6-2 友達のため
「たかが水で退学になりたくないわよね?」
これが切り札だった。
その言葉を口にした瞬間、全身にどっと汗をかいた。
白を切れないよう準備してある。そう自分に言い聞かせ、平静を装う。
彼はしばらくこちらを睨みつけた後、奥で作業をしていた三村に呼び掛けた。
「少し抜ける。ここを任せるよ」
野沢優丞は微笑み、そして舞台袖を出て行った。
人ごみを縫うようにして歩く彼の背中を追う。
しばらく歩いて辿り着いたのは校舎裏だった。いつか蒼紀と二人でここで話した。一日を通して日が当たらず、連日降る小雨でのせいで水たまりまでできている。
「秘密の話し合いにはちょうどいい場所よね。生徒は滅多に来ないし、防犯カメラも無い」
文化祭の喧騒が遠くから聞こえてきた。
「あらかじめ言っておくわ。今回の件は私が単独で行動している。木戸愛華はあなたのことについてなにも喋っていないし、なにも頼まれていないわ」
「早く本題を言えよ。おまえは何を知っている」
「星盟学園で、そしてこの昇山高校で木戸愛華の動画を拡散させたのはあなたでしょう」
優丞は表情を変えなかった。
雲がにわかに厚くなり辺りが翳る。周囲の湿度がより上がったように感じた。
「星盟学園に在籍しているときからあなたは彼女を脅して向上水を手に入れていた。でも、もう水を売らないと言われ、星盟の全生徒に彼女の秘密をばらした。そして昇山でも」
「証拠は」
「昇山高校の全生徒にメッセージを送る権限を持っているのは、生徒会役員と職員だけよ」
「それが証拠になると言うのか?」
「いいえ。それだけではこの動画を流した犯人を特定できない」
彼は笑い出す。
とうとう堪えきれなくなったという様子だった。
「なにがおかしいの。木戸さんの人生をめちゃくちゃにしようとしているのはあなたでしょう」
「もう行くぞ。馬鹿には付き合っていられない」
「あなたが木戸さんを脅して水を買っていたという事実を曝露すれば、みんなあなたを怪しむはずよ」
「だから、証拠も無いのにおまえの話なんて誰が信じる。どうせこの高校でも友達なんていないんだろ。そんな奴と人望熱い生徒会長。どっちが信頼されると思う? ……本当に不器用だよな、その容姿を利用すればいいだけの話なのに」
「どういうこと?」
「山添さんに影響されて心理学をかじっているそうじゃないか。ならば聞いたことがあるだろう。見た目の印象のいい人間の方が信頼されやすい。実際に僕は易々と生徒会長に当選している。お前だってもう少し愛想良くしていれば周りの人間を上手く利用することができるのに」
第一印象が他者に与える影響については耳にしたことがある。確かアメリカの大学の実験だ。
彼が言うように、印象次第で選挙の結果すら左右する可能性があると言われている。
引っかかるのは、「周りの人間は利用するために存在する」という彼の考え方だ。
「私には友達がいるわ。それに」
スマホを取り出し、動画のデータを開く。
「あなたが木戸愛華を脅していたという証拠ならある」
画面を見せつける。二人の生徒が言い合いをしている様子が映っていた。
一人は木戸愛華、もう一人は目の前にいる野沢優丞。
二人が言い合いをしている場所は今まさに立っているこの校舎裏。スマホの画面の中、彼は愛華から紙袋を受け取り中からペットボトルを取り出した。
――向上水、会長が卒業するまで渡さないといけないんですか……。
青ざめた顔で愛華が尋ねている。
――ああ。この高校で平穏に過ごしたければそうするんだね。僕が卒業した後、他の向上水の信者がどう出るかはまでは知らないけど。
生徒会長が女生徒を脅していると十分に見て取れる。この動画が原因で停学ともなれば大学の推薦の話は無くなるだろう。特待生としての資格も失効するかもしれない。今まで彼が築き上げてきた努力は、全て水泡に帰す。
「どこから撮った!」
激昂した優丞が唸る。
「よこせ!」
彼はスマホに手を伸ばす。
「……っ!」
避けようとしてぬかるみに足を滑らせた。
地面に勢いよく倒れ後頭部を打ち付ける。
優丞が伸し掛かかってきた。腕を押さえつけられたが抵抗できず、あっけなく奪われたスマホは校舎の壁に投げつけられた。
「山添さんか……」
彼は肩で息をしながら校舎の窓を見上げ呆然と呟く。一階にはカウンセラーが使う相談室がある。
「職員が生徒を盗撮したというのか? それも守秘義務のあるカウンセラーが。許されるわけがない」
起き上がり、地面に落ちたスマホを拾い上げる。画面はひび割れ、触れても反応しない。
「データのバックアップは取っているから、こんなことをしても意味無いわよ」
そのくらい、わかっているだろう。データを破損させることが彼の目的だったのではない。
動揺し、衝動的に叩きつけたのだ。
「撮ったのは山添さんじゃなくて、私。撮影されたのは木曜日の昼で、その時間は全職員会議がある。山添さんはここには絶対にいない」
佐藤蒼紀から「愛華が紙袋を持って教室を出て行った」と聞き、話がしたくて追いかけたらここへたどり着いた。
元々生徒が立ち寄るような場所ではないうえ、木曜日は山添も職員室へ行っている。向上水を受け取るならこの場所が一番適している。
「山添さんにアリバイがあると言いたいのか……」
「ええ。生徒が生徒を盗撮したところで、学校側は問題視しないでしょうね」
優丞はベンチに座り頭を抱えた。彼の肩に小さなシミができた。雨粒で濡れたのだ。
「木戸さんに歌わせてあげてほしい。あなたのせいで彼女はいじめられて歌えなくなったのよ」
他にも言いたいことはたくさんあった。声を荒らげて罵倒したかった。
しかし今はそのときではない。
「ステージに立たせてあげて。そしてもう彼女に近寄らないって約束するなら、この動画は誰にも見せない」
彼は忌々しそうに睨みつける。
「お願いします」
その場で膝をつき土下座した。
みるみるうちに強くなる雨脚が地面を黒く染める。
「友達のためなの。どうか協力してください」
「……本当に他人の考えが読めないんだな、おまえは」
彼の声はか細く、もう少しで雨音にかき消されてしまいそうだった。
「頭を下げる必要なんて無いだろう。脅されたらやるしかない。……もっと上手く他人を操る方法を山添さんから教わった方がいいぞ」
吐き捨てるように言ってベンチから立ち上がる。立ち上がるのがやっとという様子だった。彼は身をひるがえし、体育館へ戻ろうとする。
「心理学は、他人を操るためにあるのではないわ」
彼の背中を追う。
全身泥だらけだったけれど、そんなことを気にしている暇は無かった。
第6章 「野沢心」了




