貸した金は捨てた金
とあるマンションの一室に事務所がある。弁護士の私一人と事務員一人でやりくりしている。部屋に入ってすぐ、キッチンの場所を事務員のいる受付スペースにし、木製の引き戸の向こうのリビングを執務室兼相談スペースにしている。
「ただいま」と、部屋に入って声をかけると、事務員の楠瀬里緒と目が合う。亡くなった父親が弁護士をしていたらしく弁護士に興味があって、都内の大学の法学部に在学していたときからアルバイトとして手伝ってもらっている。3年前に大学を卒業してから正式に事務員になってもらった女性。
今日はポニーテールで、真っ白いポロジャツを着ている。明朗快活で、見た目は可愛らしいのだが、このご時世なのでそういったことは一切口にしていない。
机に座りながら何やら黙々と作業をしている途中だったようだ。鋭い目つきでこちらを向く。
「はあ。今日は一回も事務所に来てませんよね?それなのにただいまっておかしいと思いません?おはようございますですよ?」
言葉に敏感なのは良いことだとは思うが、事務所の主は誰だと言いたくなる。言いたくなるだけで、これまたご時世的に実際には言わないが。
「お、おはよございますぅ…」
「あれ?お客様ですか?連れてくるなんてめずらしいですね?」
「あ、あのさ。お客様じゃなくて相談者様とか依頼者様とか、そう言って欲しいんだけど」
チャンスだと思い反撃してみる。
「相談者様なのか依頼者様なのか、わたし知らないですから。それに先生が言ってるのはカスタマーのお客様ですよね?わたしはゲストの意味で言ってますから。事務所の人じゃなかったらゲストですよね?」
「す…すみません」
この短時間で二度も言いくるめられるとは。もう弁護士にでもなった方がいいのではと思うくらいだ。
「あのう…」
橋で会った女性が遠慮がちに声をかけてくる。そうだ、不毛な争いをしている場合ではない。
「こちら、えー、ご相談者様」と伝える。
「いらっしゃいませ。ではこちらへどうぞ」と、人が変わったように丁寧に、指先をしなやかに動かし、奥の部屋へ案内する楠瀬。切り替えが早い。
私もスリッパに履き替え、テーブルを挟んで、女性と向かい合って座り、机上のノートパソコンを開く。楠瀬が空調を効かせてくれていたので涼しい。
「では、あらためまして、弁護士の西上と申します。よろしくお願いします」と名刺を渡す。
「よしなりすみれと申します」と女性は名刺を受け取ると、机上に置いた。
「ドクペと緑茶、どちらがよろしいでしょうか?」と楠瀬が声をかける。
「ど?…緑茶でお願いします」と女性。当然そうなるだろう。
「ではこちら、記入お願いします」と楠瀬が相談者シートという紙と置き、ボールペンを渡すといったん部屋から出た。住所や氏名などの属性を書いてもらう紙だ。
「どうぞ」と戻って来た楠瀬が女性の前にペットボトルの緑茶を、私の前にはドクペを置く。少し恥ずかしい。ノートパソコンを持って来て私の右隣に座り、メモをとってくれる。待つ間にドクペをがぶ飲みした。
「ありがとうございます。書き終わりました」と女性。
書いた紙を受け取る。『吉成菫 29歳』とある。住所は区内だが、最寄駅は3駅隣のようだ。
紙は楠瀬に渡し、彼女がそれを見て利益相反にならないかを検索する。相談者がこれまでの依頼者と利害が対立することがわかった場合、依頼を受けることはもちろんできないし、相談も直ちに切り上げなければならない。
「はい」と楠瀬、どうやら問題ないらしい。
「吉成さん、今日はなぜあそこに?」
「はい。職場に向かう途中だったんですけど、電車の窓から川が見えて、それで。前にこのあたりに出て来てる地元の友人がいたので、知っている場所でしたし」
「そうですか。ではいろいろお聞きしますので」
「あ、その前に、ハサンしたら借金がなくなるってどういう?」
破産とは、支払能力を欠くために、債務のうち弁済期にあるものにつき、一般的かつ継続的に弁済することができない状態にある債務者について、債務者の財産を金銭に換えて債権者に配当する手続、といったものなのだが、一般的にはそのあとに免責許可決定といって、債務を免れるための許可を裁判所に出してもらうところまでをセットで示すことが多い。
簡単にいうと、裁判所にお願いして、借金が多過ぎて返せないので今ある財産は渡すからそれで勘弁してもらう、といったところだ。
「はい。一時的に払えないとかではなくてですね、返せそうもないくらいに債務を、借金のことですね、抱えてしまった場合、裁判所にお願いして認めてもらえると返さなくてもよくなるようにしてもらえる制度があるんですよ。それを一般的に自己破産って言うんです」
「簡単にできるんですか?」
「うーん、貸した側からすると借金が返ってこなくなっちゃいますからね。そう簡単ってわけじゃないですが、そこまでではないですよ。財産状況、お金とか資産に関する状況をきちんと説明すれば、ですね。ご自身でやることもできなくはないですが、それなりに作業量ありますし、ノウハウがないと大変ですから、弁護士が、っていっても私しかいませんが、吉成さんの代理人として、手続きを進めさせていただければと思います」
「その、借りたところの会社とかは納得するんですかね?それに何だか申し訳ない気も…」
「納得できないこともあるかもしれないですが、法律で決まってますし。向こうも破産っていう制度があることは当然知ってますから、ある程度は織り込み済みです。
それに、いつ返ってくるかわからないくらいなら破産してくれた方が手間がかからないし、税金の観点からもその方がいいっていうところもありますから。全然気にしなくていいですよ」
「そうですか。わかりました」
債権者は、返せそうな債務者には厳しいが、破産することになると急に興味なくしがちである。こちらとしてはありがたいのだが、担当部署が変わることもあるし、結局のところ会社員なのだから致し方ないのだろう。




