8-3 馬鹿
「実は、あの動画をアップロードしたのは私たちバンドのメンバーなんですよ」
雑に封筒を半分に折り、スカートのポケットにしまいながら木戸愛華は言う。
「ちょっと注目されればいいかなーって、そんな軽い気持ちでした。でも思ってた以上に好評で嬉しかったです。私、なぜかクラスで浮いてたんですけど、あの動画がきっかけで話し掛けてくれる子も多くて。バンドのメンバーも多分私のこと苦手なんですけど、お互いがお互いを利用して上手く活動してるって感じで」
嬉しそうにあの事件のことを語る彼女を目の前に、視界が揺れた。
「最悪、退学になるかもしれないとは考えなかったのか……」
喉がひどく乾いていた。
足元に置いた紙袋の中の水を早く飲んでしまいたかった。
「この学校は親に受けろって言われて受験したんですよ。受けたら受かっちゃって。通学に時間が掛かるし、本当は近所の公立でよかったのになあ。だから退学になって他の学校に行くことになったとしても別にいいかなって感じで。あっ、でも最近は友達になれそうな子が何人もできたから、やっぱりやめたくないですね。今日も同じクラスの子とカラオケ行くんです!」
彼女は無邪気に笑う。嫌味なくらいに純粋な表情だった。体格もまだ小さくて、制服を着ていなければ小学生に見えなくもない。
「馬鹿だな、きみは」
馬鹿と言われ、彼女はむっと口を閉じる。
「なにも考えていないんだな。お嬢様気取りで、苦労せずぬくぬくと育ってきたんだろう。他人から金をむしり取ってよく笑っていられるな」
一体、馬鹿はどちらか。後先のことを考えずに喋っているのはどちらか。馬鹿にしている相手に情けを乞いて水を買ったくせに。
しかし堰を切ったように幼稚な負け惜しみが口から洩れていく。
「おまえみたいなやつを見ていると反吐が出そうだ」
「いい加減なこと言わないでください。会長は私のこと、なにも知らないじゃないですか」
「知ってるよ。きみのお母さんが僕の家に来て水を売るついでによく自慢していたから。幼少期からとにかく記憶力がよかったんだってね。英単語も漢字もすぐに覚えたそうじゃないか。努力も苦労もせず育ったやつに、他人の気持ちなんてわかるわけないだろうな」
こちらを見返す彼女の顔からはいつの間にかあどけなさが消え去っていた。
「…………そういうのを、何も知らないって言うんですよ」
昼休みが終わるからと言って、彼女は去っていった。
チャイムは聞こえたが、教室には戻れなかった。優等生として通っているのだ。教師もクラスメイトも心配しているだろう。
スマホを取り出す。
自分は今、冷静な状態ではない。大きな行動を起こすべきではない。
頭ではわかっている。
それなのにこの衝動を抑えきれなかった。
動画サイトの投稿用のページにアクセスする。ゲリラライブの動画を選択し、タイトル欄をタップした。
タイトルは「S学園の文化祭! 詐欺師の娘が熱唱!」。
動画はたちまち話題に上り、木戸愛華はそのうち学校へ来なくなったと聞いた。
あのときのことを悔やんでいる。退学した彼女のことが気掛かりだったからではない。水が手に入らなくなったからだ。
星盟学園で彼女と最後に会話した日からずっと、ひりつくような感覚が喉に残っていた。水をいくら飲んでもその痛みが消えることは無かった。
昇山高校で再会したときには驚いた。「木戸愛華が昇山高校にいる」と一学年下の三村が興奮気味に教えてきたのだ。彼女も向上水の被害者で、愛華と母親が家によく訪れていたそうだ。
木戸愛華は髪色も派手に変えまた心機一転、交友関係を構築するつもりだったのだろう。そう思って昇山高校に入学し直したら生徒会長として自分が挨拶していたのだ。心中を察すれば不憫ではあるが、利用させてもらうしかなかった。
昇山高校で親のことを言いふらされたくなければまた水を売るように。そう脅しまた向上水を手に入れることができた。
しかし。
「やってくれたな、三村……」
有志発表のオーディションの結果を参加者に通知したのは三村だ。木戸愛華と佐藤蒼紀だけ満場一致で不合格としたはずだった。
それを三村が独断で書き換えて渡してしまった。木戸愛華をより懐柔させられると考えたらしい。
――私がオーディションに合格したのって、生徒会の差し金ですよね?
有志発表の通知を受け取った木戸愛華は顔面蒼白になって訴えかけてきた。
――会長の在学中には水をちゃんとお渡します。でも、それ以降は誰も私に関わらせないでください。
――そうしてくれなければ、生徒会が行事の運営に私情を挟んでるって、先生たちに相談しますけど!
「馬鹿な奴」
あの動画のアドレスを全生徒に向け発信したのも三村だ。彼女の卒業まで向上水が手に入る保証はなく、不安に陥った末の愚行だった。木戸愛華は生徒会長がやったと思い込んでいるだろう。
スマホを高く掲げた。
拳に力が入る。息を長く吐き、またポケットに突っ込む。
すでに正常な動作をほとんどしなくなった壊れかけの端末。少しでも衝撃が加わればもう使用できなくなるだろう。しかし新しく買い換える金など持っていない。
スマホを床に叩きつける代わりに机を蹴飛ばした。
「これ以上余計なことはするな」
生徒会室の隅で嗚咽を上げる三村を残し、その場を後にした。
第8章 「野沢優丞(回想)」了




