3.しゅんしゅんを見に行ったら
「『はやぶさ』と『こまち』、つながって来るよ」
ママと一緒になって、あっくんに呼びかける。
でも、あっくんはその間にも次々やってくる車両が気になるみたい。新幹線のホームに足をつけていても、通勤電車や特急電車が遠くに見えている。
「あっくんに今話しても、他の電車が気になっちゃうよ。新幹線がホームに入ってきてから、声をかけよう」
わたしとママは、小さく笑って計画を練る。
そうして、ついに。ホームのずっと先の方で、東北新幹線の緑色の車体が光った。
「あっくん、ほら」
「あっくん、来たよ」
流線型をした緑色の車両がどんどん迫ってくる。走行音が響いて、だんだん大きくなってくる。
ママに続いてわたしも声をかけたけれど、あっくんはこっちを向かない。反対側のホームを見上げている。
「あっくん?」
大きめな声で呼びかけた。それなのに。
「……んじでんしゃ」
「え?」
「何て?」
あっくんの言葉が聞き取れない。
新幹線がそろそろホームに入ってくる。それなのに。
「おれんじでんしゃ」
あっくんは駆けだした。
まさかの出来事に、わたしもママも一瞬、呆然として固まってしまった。動かないはずのあっくんが。あまりしゃべらないはずのあっくんが。
あっくんの指さす先は、遠く上の方。がたごとんという走行音がして、オレンジ色の車両が動き出す。
中央線は、他の路線より高いところにホームがあるんだと初めて知った。とにかく目の前で、いつもはママにくっついているあっくんが走っていく。わたしたちは追いかける。
やがて、中央線は東京駅から走り去って、だんだん小さくなっていった。新幹線は、まだ止まっている。まだ大丈夫。
何とかあっくんを振り向かせた。きらきらと輝く瞳と出会う。
その視界に『はやぶさ』と『こまち』の連結を入れることができた。無事に。
緑色の車両と赤い車両が、連結器でつながっていた。つやつやと光る長い流線型の車体は不思議な感じがして、わたしも何だか楽しくなった。
だけど、まさかあっくんが中央線を見て、勝手にしゃべって走り出すなんて。
「考えてもみなかったわ」
ママもすごく驚いた顔をして、あっくんを抱っこした。
「何で中央線なの。新幹線じゃなくて」
あっくんの関心は絶対に新幹線だと思っていたので、思わずママに問いかけた。
だけど、あっくんはわたしたちの疑問の言葉も耳に入っていないようで。
「おれんじでんしゃ」
今度は反対方面の、東京駅に入ってきた中央線を指さしていた。
オレンジ色の車両が長く尾を引いて、高い位置にあるホームへすべり込んでいく。
「ほら、いつも踏切でオレンジの電車を見ているじゃない。ちょっと違う車両だけど、同じ色だから」
「ああ、そうか」
そういえば、ママの話では、普通は「でんしゃ」というのに、踏切を走る電車だけは「おれんじでんしゃ」と特別に呼んでいた。
そのあともたくさんの新幹線が通って、そのたびにあっくんは大きな声を出して、はしゃいでいた。
でも。
やっぱり目当ての新幹線の前に、あっくんを引き込んだのが普通の電車だったことに納得できない気がする。
「子どもなんて、そんなものよ」
笑って話すママがすごく意外だった。いつも心配そうな表情なのに、ほわりとして朗らかな感じがした。
そのあと、三人で東京駅のお土産物店を巡った。
あっくんが疲れてしまって、ぐずぐす言い始めたので、じっくり見ることはできなかったけど。新幹線の小さなおもちゃを買って、何とか機嫌を直してもらう。
わたしとママはお店のたくさんの品物に、どれを買うべきかすっかり迷ってしまった。ここらしいお土産ということで、結局定番のものを選んで帰ることになった。
「子ども連れなんて、そんなものよ」
ママの言葉はひどく実感できて、わたしの心にも響いたのだった。
「何だか、わざとらしいなあ」
パパは東京駅の形をしたお菓子を手に取りながらほほえんだ。
東京駅の丸の内駅舎は赤レンガでできた長い建物だけど、お菓子はその中心を小さくかたどったビスケット。バターとカカオ味で、さくさくとした素朴な感触がパパにも好評だった。
もうひとつ買ったのは『東京ばな奈』だった。お店を見つけて、あわてて買い足したもの。
それでも、袋を開けるとバナナの風味が漂ってきて、ふわふわのスポンジに甘いカスタードクリームがおいしかった。
東京駅のお土産は、選ぶ時間はほとんどなかったものの、どちらも満足だった。
「あっくんを連れて見に行くの、本当に大変だったんだからね。戦利品よ。よく味わって食べてね」
ママは、わたしと二人で計画して、あっくんを東京駅に連れていったことをパパに強調した。
「あっくん、新幹線を目の前にして、すごく喜んでいたんだよ」
わたしもママと一緒に自慢げに話した。
だけど、中央線を見つけてあっくんが走っていってしまった話には、パパも笑っていた。もしかしたら、それが一番のお土産話だったかもしれない。
あっくんは、買ってもらった新幹線がとても気に入っていた。熟れたトマトのような真っ赤な色がつややかな『こまち』だ。
「しゅんしゅん、しゅーん」
そう言いながら、引き戸の下の溝を走らせている。2本の溝がちょうど線路みたい。
すると、ママがつぶやいた。
「もしかして、二語文なのかな……」
今まで単語で「しゅんしゅん」と「しゅーん」を言っていたから、微妙かも。
結論はそうなったけど、そのあと一か月くらいのうちに、あっくんは「ママ みて」とか「でんしゃ きた」とか言えるようになった。それに、いつの間にか前より上手に走れるようになっていた。
保健師さんにその話をしたら、ママはこう言われた。
「今までためていた言葉が出てきたんでしょう。運動能力もきっとそうですよ。ちょうど表に出てくる時期になったんでしょうね」
ママもわたしも、その言葉にはちょっぴり不満だった。
成長のゆっくりなあっくんが少し伸びたというのは、今までの結果かもしれない。たらいにいっぱいになっていた水が、あふれるように出てきた、という感じらしい。
けれど、あのとき新幹線を見に行ったのがよかったから、って言ってほしかったような。
とにかく、意外なことはいろいろあったけど、あっくんの好きなもののために行動して成果を出した、という点でわたしとママの意見は一致した。
水をいっぱいにたたえたたらいに、ぽつんと落ちて、あふれるきっかけとなった決め手のひと滴、なんじゃないかなって。
「別に発達の問題が全部解決したわけじゃないけど、これでいいのかなって思えたわ」
ママがほっとした様子でもらした言葉に、わたしも安心できた。
いつも忙しくて焦っているママが、わたしの知っていたママに少し戻ったような気がした。
「ゆうちゃんも、東京駅へ行くのにすごく手伝ってくれて本当に助かったわ。これからも機会があったらよろしくね。気分転換も大事よ。今度はゆうちゃんの行きたいところに行こうか。どこがいい?」
そう尋ねられて、気分がよくなった。
わたしのことも頼ってくれたんだなって思える。
新幹線を見に行ったときのことを思い返す。
あっくんの瞳がきらきらしていたけれど、そのときのママの笑顔もきらきらして見えた。
そこにいるママは、わたしが幼いときにいたママと一緒だった。わたしに向けてくれた表情や大らかな気持ちが同じように伝わってきて。
わたしの知っているママは、いなくなってしまったわけではないんだ。
そう思ったら、何だか胸がほわっと温かくなって心地よい。
「どこがいいかな。考えとくね」
そう話しながらも、わたしはまたしゅんしゅんを見に行くのもいいなあと思っていた。





