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フタシカなまま、ぼくたちは  作者: ばやし せいず
第4章 野沢心(回想)
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4-3 合格、おめでとう

「これからは水を一日二本飲むように。起きたらまず一本飲んじゃいましょう」


 母がダイニングテーブルにペットボトルを置いて微笑む。

 もう目が笑っていなかった。どうやら本気で記憶力が上がると信じているようだ。

 ペットボトルも母親ももはや気色が悪かった。


 一日掛けて、ちょっとずつ飲むのではないの?

 毎日飲んでいるのに、どうして頭がよくならないの?


 しかし抗議すればどうなるかなんて目に見えている。

 母が見守る中、水を全て飲み干した。

 その日から朝食がれなくなった。水で胃がいっぱいになってしまうからだ。

 寝不足で常に眠気が付きまとう上、学校に着く頃には空腹感に襲われる。授業中もぼんやりしてしまって先生の話が頭に入らない。


「野沢さん、中学受験するんだって」

「頭いいもんね」

「頭良くて美人だし、私らみたいな凡人は相手にしないわけだ」


 女の子たちが聞こえよがしに嫌味を言って笑うのは前からよくあることだったが、「悔しい」とか「悲しい」とか、そんなことを思うエネルギーさえ枯渇こかつしていた。

 とにかくお腹が減っていた。そして眠くて眠くて、今にも倒れそうだった。



 星盟せいめい学園の入試当日の朝も自宅で水を飲んでいた。横で母親がテーブルに朝食を並べている。


「試験中にお腹が空いちゃうと困るから、少しは食べていきなさい」


 朝食なんて久々だ。「食べたくない」と訴える気力も無く、少し生焼けのフレンチトーストを水で流し込みやっとの思いで胃に詰めた。柔らかく弾力があり、母親の体そのものを食べているようで気持ちが悪かった。


 星盟学園の最寄り駅に到着し電車を降りる。

 付き添いの母がハンドバッグの中からまた水を取り出した。駅のホームにいるうちにこれを飲んでおけと言う。


「ねえ、これって記憶力を上げるための水でしょう。だったら、今飲んだところで……」


 言い終わらないうちに片手で頭を押さえられ、ペットボトルを口に突っ込まれた。


「ここまで来られたのも、この水のお陰じゃない」


 母の声がねっとりと鼓膜こまくう。


「う、」


 苦しかった。溺れているときのようだった。


「このお水と親に感謝できないなんて。あなた、やっぱりおかしいわよ」


 やめて。

 そう言いたいのに、水を飲み込むが精一杯だった。

 なにか喋れたとしても、母に自分の気持ちはもう届かないだろう。受験勉強を始めたときから、彼女とは意思疎通をとることが難しくなった。


 勉強するよりピアノ教室へ行きたい。おばあちゃんや、六実に会いたい。


 そんな抗議は一蹴され、いつしか自分の本音を彼女に口にすることは無くなった。


 息ができない。

 気付けば母の腕を振り払っていた。

 駅の通路にペットボトルが転がる。サラリーマンが迷惑そうに舌打ちし避けた。


 彼女はペットボトルを無表情で拾いに行く。顔の高さまでボトルを持ち上げ残りの水の量を確認すると「まあ、いいでしょう」と言ってふたを閉めた。


「ママ、気持ち悪い……」


 出口へ歩き出す母の背に呟く。聞こえなかったらしく、彼女は無反応だった。



「時間となりました。筆記用具を全て置いてください」


 一科目目の国語の試験が終わった。

 答案用紙を回収するため受験生全員が廊下へ出され、そこで嘔吐し、保健室へ運ばれた。

 残りの科目は一つも受けられず、発表を待つまでもなく不合格となった。


 この日以来、ペットボトルに入った水が飲めなくなってしまった。目にするだけで口に酸味がよみがえる。


 しかし公立の中学に入学し、いつになく晴れやかな気分だった。

 これでまた祖母に会いに行ける。ピアノを教えてもらえる。そう思っていた。


 祖母は、老人ホームにいた。もう半年以上も前からそこで暮らしているのだ両親から説明があった。

 ピアノ教室もとっくに畳んで、祖母が何十年も暮らしてきた家には今は誰も住んでいないそうだ。


 受験が終わるまで、私にはなに一つ知らされていなかった。


星盟せいめい学園合格、おめでとう。おばあちゃん、とっても鼻が高いわよ」


 介護用ベッドの上で、祖母は以前と変わらない柔和な笑顔を見せる。


「お義母かあさんの自慢の孫でしょう」

 隣で母が言う。


「でもね、こころちゃん。勝ってかぶとの緒を締めよって言うでしょう。星盟学園でも一番を目指さなきゃ。そういえば、優丞ゆうすけくんとは仲良くやってるの?」


 口籠くちごもっていると、父がひじで小突いてきた。


「優丞くんは頼もしい先輩だってよく言っているよ、なあ?」

「お友達、できたの?」


 祖母が心配そうに目を細める。「たくさんできた」という嘘も「一人もできそうにない」という事実も言えず、ただ黙って下を向いていた。



「どうして星盟学園に合格しただなんて嘘をつくの!?」


 我慢できず、車の後部座席で声を荒らげた。怒りで全身の血が沸騰しそうだった。

 祖母だったら合格しようが不合格だろうが、「よく頑張ったわね」と結果を受け止めてくれるはずだ。


「これ以上ママたちの見栄に付き合っていられないわよ!」


「言ったわよお」


 目を閉じた母は、鬱陶うっとうしそうにため息を吐き出した。

 彼女は星盟学園から正式に不合格の知らせが来て以来、「水を飲め」と言わなくなり、代わりに目も合わせなくなった。ついでなのか、元々苦手だった食事の用意も一切しなくなった。


「落ちて公立に進学したんだって、何度も何度もなーんども、お義母さんに説明したわ」


 助手席のシートにもたれながら母がぼやく。


「でも、もうわからないみたいね」


 体の力が抜けていくのが分かった。

 シートに座り直し振り返る。もう祖母の暮らす老人ホームは見えなかった。


 祖母の暮らしていた家で通夜が取り行われたのは、それから約二年後のことだ。


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