯は鳴らなかった。




次の日、正也は携帯の着信音で目が覚めた。はっとして、すぐに画面を見る。ディスプレイには知らない番号。美香かもしれない。

「…もしもし」

少し警戒しながらも、胸は期待で一杯だった。

「あ、もしもし。正也くん?わかる?ゆきだけど…」


ゆきは、正也がまだ高校生の頃、ヒサの紹介で知り合い、はじめて恋愛した相手だ。

当時の正也は恋愛事などはじめてで、ゆきとどこかに行けば必ずお金は自分がだし、荷物持ちも引き受け、ゆきの望みはなんでも聞いた。また、それが当然だと思っていた。

しかし、ゆきはわがままで、最初はそれもかわいいと思っていたが、次第にゆきの[男は女に尽くして当然]な態度に冷めていった。何かを買ってあげたり、ゆきのために何かをしてあげても、それが当然。といった態度が嫌になって別れた。それからずっと音信不通で、最後にあったのは成人式以来だった。


「ゆき?!久しぶりじゃない。どうしたの?なんで番号知ってるの?」


「さっきヒサに会ってさ。正也くん、あのバーでやってるんだってね。今度飲みに行くよ」


「あ…。うん。待ってるよ」


「…えっと。じゃ…。またね」


予想もしてなかった人からの突然の電話に何を話せばいいかわからなくなり、何も話せずに電話はそれで終わった。しばらく状況が理解できずにぼんやり外を眺めていた。



その日、珍しく客が来なく、開店から暇をもてあましていた。ゆきからの電話、一体なんなのだろう…。椅子に腰掛けながら考え始めたら、いつのまにかうとうとと居眠りを始めていた。


チリン、と入口のドアが動く音が聞こえ、はっと目を覚ました。


「い、いらっしゃいませ」

慌てて立ち上がり、ドアに振り向く。立っていたのは、美香だった。


「あ…」

驚き、何も言えずにいると、美香は照れ臭さそうにはにかみ、軽く会釈した。


「来ちゃいました。」


美香はカウンターに腰掛けながら、またはにかむように笑った。


「あ、ありがとう。びっくりしたよ。どうしたのさ」


美香は、ふふっと笑い、

「あの時正也さんと話しをしたのが楽しかったから。またお話したいなって。」


「本当?つまらないことしか喋れないけど、そう言われると嬉しいよ」


それから二人はまた、時間を忘れるほど話をした。

「私、正直男の人とこんなに話すの初めてなんです。あまり接しないし、話しても会話が続かないんですよ」


一息ついて、美香は言った。しかし正也は、真理子のような友達といて、そんなことがあるはずないじゃないか。何度も男と遊んだりしたことあるんだろ、と思った。思いながらも、そうであって欲しくない、と願い、その矛盾に耐えられなくて聞いた。


「オレも女の人と話すのは得意じゃないんだ。ほら、ヒサは人懐こいやつだからモテるけど、オレは暗いと思われて、ダメなんだ。真理子ちゃんとはよくああやって遊ぶんだ?」


あくまでもさりげなく、自然に聞いたつもりだ。

美香は目を伏せ、


「真理子ちゃんとは普段は本当はあまり遊ばないんです。会えば話す程度で。男の人と遊ぶ時に呼ばれたこと、親しい友人からもないんです。なんであのとき私が呼ばれたのか…」


正也は、あぁ、ヒサだな。と直感した。おそらくヒサがお節介で色々注文したのだろう。余計なお世話だ、と思いながら、少し感謝した。


「美香ちゃんは、真理子ちゃんとは全然タイプが違うよね」


正也が笑って言うと、美香はまた、視線を落とした。


「私、真理子ちゃんが羨ましくて。」


「羨ましい?」


「はい。私は真理子ちゃんのように明るいとは言えないし、男の人と何を喋っていいかわからないし。どんな状況でも笑ってて、皆の人気者な真理子ちゃんが羨ましいんです」


「それはオレも同じさ。オレもヒサに、美香ちゃんと同じような感情を持ってる。でもやっぱり性格って人それぞれだし、美香ちゃんには美香ちゃんなりに、真理子ちゃんが羨ましがるような所が必ずあるよ」


「そうですか…?」


「そうだよ。美香ちゃんは充分、魅力的さ。」


自然と出た言葉に、我に返った。何を言ってるんだ。


「ふふ、お上手ですね。ありがとうございます。嘘でも、元気がでました」


嘘じゃない、と言いかけて飲み込んだ。この時正也は、この子に恋をしてるのかも知れない。漠然と、なにか不安に駆られた。


「今日はありがとうございました。また来てもいいですか?」


「もちろん。お待ちしています」


美香が代金を払い、軽く会釈して、店を出ようとした。そのとき、妙に寂しさに襲われた。自分はまだ美香の連絡先がわからない。これきりだったら…


「あのっ…」


正也は不安から思わず声をかけた。美香が振り返る。


「あの…もしよかったらメールしよう」


美香は、一瞬驚き、すぐに笑った。


「じゃあ家に着いたらメールします」


また軽く会釈し、去っていった。


正也は顔が緩み、小さくやった、と呟いた。そして、あぁ、オレは美香に恋をしているんだな、と認識した。


正也がまだかまだかと携帯をにぎりしめていると、チリン、とドアの開く音がした。

顔を引き締め、


「いらっしゃいませ。」


そこに立っていたのは、ゆきだった。


「あ…ゆき…」


「久しぶりじゃない、元気にしてた?」


ゆきは、相変わらずそっけない態度と冷たい口調で、さっき美香が座っていた椅子に腰掛けた。


「今日は意外な人が沢山来るな」


正也は呟き、苦笑した。本音をいうなら、ゆきとはもうあまり関わりたくなかった。正也自体、ゆきとはいい思い出はない。


「迷惑かしら?」


ゆきが目を細めた。今ではこういった威圧的な仕草一つとっても、正也は苦手だった。


「いや、久しぶり。会えてうれしいよ」

ゆきはタバコに火をつけると、流れる煙をぼんやりと見つめながら静かに口を開いた。


「ヒサにたまたま会ってね。昔話に華が咲いてさ。正也の話題になったら、ここで店をやってるって聞いたから」


「やってるだなんて…。ただ、親父におしつけられただけだよ。親父のやつ、オレに店を押し付けて、自分は新しくなにか始めるって言ってるんだから…」


正也は肩を落としてみせた。しかし、実際はちがった。経営していくのは面倒だし、休みも少ないが、客とのコミュニケーションや、この店での仕事は、楽しいといってよかった。


「本当に…、迷惑だったかしら?」

「迷惑なんかしないよ。君から電話が来たときは少しだけ、驚いたけど」

ゆきはクツクツと笑い、

「ヒサからも聞いていたけど、本当に変わらないわね。まぁ、正也くんのそういうところ、嫌いじゃないけど」


「そういうところ?」


「相手に合わせて、自分を表に出さないところよ」


正也にはその意味がよくわからなかった。

それからは当時の思い出話、別れてからや新しく彼氏が出来たが、別れてしまったなどと、会話が途切れることはなかったが、付き合っていたころの思い出話は、したくないと思っていた。

正也は積極的に話はしないものの、たのしげに話すゆきを見守った。

「…なんか、本当に昔に戻ったみたい」


ゆきは目頭を指で押さえながら続けた。


「彼氏とね、すぐ別れちゃうのよ。私がわがままだって。わがまま言ってるつもりはないの。ただ、いつでも私に向いていて欲しくて…」


どう声をかけていいかわからず、正也はただ相槌をうっていた。

少しだけ沈黙が続いた。すると、ドアの方でまた、チリンと鳴った。


「いらっしゃいませ」


よろよろとおぼつかない足元で、いつもの酔っ払い男が入って来た。

ゆきはくわえていたタバコを灰皿で揉み消し、ゆっくりと立ち上がった。

「そろそろ行くわね。今日はありがとう。ごめんなさいね」


いや、こちらこそ、とお礼をいいながら、ドアまで見送った。

それから一つだけため息をつくと、男の方に振り返った。

いつものように酔っ払いながら何かぶつぶつ言っている。面倒だし、できればそのまま放っておきたかったが、そういう訳にもいかず、渋々声をかけた。


「今日はどうしたんですか?」


「もうダメだ…」


「え?」


「もうダメなんだよ…!金を使い過ぎた」


「だったら、プライベートで会うようにすればいいじゃないですか」


「出勤日以外は連絡こないし、しても返ってこないんだよ」


正也はこの男がわからなかった。


「やっぱりそれ、誰がどう考えても金目的ですよ。あきらめたほうがいいです」


「でも好きなんだよー…」

「じゃあ告白でもすればいいじゃないですか?」

「そんなことして、もし断られたらどうするんだよ…」


男の言葉に苛立った。うんざりだった。キャバクラの娘に熱をあげるなど、正也には考えられないことだった。


それから正也は何も言わなかった。


「今日はもういくよ」


男は多少すっきりしたのか、起きあがり、しっかりしたあしどりで去っていった。


本当におかしな日だ。そう思いながら、いつもより少し早めに店を閉めた。

思い出したように携帯を見ると、メールが一通届いていた。美香からだ。

《今日は本当にありがとうございました。また近いうちに行きたいと思いますケド、お願いします!》

正也は返信しなかった。




「ねえ、今日は泊まっていってくれるの?」


薄暗い部屋内に甘えるようにささやく真理子の声。その隣にはヒサが横になっている。


「ごめん、泊まりはちょっと…。そろそろ帰らなきゃ」


いそいそと用意を整え、後ろで何か言う真理子を無視して部屋を出た。


今まで何人の女性と遊んできたかわからない。だが、そのどの女性とも、体の関係は持たなかった。

ヒサには亜美という名の彼女がいた。もう何年も付き合っていて、同棲もしている。

亜美はヒサが他の女と遊んでいることを知っていた。


「…ただいま」


「おかえり…。今日も遅かったね…。何してたの?」


「別に…。友達と遊んでた」


「そう…」


亜美には分かっていた。しかし言いだせずにいた。

ヒサにも罪悪感がないわけじゃなかった。だけどもう亜美とは一緒にいるのが当たり前で、亜美がそのことで悩んでいることもうすうす感づいていたが、別れることはないだろう、と疑われてもしらを切り通していた。


「…いつもどこで遊んでいるの?」


不安そうに亜美がヒサに聞く。


「正也のとことか、バイト先の先輩の家におじゃましたり」


それが嘘だとわからない亜美ではなかった。


正也の店には、まだ付き合い始めたころに二人で何度も行った。亜美は正也とも仲がよかった。


料理人を目指すヒサのバイト先は中華料理の飲食店で、その先輩とは面識があり、ヒサがバイトではない日に、たまたまヒサのバイト先ヘ行ったとき、最近はヒサがよくお邪魔しています、と挨拶した時に、ヒサとはこのところ全然遊んでない、と言われた。

その時、疑いは確信に変わっていた。

だが亜美はヒサを信じたかった。


「そっか…。私、今日はもう寝るね」


亜美は後日、正也の店に行くことに決めた。




陽気が温かく、春も目前まで迫るころ、正也は後輩のたつきと、アパートで昼ご飯を食べていた。

「こんな時間からどうしたんだよ…」

まだ少し寝ぼけた顔で、たつきに問う。


「あはは、いやぁ、暇だったんで」


たつきはまだあどけない顔つきだが、歳は正也とは二つしか違わず、見た目の割に考えもしっかりしている。ヒサ同様、正也とは仲のいい、よき理解者だ。


「どうっすか?最近はいい子います?」


正也の頭の中に、美香の顔が浮かんだ。

少し間をおいて、

「いいや。いないさ」

と答えた。

たつきはにやりと笑って、


「あ、いるんスね?正也さんはわかりやすいなぁ。だれですかぁ?」


「んー…。ちょっと気になる人はいるけど…。でもそれだけだよ」


「それだけって…。それで十分っスよ!で、アタックしないんスか?」


「いや…。まだ知り合ったばっかだし…。アタックとか…」


「気になってるんなら積極的に行くべきですよ!待ってたって寄ってくるもんじゃないんですから!」


確かにな…、と携帯を手にしてみた。


「でもなぁ…」


「とりあえず、デートに誘いましょう!話はそれからっスよ!」


携帯のメールを開く。

しばらく考えてからデートに誘う文をうち、そして送信した。


昼ご飯を片付けていると、すぐに携帯が鳴った。

「返ってきましたよ!どうでした?」


正也は嬉しさをたつきに悟らないようにこらえ、

「OKだって。」

と一言、たつきに返した。なぜかたつきは自分のことのように喜んでいた。


しばらくメールのやりとりをして、美香とは次の定休日に会うことになった。

たつきは一人で駅前の喫茶店がお洒落だとか、国立大学のとなりの料理屋がおいしいだとか色々喋りだした。


「分かった分かった。参考にしとくから、どこかいこうぜ」


まだ喋りたりないたつきをいなして、二人は街へ繰り出した。




辺りも薄暗くなり、日が長くなったことに夏が近いことを感じながら、正也は店へと向かっていた。

「お前も来るのか?」


隣にはたつきが当然、といった顔で並んで歩いていた。


「やることないし。いいじゃないっスかぁ」


けらけらと笑う。



店を開け、たつきと二人、のんびりとタバコをふかしていると、ドアがチリン、と鳴った。


「いらっしゃいませ」


そこに立っていたのは、ゆきだった。


「あら、友達?」


ゆきはたつきの方を見ながら、カウンターに腰掛けた。


「仲のいい後輩だよ」


たつきはゆきと正也を交互に見て、誰ですか?と言うように正也に向かって首をかしげた。


「友達よ、昔の。ね」


ゆきはたつきを見ながら、少しだけ微笑んだ。たつきは少し間をおいて、ゆきに自己紹介した。ゆきもまた、たつきに名を名乗った。



しばらくたつと、二人は酒の力も借りて、完全に打ち解けていた。正也は他のお客や、店の仕事で二人とあまり喋れていなかった。


「ゆきさんは、彼氏とかいるんですか?」


たつきがゆきに問う。


「いないわ。ずいぶん前に別れたもの」


「そうなんだ。じゃあ、好きな人はいるんですか?」

ゆきは一瞬だけ正也を見て、言葉を濁した。


「それより、あなたそんなに飲んで大丈夫なの?」

たつきは少しだけ、ゆきが動揺したように見えた。そしてそれを聞いてはいけない気がした。

「オレは全然大丈夫っス。ゆきさんも、飲みが足りないっすよ」

笑いながらそういうと、自分のウイスキーをゆきに渡した。


店の客も落ち着き、正也が二人のところへ行くころには、ゆきは相当酔っていた。

「二人とも、大丈夫か?帰れるか?」


正也が心配そうに聞くと、

「オレが送っていきます」


たつきが力強く言った。正也はたつきにゆきを任せ、すまない、と一言たつきに謝った。


「正也さんはなんにも悪くないっスよ!オレが飲ませちゃったんです」

そう笑って、たつきはゆきの肩を持って、また来ます、と出ていった。

暗い夜道を酔ったゆきをおぶりながらたつきは歩く。

ゆきは店を出た後、結局歩くことができなかった。


「ごめんねぇ…」


たつきの耳元で呟くように謝る。


「謝らなきゃいけないのはオレの方っスよ!ゆきさんに飲ませたの、オレっすもん」


たつきは申し訳なさそうに笑った。


「私ね…、まだ忘れられないの」


「え…?」


「私と正也、昔付き合っていたの。私がわがままばっかり言って振り回して。でもいつも受け入れてくれてたわ。」

ゆきは酔った勢いで、たつきに溜まっていた気持ちをぶつけた。


「別れてから、何人か付き合った人はいるわ。最初は皆、笑ってそばにいてくれるの。だけど、一緒にいればいるほど、私にはついていけないって…。あはは、私、わがままだから。いつも皆を困らせてたわ。」


たつきは黙って相槌をうち、静かに聞いていた。

「正也くんは優しかった。他の誰よりも。でもあの時は、私も何も知らなかった。今思えば、正也くんは私のわがままをいつでも笑って受け入れてくれた。でもその時はそれが当たり前だと思っていた。どんなに優しくされても足りなかった。彼の気持ちはずっと私を見ていてくれたのに、私はそれに気付かなかった…。久しぶりに会っても、変わってない正也くんをみたら…」


それからゆきは、鳴咽を漏らして静かに泣いた。たつきは正也には気になる人がいるということを言おうとしたが、飲み込み、ゆきの力になってやろうと心に決めた。


そして、ゆきを送って家についたとき、湿る肩の服をぎゅっとつかんで、切なさをかみしめていた。




今日は美香とデートの日ということもあり、正也は入念に身だしなみを整えた。服もお気に入りのTシャツに、迷彩のズボンをあわせて、ラフな服装でさっそうと家を出た。




待ち合わせ場所に着くと、美香はもう待っていた。そのかわいらしい後ろ姿は、正也の気分を高揚させた。しかし冷静に、今日は大人の態度でいこう、と声をかけた。


「ごめんね、待った?」


美香は少し驚いてから振り向き、待ってないですよ、と、にっこり微笑んだ。その笑顔がとても愛くるしく、この時正也はあぁ、オレは美香にひかれているんだな。と、確信した。


「どこに行こうか?」


「私、ゲームセンターに行きたいです」


その答に正也はぎょっとした。どこでもいいですよ、と言われるだろうから、彼女の雰囲気を考え、たつきに教えてもらった洒落た喫茶店でお茶して…。と考えていたのだが、おもいもよらぬ返答に、少し戸惑った。

「ゲームセンター?」


「はい…。おかしいですか…?」


「い、いや。予想外だったから少し驚いただけ。おかしくないよ」


正也がそういうと、美香はほっとした表情を見せた。

「私、ゲームセンターに行ったこと、あまりないんです。学校の友達は当たり前のように行くから、何が楽しいのか…」


「任せなさい。オレは昔ゲームセンターで毎日遊んでたほどだからね。面白いものが沢山あるよ」


本当のことだった。自慢にはならないが、まだ学生の頃、正也は毎日のように友達とゲームセンターにたまっていた。

当然、ゲームにはひとより詳しいし、クレーンゲームなんてやらせたら、賞品が無くなるまでとり続けるほど、うまかった。

二人は歩いて近くのゲームセンターへ入った。新しくはないが、二階建てで、充分な広さがある。店内はやたら清潔で明るく、一階にはクレーンゲームやレースゲームにプリクラ機械、リズムゲームが置いてあり、二階はメダルで遊べる競馬やスロットにパチンコなど、さまざまなゲームが充実していた。


「わぁ。なんだか、想像と全然違いますね!」


美香は、店内の音に負けないように声をはりあげた。


「私、こうゆうところはもっと暗くて、恐い人が沢山いるかと思ってました」


今時の子にしてみれば、考えられないが、彼女にとってそれは、初めて見る世界なのであることは、様子をみれば明らかだった。



それから一回りして、一緒にレースゲームをした。正也はレースゲームが得意なのでなんなくゴールしたが、美香はというと、コースをはずれ、車をぶつけ、終いには逆走する始末だった。

リズムゲームもやった。タイミングに合わせて太鼓を叩くだけなのだが、正也にはからきしで、逆に美香はいとも簡単にやってのけた。


一通り遊び終えると、美香はクレーンゲームのぬいぐるみに目を奪われていた。今人気の、かわいらしい小熊のぬいぐるみだ。


「クレーンゲーム得意なんだ。とってあげるよ」


そう言って、百円を入れた。

正也は確かな腕だった。ぬいぐるみに器用に引っ掛け、持ち上げるというよりは、引っ張りこむ要領であっという間にとってしまった。


「わぁ、すごいですね!」

「はい。あげるよ。俺が持ってても仕方ないしね」


「ありがとう!このマスコット、かわいいですよね!私、好きなんですよ」


彼女は嬉しくてたまらない、といった表情で夢中になっている。その姿を見て、正也はたまらなく愛おしく感じた。



それから少しだけ辺りが暗くなり始めるころ、二人は夕食をたべにレストランに入った。もちろん、たつきからパスタがおいしい、と教わった店でもある。

二人は窓際の奥の席に腰掛けた。


「ここのパスタがおいしいみたいだよ」


美香はへぇ、と目を輝かせて、メニューから慎重に選んでいる。


やがてテーブルの上には、皿に綺麗に盛られた二人分の食事が次々に運ばれてきた。

「これはすごいですね!おいしそう…」


想像を超えるほどの豪華な食事に驚きを隠せないのは、美香だけではなかった。正也はこのレストランを知るたつきが少し恨めしかった。


「オレも初めてなんだけど、まさかここまですごいとはね…」


笑いながら美香の小皿にパスタを盛りつける。


「ありがとうございます」


「え?いいよいいよ、これくらい」


「いえ、今日のことです」


「今日のこと?」


美香に何かお礼を言われるようなことをしたか?と、自問自答をするが、何も思い当たらない。


「今日は本当に楽しかったです。」

「いや、そんなに改まらないでよ。オレもすごく楽しいし」


笑いながらパスタを頬張る。


「おいしいよ!美香ちゃんも食べなよ」


「…私、久しぶりに男の人とこうやって遊びました」


「うん?」


「前にも彼氏とかはいたんです。だけど、男の人ってやっぱり皆、真理子ちゃんみたいな子が好きなんだろうなって。浮気ばっかりされちゃって。もしかしたら私って、女としてあまり魅力ないのかなって思って。でも、この前正也さんがかわいいって言ってくれたの、嘘でもすごい嬉しかったんですよ」


美香は少しだけはにかんで笑った。


「嘘だなんて…。オレは美香ちゃんのこと、本気で…」


言いかけて、言えなかった。


「本当だ、すごくおいしいですね!」


美香は何事もなかったかのように、料理に舌鼓をうっている。その姿をまたかわいらしく思い、言いかけて言えなかった言葉が頭の中を駆け巡った。今言えば、自分の中にある不確かな恋心を伝えることができれば…。



その日は何も言えなかった。



それ以来、美香は店にもちょこちょこと来るようになった。正也が定休日で、美香の予定がないときは、会って、何をするわけでもなく共に時間をすごした。正也が美香を想う気持ちは余計に大きくなったし、美香も次第に正也に心を許していった。




ある日、正也がいつも通りに開店の準備をしていると、ドアがチリン、と鳴った。開店まではまだ30分近くあった。


「すいません、まだ開店まで少し時間が…」

予想もしなかった客に、目を疑った。


「あ…。亜美ちゃん?」


「ごめんね。ちょっと話があって…。お客さんいると話しづらいから…」


ヒサがいないことに、その話がヒサの事だと解るのは、正也にとって難しいことではなかった。


亜美をカウンターに坐らせ、おしぼりとお茶をだす。


「いきなりでごめんね。ヒサのことなんだけど…。正直に話してほしいの。ヒサと最近会ってる?」


「ヒサとはこの前遊んだよ。一緒に飯食ったり」

「そっかぁ…」


亜美のなかに、正也の返答でヒサが浮気しているかもしれない疑いは、確実なものになった。亜美の

「最近」

という言葉に対して、正也の

「この前」

という言い方は、頻繁には会っていない口ぶりだった。ヒサのいいわけは、聞くたびに正也であったり、バイト先の先輩だった。もしヒサの言うことが正しければ、正也は

「よく会ってるよ」

と言えばいいわけだし、口裏をあわすにしろ、ヒサをかばうにしろ、そう言ったほうが亜美をだませるはずだ。

亜美はカウンターのテーブルに大粒の涙をいくつもこぼした。それを見て正也はなんとなく、しまった、変なことを言ってしまった、と眉をひそめた。


「ヒサね、浮気してると思う。どうしたらいいんだろう…」

正也は胸が締め付けられた。亜美の、

「どうしたらいいのか」

の一言で、亜美がヒサをどれだけ好きなのか痛いほどに伝わった。それでも、亜美はヒサが好きなのだ。そしてその気持ちの大きさに、正也は切なくなった。

自分は知っていた。ずいぶん前からヒサが色んな女と遊んでいることを。それをいいこととは思わなくとも、自分も誘ってもらっていたことを喜んでいた。今、亜美の言葉に、今までの自分の行動が愚かしく思え、正也はなにも言うことができなかった。


「ごめんなさい。営業の邪魔ですよね。もう行きます」


立ち去ろうとする亜美に、罪悪感にかられ後ろから声をかけた。


「どうするんだい?」


「わかりません…。話してみます」


顔は笑っていたが、その表情の奥には、何か強い決意のようなものを感じた。




陽射しも強くなり、気温も上がったその日、ゆきはたつきに食事に誘われていた。

これまでたつきには自分の今までや、正也に対する気持ちを色々話したし、たつきもまた、親身になって聞いてくれた。

ゆきにとってたつきは、よき理解者であり、なんでも話せる相手でもあった。

小綺麗な居酒屋に二人向かい合い、お酒で軽く乾杯すると、たつきが口を開いた。


「今日はゆきさんに話があるんです」


その真剣な口ぶりに、料理を食べようとする手が止まる。ゆきは静かに頷き、次の言葉を待った。

「正也さんのことなんですけど…。俺、どうしてもゆきさんに言えなくて…」


「…?」


「正也さん今、好きな人がいるんです。あのときに言えばよかったんだけど、酔ってたとはいえあの時のゆきさん見たら言えなくて。それから言うタイミング逃しちゃって…」


体がしびれるような感覚にとらわれた。力が抜ける。


「え…?」


「すんません。本当、すんません」


たつきは申し訳なさそうに何度も頭を下げた。


「…いいのよ。別に正也くんに振り向いてもらおうなんて思ってなかったし。ただ少しだけ、ショックだったかな…」


「…気持ち、伝えてください」


「え…?」


「ゆきさんが正也さんのこと好きなら、気持ちを伝えるべきです。例えダメってわかってても言うべきです。でないと後悔します」


「ダメってわかってるのに、気持ちを伝えたって惨めなだけよ。もう十分惨めな思いしたわ。だからもういいの」


たつきはその言葉に少し声を荒げて言った。


「ゆきさんはそれでいいんスか?惨めとか、そんなことどうだっていいじゃないっスか。好きなら好きって言うべきです。自分に素直になってください」


「ごめんね、今日は帰るわ」


ゆきはそういってテーブルに並んだ料理にも手をつけず、まるでたつきから逃げるように足早にその場を去った。

何も言うことができなかった。まだ忘れられないとは言っても、正也に好きな人がいようがいまいが自分の気持ちを伝えたって無駄に決まっている。熱くなる目頭をぎゅっと押さえながら、家にむかって小走りに去っていった。




その頃、ヒサは正也の店にいた。ヒサにしては珍しく、酔うほどに酒を飲んでいた。

亜美がいなくなって、もう一週間連絡がとれてないない。


「そんなに飲んだらかえれなくなるぞ」


正也が心配そうに声をかける。


「…俺さ、なんかバカだったな。いて当たり前。っていうか、離れることはないと思ってたんだよ。もし別れたとしてもなんとも思わないんだろうな、って。」


真剣な顔つきで話すヒサを見て、それがすぐに亜美のことだとわかった。

「いつからだろう…。始めは亜美のこと、ちゃんと思いやっていたのに…。いなくなって初めて気付くとはよく言ったものだな」


「ヒサがそこまでわかっているなら、行け。亜美ちゃんのとこ」


正也は、普段は決して出さないような強い声をだした。


「もうどこにいるのかわかんないし、あいつはオレに愛想を尽かしているさ」


ヒサの態度は正也は苛立たせた。


「だからなんなんだ?自分の正直な気持ちがわかったんだろ?行けよ。行って伝えろ。このままじゃ後悔するぞ」


正也の言葉にヒサは怒りを覚えた。


「お前がわかるのか?アイツはもういないし、オレのこと好きなわけでもないだろう。なにもわからないくせに知ったような口を聞くんじゃねぇよ!」

初めて、ヒサが正也に向けた怒りだった。しかし正也は、真っ直ぐにヒサを見据えていた。


「わからないから言えるんだ。亜美ちゃんが好きなんだろう?一週間位前、亜美ちゃん店にきたぞ。ヒサのことで。ヒサを信じていた。ヒサがどんな下手ないいわけしてもな。言わないで後悔するより、言って後悔しろよ」


ヒサの動きが止まった。正也を睨みつけていたその目からは、大粒の涙が頬を伝っていた。


「…行けよ。まだ遅くないだろ?」


ヒサは携帯だけにぎりしめ、その場を立つと、すまない、と一言呟き、店を出た。


ヒサは走った。亜美の携帯に電話してもでない。亜美の行きそうな場所や、亜美の友達の家も全部回った。

もし、すでに実家に帰ったのなら手遅れだった。実家は遠く、このまま連絡がとれなければ二度と会うことはできないだろう。

ヒサは走り続けた。二人で行った喫茶店や、二人で遊んだゲームセンター。しかし亜美はどこにもいなかった。ヒサはとぼとぼと、帰路につこうとした。その時に、一つだけ、まだ行っていない場所があった。初めて二人が出会った場所。亜美が子供と一緒に遊んでるのを見て、カワイイと思い、ナンパしたあの場所。真ん中に大きな砂場のある公園。

ヒサは、自分が呼吸してることすらわからなくなるほど走った。足が痛い。腕もちぎれそうだった。しかし、ヒサは走り続けた。


公園につくと、一つだけしかない街灯が砂場を照らしていた。人影はなかった。もう遅かったのだろうか。

立ち去ろうとすると、後ろの方で小さく、ギィッ、と音がした。ヒサがそこに目を向けると、何かが微かに揺れている。それは、公園の隅に二つだけ並んでいる、ブランコだった。近づくと、誰か人が座っているように見えた。


「…亜美?」


「…来てくれたんだね」


亜美だった。それが亜美だとわかった途端に、涙が溢れていた。


「亜美…、ごめんな。ごめんな…」


それ以上は言葉にならなかった。涙と動機で、言葉にすることができなかった。


「…今日来てくれなかったら、ヒサのことは諦めて、実家に帰ろうかと思ってたんだよ。でも、来てくれたから。ありがとう」


亜美はにっこり笑ってヒサに歩み寄り、その手でヒサの涙を拭った。

その日、月明りが優しく二人を照らす中、ヒサは亜美を抱き寄せ、ひたすらに泣いていた。




ある日、正也がいつも通りに店を開けると、美香がやってきた。美香が店に来るのは珍しいことではなかった。


「いらっしゃい。今日はどうしたんだい?」


正也は笑いながら美香に問い掛けた。


「えへへ、ちょっと正也さんの顔が見たくて」


はにかみながら美香は答えた。その時チリン、とドアが鳴った。

「いらっしゃいませ」


正也がドアに目を向けると、ヒサが立っていた。もちろんその隣には、亜美が寄り添っていた。正也はそれを見て、嬉しくなった。


「邪魔だったかな?」


ヒサがからかう。亜美がそれを怒ると、ヒサ達は並んでカウンターに座った。


「少しお礼がいいたくてね」


ヒサが笑いながら亜美を見る。正也もそれを断る理由はなかった。

それからは四人で、くだらないことで話をはずませた。しかし、時間がたつにつれて、美香の顔が暗くなる。それを気にしたヒサが、美香に声をかけた。


「美香ちゃん、どうしたの?具合いでも悪いの?」


美香は、少しだけ間を置いて、


「実は…、両親が離婚しちゃって。学校やめて、地元に帰らなきゃいけなくなったんです。急なことで…、もう届けはだしたし、今日の深夜バスで行かなくちゃいけないんです。」


苦笑いしながら美香は答えた。

正也は何を言っているのかわからなかった。ショックと動揺で、喋ることができなかった。ヒサもまた、同じだった。正也のことは知っていたし、あまりにも急すぎる出来事に、頭がついていかなかった。


「そっ、か…。大変だね」

正也にはそれしか言えなかった。美香が寂しそうに頷くと、それから沈黙が続いた。

すると、またドアが開いた。正也は、ドアの方すら向くことができなかった。入ってきた客は、真っ直ぐに正也に向かってくる。ようやく正也の視界に入ってきたのは、ゆきだった。それにまた驚き、動きがとれなかった。


「…私」


ゆきがゆっくりと口を開く。


「私、正也くんが好きよ」


ゆきがそこまで言った瞬間、美香は立ち上がった。


「ごめんなさい、私行きますね…」


そういうと、小走りに美香は走り去って行った。亜美はそれを追い掛けようとしたが、ヒサがそれを制した。正也は美香を目で追うことしかできなかった。


「たつきくんから聞いたわ。あの子が好きなのね」


正也はドアを見つめたまま、ゆきの問いに何も言えなかった。


「今更私がこんなこと言ってもあなたは怒るでしょうね。でも伝えたかった。言わないで後悔するより、言って後悔したほうがいいもの」


「ゆき…」


正也がゆきを見ると、目に涙が溜まっているのがわかった。


「オレは…」


正也の答を遮るように、ゆきは続けた。


「わかってるわ。何があったか知らないけど、追った方がいいんでしょ?行ってあげて」


「でも…」


正也はまだ整理がつかなかった。


「行けよ」


横から、ヒサが正也に声をかける。


「ゆきの気持ち、わかってやれよ」


「ヒサ…」


「あの時の言葉、そっくりそのまま返してやるよ。好きなら、行って伝えろ。ダメでも笑い話くらいにはなる」


正也はヒサの言葉が終わらないうちに、店をとび出していた。


「私は行くわ。報告したい人がいるから」


ゆきは涙を流さなかった。しっかりと前を向いて、店を出て行った。

残されたヒサと亜美は、《OPEN》とかかれた看板を《CLOSE》にひっくり返して、笑いあった。


「さっきの女の人、すごかったね」


「あいつもあいつなりに、悩んだんだろうな。大した奴だ」


ヒサがまた笑うと、亜美は思い出したようにムッとした顔でヒサに言葉を返した。


「なんで美香ちゃんが行っちゃったときに、止めたのよ!私が行ってれば引き止められたかもしれないじゃない」


「正也が行かなきゃ意味がないだろ?おまえを迎えに行ったのが俺じゃなくて正也だったら意味ないだろ?」


ヒサの言葉に、亜美は納得して、なにもいわずになるほど、と笑った。




ゆきはそのあと、真っ直ぐにたつきのもとに向かった。たつきの顔を見てゆきは、涙を流して泣いた。たつきは何も言わずに、ゆきの頭を撫でた。

「頑張りましたね」


「ありがとう…。やっぱりダメだったけど、言えてよかった」


そういうと、また静かに泣いた。たつきは泣くゆきを抱き寄せ、

「オレも伝えなきゃいけないことがあるんです。正也さんのこと、好きってわかってます。でも、言わせてください。俺、ゆきさんのこと好きです」


ゆきは驚き、顔をあげようとしたが、たつきがゆきを抱く手を強めたため、上げることができなかった。


「ありがとう…」


たつきに一言だけ返し、また泣いた。たつきも、声は出さずに静かに涙だけ流して泣いた。






正也は店を出ると、すぐにバスターミナルに向かった。向かっている最中に色んなことが頭の中をぐるぐるまわっていた。初めて美香と会った時のこと。美香とのデートや、話したこと。ヒサと亜美のこと、ゆきのこと。色んな思いを背負って、バスターミナルに向かった。

バスターミナルにつくと、美香を探した。美香がどのバスに乗るのか、それがどの時間に出るのかわからないので、はじから見て回った。もしかしたらもう行ってしまったのかもしれない…。

そんな不安がよぎったその時、今まさに乗り込もうとする美香を見つけた。


「美香ちゃん!」


気付くと正也は、周囲を気にすることなく大きな声を出していた。

美香はバスの乗り口に立った所で一瞬足を止め、正也の方へ振り向いた。正也は美香の元へ走り、息を整える間もなく続けた。


「オレは美香ちゃんが好きだ。ずっと一緒に居たい」


それは不器用な正也の、精一杯の言葉だった。

バスの中から出発のアナウンスが聞こえる。


「ありがとう…」


美香は必死に涙をこらえた。


「俺、待ってるから。ずっと、待ってる」


正也がそういうと、ドアが閉まって、バスは出発した。

正也はしばらく走り去って行ったバスの後ろ姿を眺め、その場に佇んでいた。

最後の言葉は美香に届いただろうか。







それから一年近く時は流れた。


あれからヒサは亜美と結婚して、もうすぐ子どもも生まれる。前のように店に顔を出すことは少なくなったが、来れば二人して幸せそうにのろけ話をしてくれる。

あの夜、ヒサと亜美は正也の帰りを待っていた。一人で帰って来た正也を、ヒサは笑って励ましてくれた。ヒサの言う通り、あの夜の出来事は笑い話として今もよく話している。


ゆきは、あれからたつきと付き合っているようだ。たつきはいつでもゆきのそばにいたし、自分のすべてを理解してくれて、受け入れてくれるたつきに、次第に惹かれていったらしい。


正也はというと、たまにたつきが遊びに来るものの、ヒサからの遊びの誘いも少なくなったし、毎日同じ日々を繰り返していた。

その日も店を開けると、いつの日か来なくなった、閉店間際に来ていた酔っ払いの客が来た。しかしその日は酔った様子はなく、きりっとした顔付きでカウンターに座ると、正也の方を真っ直ぐに見て言った。

「私は妻がいてね。一年くらい前に離婚したんだ。原因はわかるだろう?」


見たことのない真面目な口ぶりだった。正也は黙って聞いた。


「私は君に好きなら好きと言え、と言われた。相手は夜の女だったがね。いろいろ考えたんだが、結局言えなかった。当たり前だが、結果がこれだ。それならせめて、自分の気持ちを伝えるべきだったと後悔している。娘にも話したよ。呆れられた。しかしだからこそ、娘には後悔してほしくない。相手が誰であろうと、ね」


正也には意味がわからなかった。


「私はもう帰るよ。娘を、よろしく頼む」


男はそれ以上は何も言わずに、立ち去った。

正也には意味がわからなかった。見たこともない娘を頼まれても困る。


すると、ドアがチリン、と鳴った。


「いらっしゃ…」


正也は驚き、それ以上言葉が続かなかった。


「えへへ、正也さんに会いたくて、来ちゃいました。」


そこには格好は違えど、あの時のままの美香が立っていた。正也はその場を動けず、ただ呆然と立ち尽くした。


「あの時の答え、言えなかったんで言わせてください。私も、正也さんのことが好きです。ずっと一緒にいたいです」


涙が流れていた。正也は気付くと美香を抱き寄せ、時間も忘れ、ただその温もりを感じていた。



「…ずっと、一緒にいよう。」

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