第1話 無能と呼ばれた娘、婚約破棄の宣告
玉座の間に呼び出されたときから、胸の奥で嫌な予感がしていた。
夏の日差しは高窓から差し込み、赤い絨毯を照らしている。けれど私の足取りは重く、前に進むたびに背中に突き刺さる視線が鋭さを増していった。
私は公爵家の次女――セレスティア・アルバート。幼いころから「魔力がない無能」と蔑まれてきた娘だ。
王太子アルフレッド殿下との婚約は、家の権威を守るための政略に過ぎない。だが、それすらも今日で終わりを告げられることを、私は知っていた。
「侯爵令嬢セレスティア。ここに、そなたとの婚約を破棄する」
王太子の声は冷たく、玉座の間に集まった廷臣たちはどよめいた。
その隣には、殿下の“新しい寵愛”と噂される侯爵令嬢イザベラが立っている。艶やかな金髪を波打たせ、勝者の笑みを浮かべていた。
「……理由をお聞かせ願えますか」
私はかすかに震える声を抑え、礼を保ちながら問う。
「理由? 簡単だ。お前は“無能”だからだ」
アルフレッド殿下は軽蔑を隠さずに言った。
「魔力を持たぬ令嬢に、王太子妃の務めなど果たせるものか。政務に役立たず、戦乱にあれば足手まとい。王妃の座には、イザベラのように才知と魔力を備えた者がふさわしい」
イザベラは芝居がかった涙を浮かべ、殿下に寄り添った。
「殿下……私のためにそこまで……」
廷臣たちは一斉に頷き、冷笑を隠そうともしない。
「父上、母上も了承済みだ。アルバート公爵家からも異論はない」
胸の奥がひやりと凍った。
父と母が――?
私が無能であることを、家族までもが盾にして切り捨てるのか。
「セレスティア。今すぐ王宮を去れ。二度と戻るな」
殿下の声は決定を告げる鐘のように響いた。
私は膝を折り、静かに礼をした。
「……承知いたしました」
玉座の間を後にするとき、背中に浴びせられる冷笑と囁き声が刃のように突き刺さる。
「無能がやっと消える」
「殿下もようやく正しい選択をなさった」
誰も、私の名を呼ばなかった。
◆
屋敷に戻ると、父は一瞥しただけで言った。
「お前の部屋は片付けさせた。持ち出してよいのは衣服とわずかな金だけだ」
母は冷たい目を向けた。
「縁談の道具として役立たなかったのだから当然です。……今後は、どうぞご自由に」
自由――それは甘美な言葉のはずなのに、今の私にはただの追放宣告にしか聞こえなかった。
私は衣服と少しの薬草の知識が詰まった手帳、そして古びた裁縫道具だけを小さな鞄に詰め込んだ。
侍女たちは目を合わせなかった。
馬車を手配してくれたのは、唯一私に同情を寄せてくれた下女のアンナだけだった。
「……お嬢様、どうかご無事で」
「ありがとう、アンナ。あなたも幸せに」
揺れる馬車の窓から、王都の景色が遠ざかっていく。石畳の街並み、煌びやかな商店、噂好きの人々。
私はこの場所に居場所を持てなかった。
――けれど、生きなければならない。
◆
三日後。
馬車はとうに底をつき、私は荷を背負って荒れた街道を歩いていた。
水筒の中身はほとんど尽き、足は土で汚れ、胃の奥に飢えの痛みが広がる。
ようやく見えたのは、森の縁に張り付くように立つ小さな村だった。
藁葺き屋根と木造の家々、畑で働く人々の姿。
だが、空気にはどこか重いものが漂っていた。
村の入口で足がもつれ、私はそのまま地面に倒れ込んだ。
遠くで誰かが叫ぶ声がする。
「おい! 人が倒れてるぞ!」
霞む視界に飛び込んできたのは、褐色に日焼けした青年の顔。
「大丈夫か! ……おい、すぐに水を!」
口元に運ばれた水は生ぬるく、けれどこの上なく甘かった。
必死に喉を動かして飲み下す。
「……ありがとう……ございます……」
「礼なんかいい。だが、ここで寝てたら危ないぞ。村に運ぶからな」
意識が闇に沈む直前、私は思った。
――ここから、何かが始まるのだろうか。
◆
次に目を覚ましたとき、私は木の匂いがする小さな部屋にいた。
粗末だが清潔な寝台。傍らには皿に盛られた温かいスープ。
そして扉の向こうから、子供の泣き声が聞こえた。
高熱にうなされる幼子を抱いた母親の姿。
「誰か……! この子を助けて……!」
村人たちは困り顔で首を振るばかり。
医師も薬も、この辺境にはないらしい。
私はふらつきながら立ち上がり、子供の元に近づいた。
「……少し、診てもいいですか」
「あなたは……?」
「ただの旅人です。でも、少しだけ心得が」
子供の額に手を置く。燃えるような熱。
私は思わず、昔から癖のようにしてきた仕草を繰り返した。
掌から温かな感覚が流れ込み、子供の苦しげな呼吸がほんの少しだけ落ち着く。
周囲が息を呑む。
「い、いま……何をした?」
「……わかりません。ただ、子供の頃からこうして人に触れると……少し楽になるみたいで」
母親が涙をこぼし、子供を抱きしめた。
「……ありがとう。本当に、ありがとう……!」
村人たちの視線が、一斉に私へと集まる。
その瞳の色は、王都で浴びせられた軽蔑の砂ではなかった。
――驚きと、期待と、救いを求める光。
私はその瞬間、悟った。
追放され、無能と呼ばれた私にしかできないことが、ここにあるのだと。