8話『映画鑑賞』
2025年7月3日
「南里、今日は外に出かけよう」
リビングの座布団の上で正座しながら小説を読んでいる南里に言った。だが、南里はリビングに立って南里を見下ろす僕の方を見向きもしないで小説を読み続けた。
聞こえてないはずはなかった。僕は集中していても絶対に聞こえる大きな声で言ったし、はっきりと発音したから。
「おーい、南里。外に行くぞ、聞こえてるか?」
僕が何度か南里に問いかけると、南里はダルそうな顔をして小説を開いたまま、僕を見上げた。
「うるさいですね、何も返事しないのなら聞こえてないに決まってるじゃないですか」
うるさい、と言っている時点で聞こえていると思うのだが、と僕が考えていると、南里は呆れ顔でため息を吐いた。
「……外に行って何をするのか具体的に言ってください」
「散歩をするんだよ、この辺で」
「……?どうしてですか?」
「僕は運動不足なんだよ、かなり」
僕は運動が足りていない。いつも大学に行くときと、笠川に無理外に引っ張り出されたときくらいしか外を歩かなかったから。いや、笠川と外に出かけるときは、基本的に車か電車を使ってほとんど歩くことはなかったから、大学に行くときくらいしか僕は歩かなかった。
今後、僕が不健康で運動不足だと、外に出かけてもすぐに疲れて、南里と様々な場所を回れなくなってしまう。そうしたら、南里に地球を好きになってもらう計画が難しくなる。
「……はあ、運動不足ですか。年寄りになるまでは運動不足でもなかなか死にませんよ」
南里は悪態をついて、小説を再び開いた。どうやら南里は散歩に行くつもりがないようだった。
「ずっと小説ばっかり読んで暇だろ?」
「暇ですけど、あなたと一緒に歩くよりはマシですね」
南里は仏頂面で言った。だけど僕はめげずに何度も何度も南里を外へ誘った。もう何回目かもわからない僕の誘いに南里はしびれを切らしたのか、小説を閉じて立ち上がり無表情のまま言った
「……健康のためですからね、しかたありません」
※※※
「……やっぱり外は暑いな」
アパートの近所を僕と南里は歩いていた。ただ、横並びで歩いているわけではなく、僕が前を歩き、南里が僕の三歩程度後ろを歩いていた。僕が顔から流れた汗を服の袖で拭きながら言うと、
「そうですか」
僕の後方からやる気のない、抑揚のない、涼しげな声が聞こえた。もちろん、南里の声だ。
「でも、程よい暑さを感じることができるのは地球のいいところだ。他の星では寒すぎたり、暑すぎたりするからな」
かなりあからさまだったが、僕は地球のいいところを南里にアピールした。僕のアピールに南里は、
「そうですか」
やはり興味を示さなかった。無理やり外へ連れ出したのは失敗だったかもしれない、そう思っていると、ずっと僕の後ろに聞こえていたコツン、コツンという軽い足音が聞こえなくなった。
僕が振り返ると、南里はその場に立ち止まって、近くにある横断歩道をわたってすぐ近くのコンビニエンスストアの方を眺めていた。
「コンビニで、何か買いたいものでもあるのか?」
南里の方へ歩いていくと、南里はコンビニエンスストアの外に立っているソフトクリームを宣伝しているのぼり旗を指差した。
「ソフトクリームを買いたいのか?」
僕が訊くと南里は首を横に振って僕を見た。
「お金を部屋に置いてきてしまったので大丈夫です」
僕はその言葉を聞いて、自分のズボンのポケットの中を漁った。元々ただ散歩するだけのつもりだったから、財布は入っていないと思っていたけど、無意識のうちに持ってきていたようで、ポケットの中に年季の入った財布が入っていた。
「僕が買うよ」
その言葉に南里は珍しく少し戸惑ったような顔をして、「……え、はい。ありがとうございます」と言った。
「アパートに帰ったらお金を払いますので、ソフトクリームがいくらだったか教えてください」
「いやいや、いいよ、そんな。大して高いものでもないし」
僕がそう言うと、南里は何か言いたげな顔をしたが、すぐにいつもの無愛想な表情になって、「……なら、行きましょうか」と言って横断歩道の方に歩き始めた。
※※※
「今日はいい運動になった。ありがとう」
僕はシャワーから出て、先にシャワーを浴び、リビングの座布団の上に座っている南里に言った。南里ははい、と簡潔に答えてテーブルの方を見た。
「夕飯は既に作ってあるので、食べましょうか」
「……僕を待っててくれたのか?」
南里は僕の方を見ずに、テーブルに置いてあった箸を持って言った。
「先ほどちょうど作り終わっただけなのでたまたまです」
皿から湯気が出ていたので、その言葉に偽りはなさそうだった。そして、南里はいただきます、と言って僕が席に向かう前に、夕飯を食べ始めた。
※※※
2025年7月6日
「南里、今日は映画を見に行こう」
南里に作ってもらった朝食を南里と向き合って食べながら僕は言った。
「……映画?」
「そうだ、映画だ。南里は映画を見たことあるか?」
バカにしないでください、と言って南里は鋭い目つきで僕を見た。
「映画ぐらい見たことありますよ、私だって。まあ、あなたとなんて行きたくありませんが」
ちょっと意外だった。いやバカにしている訳ではないのだが、僕には、冷淡で、冷ややかで、無愛想な南里が映画館で映画という娯楽を見ている様子が全然想像出来なかった。
そしてあなたとなんて行きたくありません、と言われて僕は傷ついた。南里は十八歳で僕は二十歳、その歳の差は二しかなく、年齢が近い女の子にきつく言われるといたたまれない気持ちになる。
「というか、あなたこそ映画を見たことがあるんですか?」
「僕だって流石に映画くらい見た事がある」
自分から誘ったことはなかったが、僕は大学生になってから笠川と何度が映画を見に行ったことがある。僕は一人で映画を見るのが恥ずかしい行為だと思っていたから、友達がゼロの僕は映画は笠川と見るのが初めてだった。そのとき映画を見るのが初めてだ、と笠川に言ったらすごくバカにされた。あいつはそういうやつだった。
笠川は簡単に泣いたりするような人間じゃなかったけれど、初めて僕と映画を見たときに、あいつが映画に感動して尋常じゃない量の涙を流していたときはびっくりした。
「南里は、映画を見てもケロッとしてて感動とかしなそうだよなぁ」
思わず心の声が漏れてしまった。
南里は無表情で机をバンッ!と強く叩いて立ち上がり僕に言い放つ。
「人をロボットみたいな扱いしないでください」
その顔は無表情であったけれど、僕の失礼な物言いが気に入らなかったのか、どこか怒っているようにも見えた。
「じゃあ映画を見に行って人間らしいところを見せてくれるか?」
「ええ、もちろんですよ。あなたに私の人間らしさを見せつけてあげますよ」
意外と、南里はチョロいのかもしれない、そう僕は思った。
映画館はアパートから徒歩十五分くらいの場所にある。車を出してもいいかな、というくらいの距離だったものの、映画館の近くの駐車場はよく混むため、徒歩で向かうことにした。
「なんで後ろを歩くんだ?」
僕は後ろを振り返り、 二歩後ろを歩く南里に言った。
僕と南里は数センチ程度しか身長差がないが、それでも僕のほうが歩く速度は早い。そのため南里の歩く速度に合わせていたが、それでも南里は僕の二歩後ろを歩き続け、僕が歩くスピードを落としたら、南里も歩くスピードを落とす、という様子はまさにいたちごっこだった。
南里は感情が読み取れない無表情で言った。
「わざわざ私はあなたの隣を歩かなければいけないのですか?」
「そんなわけじゃないけど……すごく仲が悪いみたいじゃないか」
南里ははあ、とため息を吐いた。
「ならいいじゃないですか、私はあなたと仲良く歩くつもりはありません」
南里とは仲良くなった、とまではいかないがある程度は親しくなったと思っていた。けれどそれは僕の思い違いだったようで、僕と南里の物理的な距離だけでなく、心の距離も離れていた。
僕は諦めて、再び歩き始めた。
映画館に着いて、まだ後ろにいる南里が僕に話しかけた。
「……今日は、なんの映画を見るんですか?」
先程まで険悪ムードだったが、南里が何事も無かったように僕に話しかけてくれて、内心ほっとした。南里の機嫌を損ねてしまったら、スイッチのボタンを押されてしまうかもしれないから。
僕は映画館の壁に貼ってある三つのポスターを指さして言った。
「ゾンビに襲われるホラー映画、爆弾の爆破を警察が止めるドキュメンタリー映画、ヒーローがヴィランと戦うアクション映画。上映時間的にこのどれかがいいと思ってる」
他にも映画はいくつかあったけど、英語の映画や子供向けの映画、知らないアニメの映画だったためこの三つに候補をしぼった。
南里は「そうですね……」と言って俯いた。
「ホラー映画は……あなたじゃきっと見れませんし……」
「見れる、バカにするな」
確かに僕はホラーなどの怖い系は苦手だ。だけど見れないという程苦手ではない。
「ドキュメンタリー映画は内容的にあなたが脳裏にチラつきますし、アクション映画は見てて酔いますね」
それを本気で言っているのであれば、南里は僕と映画なんて見たくない、それか僕の判断に難癖をつけたいだけだろう。
「じゃあどんな映画が見たいんだよ」
「ええっと……アレ、ですかね」
※※※
映画が上映される十分前に僕と南里は席に着いた。南里は僕と隣の席になることを嫌がっていたが、狭いシアターだったため、ほとんどの席には人が座っていてシアター内右上端の二つしか席が空いておらず、南里は渋々、嫌がりながらも僕の隣に座ることになった。
「本当にこの映画、面白いのか?」
「見たことはありませんが、面白いと思いますよ。ですが学が無いあなたは字幕をしっかり見るべきです」
僕たちが見ることにした映画は海外の映画で吹き替え版がないため常に英語で物語が進む。そのため僕はさっき映画の候補としてあげなかった。だが南里はこの映画のあらすじが気に入ったようで、これにします、と言って僕の話を聞かなかった。
そのあらすじというのは、
「病気を患った子猫が飼い主の少年と共に病気と戦う、なんともまあ感動的なあらすじじゃないですか」
南里が真顔で、抑揚のない声で言うので本当にそう思っているようには見えなかった。それでもあらすじは面白いな、と僕は思ったので映画が上映されるのを楽しみに待った。
上映が始まると僕も南里も一言も話さず、映画に集中した。
映画が終盤に差し掛かり、病気を患った子猫が病気を治し、少年が子猫を抱きしめる感動シーンがやってきたところで、僕は冷淡でクール、表情を崩すことの無い南里はどのような顔をして映画を見ているのか気になり、バレないように横目で南里を見た。
南里は泣いていた。正確に言うと、目に涙を浮かべてそれを必死に堪えているようだった。いつも仏頂面で、感情をあまりあらわにしない南里が目に涙を浮かべていて、南里も人間なんだな、と僕は驚いた。
映画が終わり、電気が点灯し、シアターにいた人たちが立ち上がってシアターから出ていき始めた頃、僕は隣に座る南里に話しかけた。
「感動するシーンもあったし、面白かったよ」
「……私の言った通りでしょう?」
南里の目にはもう涙はなかった。でも南里の目は赤く腫れていて、相当泣いたことが予想出来た。
僕が南里の目を見ているのに気がついたのか、南里は両目を右腕で隠して言った。
「私はっ!感動もしてませんし、泣いてもいませんけどねっ?」
いつもはクールで落ち着いている南里が泣いていない、と焦りながら見栄を張っているのを見て、僕はちょっとだけ、ほんの少しだけ、南里が可愛いと思った。がこの可愛いというのは恋愛的なアレではなく、大人が子供を可愛がるアレだ。大人が子供を可愛がって、それを恋愛だなんだという人間はいないだろう。つまりはそういう事だ。
「どうだ?映画はやっぱり面白いだろ?地球を破壊するよりも、地球で映画を見るほうが面白くないか?」
南里は首を横に振って、「いいえ、地球を破壊するほうが面白いです」と言った。
映画は南里に地球を好きになってもらう作戦としては失敗だった。
映画館を出て僕たちは夏特有のの爽やかな風を浴びながら、長時間座っていて疲れた身体を伸ばした。
「もう昼だな……この後はどうする?」
南里は目を瞑り両腕を天高く伸ばして伸びをした。
「んん……そうですね、昼食をアパートに帰ってから作るのは時間的にも大変なのでどこかのお店でご飯を食べましょうか」
そう言われて僕はスマートフォンを見ると時刻は十三時だった。確かにここから家に帰って昼食を作るとすると時間がかかる。
「じゃあ、ここら辺で美味しそうなお店を調べるか」
僕がポケットから取りだしたスマートフォンを使って、飲食店を調べていると、南里は後ろから僕のスマートフォンを覗いてきた。
「やっぱりスマートフォンって便利なんですね」
「……?南里はもってないのか?」
「はい、実は持ってないんですよ」
今どきの子供の大半はスマートフォンを持っている、僕はそう思っていたのでスマートフォンを持っていない南里に驚いた。思い返してみると、南里がスマートフォンを使っていたことは一度もなく、暇なときは小説を読むか僕に悪態をついていた。
スマートフォンは生活に欠かせない、とまではいかないが、スマートフォンが無いと外で連絡が取れなかったり、思い出を残せなかったりして不便ではないか、僕はそう言おうとして言い淀んだ。
南里は両親と祖母が亡くなってから一人暮らしをしてきた、高校にも南里は行っていない。だから人と連絡を取る必要性も、思い出を残す機会もなかったのではないか。
僕はそれを南里に言わせたくなかった。南里はいつも僕に対して冷たいし、地球を破壊すると言っている自己中心的な人間だけれど、そんな悲しいことを言わせたくなかった。だから言い淀んだ。だから、
「じゃあ、昼ごはんを食べたら、スマートフォンを契約しに行こう」
「……は?」