1.わたしとママとあっくんと
わたしが小学二年生のとき、弟が生まれた。
ママは赤ちゃんのお世話ですごく忙しくなった。それ以来、時々おばあちゃんが家にやってきて、手伝いをしている。
ママもパパもおばあちゃんもみんな「ゆうちゃんは大丈夫?」ってわたしに何度も聞いてくるようになった。周りの雰囲気から「うん、大丈夫」という答えを期待しているのは何となく分かったので、そう答えている。
本当は、ちょっとした困ったこととか、ほしいものとか、してもらいたいこととか、いろいろあったのだけど。
ママが大変そうで、わたしの問題など、どれも何でもないようにしか思えなかったから。
「分かるよ、わたしも五歳のとき弟が生まれたからね。ママがわたしだけのママじゃなくなっちゃうんだよね。寂しいよね」
友だちのひなちゃんが同情してくれた。だけど、寂しいのとは何か違う。わたしがひなちゃんよりもっと大きくなっていたせいかもしれない。
そのときわたしが感じていたのは、ママはこれまでのママじゃなくなったんだ、ということだった。
弟のあっくんは、今年九月に三歳の誕生日を迎えた。わたしは五年生になっているけど、ママはやっぱり余裕がない。忙しそう。三年前までとは違ったままだ。
「あっくん、なかなか言葉が出てこないのよね。歩き始めるのも遅かったし、今もあまりうまく走れないし」
あっくんは、赤ちゃんのときから発達が遅くて、ママは心配ばかりしている。保健師さんや発達の専門家の先生のところへ相談に行っているものの、帰ってくるといつも機嫌が悪い。
「全くもう、あれもできない、ここもまだだとか、人の子を何だと思ってるのかしら。あっくんのいいところは何も分かってないじゃない」
ママはぶつぶつと文句ばかり。
それでも、気がかりなことがあって、また相談に行く。そうして、がっかりして戻ってくる。
最近、ママはあっくんの言葉数を増やそうと、たくさん読み聞かせをしたり、よく話しかけたりして一生懸命だった。でも。
「たくさんやりすぎると、かえってお子さんは混乱します。もっとゆったり過ごしましょう」
そんなアドバイスをされて、落ち込んでいた。
そうでなくても、ママはあっくんが来年の四月から幼稚園に入れなくて、しょんぼりしている。近所のお友だちがみんなそろって入園するのに、あっくんだけ違ってしまったから。
「言葉で自分の要求をうまく伝えられないのだから、幼稚園はまだ無理でしょう。それよりこちらに」
保健師さんに言われて、市でやっている発達のゆっくりな子のための教室を紹介された。今はそこに週二回通っていて、来年度もその予定とのこと。
「発達の教室に連れていくのもひと苦労だし、他の日だって遊びに連れていかなきゃいけないものね……」
四月から幼稚園に通えないので、ママはまだまだあっくんのお世話で一日大変だという。息抜きできなくて疲れる、とよくぼやいている。
「少しぐらいゆっくりな子でもいいじゃないか。みんなでのんびりやっていこうよ」
愚痴を聞いたパパが、なだめるように話す。だけど、ママはむっつりとした顔をした。
「みんながどんどん伸びていく時期なのに、あっくんは、まだ二語文も出てこないのよ」
あっくんのしゃべる言葉は、「ママ」「だっこ」「でんしゃ」といった自分の興味のある単語だけ。「わんわん いる」というような、二語文は話せない。
ママはそれですごく焦っているみたいだった。
「それなら、十一月下旬の三連休は息抜きに出かけようよ。ママが気分転換に買い物をできそうなところとか」
パパの提案のおかげで、ママは楽しみができた。お出かけ先も決まって、少し機嫌がよくなったみたい。ところが、十月も半ばになると、パパはすごく言いづらそうに打ち明けた。
「ごめんね。仕事入っちゃいそうなんだ」
「そうなの。しょうがないね」
ママは軽く口にしたけど、パパとしばらく目を合わせなかった。そうして、パパがいないときに長いため息をついた。
「あっくんと一緒にいても、毎日絵本を読み聞かせて、教室に通って、踏切に散歩に行くくらい。これでいいのかな」
ママはまた焦り始めている。それでいながら、わたしにはこう尋ねる。
「ゆうちゃんは大丈夫? 何か心配なこととか、困っていることとかない?」
気を遣われても、ママの様子を見ると。
「別に何もないよ。大丈夫」
そう答えるしかない。三年間ずっとだ。
ずっと変わりないママの様子に、胸がもやもやしていた。
ママは「わたしだけのママ」じゃなくなっただけじゃない。
「わたしの知っているママ」でさえなくなったような気がしている。
「あーあ。今日もあの踏切に行くしかないかぁ」
ママは今朝もテンションが低い。
あの踏切、というのは、家の近くにあって、オレンジ色のラインが入った電車が通る踏切だ。あっくんは鉄道が大好きで、この踏切に立ち寄ると、何十分も待っているとか。走ってきた電車を、夢中になってながめているという。
「かといって、踏切ばかりでもねぇ。あまり変化のない環境でも成長しないっていうし。新しい絵本もまた買おうと思うの。ネットで購入するから、ゆうちゃんも何か好きな本、一緒に頼むよ。どう?」
ママは、スマホを手にしながら尋ねた。好きな本を買っていいと言われると嬉しい。
「うん。ほしいのあるから、一緒に買って」
「それじゃ、あっくんの絵本を選んだら買うね」
「あっくんの絵本って、また電車?」
そう聞いてみたら、ママはこくりとうなずいた。
「やっぱり電車が出てくるお話だと、あっくんは興味を持つのよ」
「それじゃ、どこか他の、電車の見えるところに出かければ?」
何となく言ってみる。
「そうねぇ。せっかくだから、連休の間にちょっと遠くへ行ってみようか。どこの路線がいいのかな。いつもと少し違うのを見たほうがいいよね」
ママの言葉に、わたしはひらめいた。
「だったら、しゅんしゅんじゃない?」





