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フタシカなまま、ぼくたちは  作者: ばやし せいず
第4章 野沢心(回想)
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4-2 蜜柑

こころ! 遅かったじゃないの」


 家に帰るなり、母ににらまれた。


「さっさと車に乗って。塾に遅れちゃうわ」

「行きたくない」

「何を言ってるの!」


 母の雷が落ちた。

 しかしこっちのセリフだ。

 従兄と張り合うために中学受験しろだなんて、なにを言っているの?


「ピアノなんてやっていても無駄よ。音楽のセンスは全部遺伝で決まるの。ママもパパも楽器は苦手だったんだから、あなたもさっさとやめちゃいなさい」


 かえるの子は蛙。

 そう言うのなら、娘のお受験も早々に諦めた方が良い。両親ともに大学へ入学するまで公立の学校へ通っていたのだから。


「あなた、おかしいわよ。普通は受験させてもらえて有難いと思うものだわ」


 運転席に座り、母はハンドルを指で叩く。


 「あなたはおかしい」。

 これが母の口癖だった。

 事実だと思った。他人は当たり前のように友達を作っていくのに、自分にはそれがとても難しい。


 進級すると、塾へ通う回数も一気に増えた。帰りの車の中で食べるコンビニの弁当やホットスナックが毎日の夕飯となった。

 帰宅して玄関で靴を脱いだら、息つく間もなく塾の宿題と復習を始めなければならない。隣に座る母親の監視のもと、さぼることは許されない。


 毎日のように「なんでこんなこともわからないの」だとか「志望校に落ちてもいいの」だとか言われると、人は不思議なもので、そんな小言に対していちいち感情を抱かなくなる。


 「ママが受験すればいいじゃない」といちいち反抗していた時期もあったが、言った途端に母親は激高し、ヒステリックに泣きわめいた。近所迷惑になるので、それ以降は事務的な会話しかしないように気を付けている。


✳︎


 ある日、「いいものがある」と言って母に水を勧められた。


「一日一本、小まめに少しずつ飲めばいいんですって」


 母親が差し出したのは一本のペットボトルだった。


「記憶力が上がるのよ」


 ラベルやメーカーのロゴすら無いただの水が入ったペットボトルは何だか気味が悪くて、「飲みたくない」と久々に抵抗を示してしまった。母親は「いいから飲みなさい」と目を三角にさせた。

 渋々口に水をふくむと、彼女はにっこり笑う。


「これで星盟せいめい学園合格は間違いなしね!」


 今一度、ペットボトルを観察する。

 味もにおいも無く、本当にただの水が入っているだけだ。中身が水道水と入れ替わっていたとしても気が付かないだろう。


 母は上機嫌で椅子に座り、「お母さんが子どもの未来を決める!」というタイトルの本を開く。

 どうして、「頭がよくなる水」だなんて、子どものおまじないのようなことを始めるのか不思議だった。


✳︎


 いつしか、勉強しても勉強しても成績が上がらなくなった。ピアノ教室もやめさせられることになった。


 グランドピアノの前で祖母が肩を落とす。


「お受験が終わったら、またおばあちゃんとピアノを弾きましょうね」

「中学生になったら、おばあちゃんがよく弾いている曲も弾けるようになる?」

「あら、なんという曲名かしら」


 タイトルがわからなかったから、代わりに鼻歌を歌った。それを聞いて彼女はにっこり笑う。


「ドビュッシーの『月の光』という曲よ」


 庭仕事で日に焼けたしわだらけの手を鍵盤けんばんにのせると、彼女は美しい音を奏でた。


 目を閉じる。

 日が沈み、足元も見えぬほど暗い庭。

 しかし空には満月が輝き、祖母に育てられた花が優しく照らされている。そんな情景が胸に浮かぶ。

 祖母のピアノが大好きだ。

 「大丈夫」。

 そう言われているように感じる。


「あら、この先はどうだったかしら……」


 曲は途中で終わってしまった。祖母はじっと鍵盤を見下ろしている。暗い道で立ち尽くす迷子のような横顔だ。


「おばあちゃんでも忘れちゃうことがあるのね」

「鬼の目にも涙というでしょう」

「……それを言うなら弘法も筆の誤りとか、猿も木から落ちるとかじゃないかしら?」


 塾で仕入れた知識で訂正すると、祖母は腹を抱えた。



 稽古の途中でお手洗いを借りた。

 祖母のところへ戻ろうとして、途中のダイニングルームの前で立ち止まる。食卓の端に置かれた紙袋が目に入った。二週間前、私から祖母に手渡した紙袋と同じだった。母に頼まれこの袋に蜜柑みかんをたくさん入れて持って行ったのだ。


 そっと部屋に入って袋の中をのぞく。瑞々しいオレンジ色だった果物はぶよぶよと膨らみ、表面に灰色のかびをびっしりと生やしていた。

 ちゃんと数えたわけではないが、一つも手を付けられていないのではないだろうか。「大好きだからすぐに食べきっちゃうわ」と言っていたはずなのに。


 レッスン室に戻って祖母に報告すると、彼女は大慌てでダイニングへ小走りした。

 顔を突っ込むように紙袋の中を確認する。


「勿体ないことをしてしまったわ……」


 彼女は随分とショックを受けているようだった。

 「言わなければよかった」とすぐに後悔した。

 これからしばらく会えなくなるのに、祖母の悲しそうな顔なんて見たくなかった。



 教室をやめることを報告しなければいけない人物はもう一人いた。


「そっかあ、忙しいね。小学生は」

「受験が無ければ、おばあちゃんとも六実むつみちゃんともずっと会えたのに」


 ため息をつきながら祖母の庭の枯れた葉をいじる。よく見ると枯草を生やしたままの植木鉢がいくつも放置されていた。


こころちゃん。これ、私の連絡先」

 からからの植木鉢から顔を上げる。

 六実が渡してきたのは、電話番号が書かれたメモ用紙だった。


「実はさ、私もそろそろ教室をやめようと思ってるんだ。就職先が決まって遠くに引っ越すの」


 引っ越し先はここから電車で三時間。自分がピアノ教室を続けようがやめようが関係無く、これからは気軽に会えなくなる。

 申し訳なさそうに六実は謝った。


 びゅうびゅうと北風が吹く。茶色く乾いた葉がなびいた。

 その日はまぶたを赤く腫らして帰ったが、母が気付く様子は無かった。


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