3-26 心
「順位に固執する必要は無いって、野沢が言ったんじゃないか」
狭い空間にアップライトのピアノが一台。その前の椅子に野沢が腰掛けている。
練習室に入るのはこれが初めてだ。
伴奏の練習をするつもりだったのだが、すっかり元気を無くした野沢の話を聞いてやることにした。落ち込む原因は、中間テストの順位であることは他でもない。そして野沢にとどめを刺したのは、愛華の一言だった。
――こんなの、たいしたことないよ。
囃し立ててくるクラスメイトたちに対し、彼女は苦笑いを浮かべ言った。彼女は謙遜のつもりで咄嗟に言ったに違いない。
それを聞いていた野沢の顔は、さらに暗くなった。
放課後になり、いつものように教室を一人で出ていこうとする彼女を呼び止めたが相手にされなかった。あしらったのではなく、ひどく落胆して口が利けないという様子だった。
打ちひしがれているクラスメイトをどう励ませばいいのか。
その答えを求め、図書館へ足を運び心理学の本を読み漁ったが、結局なんの収穫も無かった。
「わかっているわよ。でも不安になってしまって。こんな成績で留学できるのかとか……」
「留学する気なのか?」
俺の視野には無い進路だ。こっちは英語の授業についていくのがやっとだというのに。
「海外で心理学を学びたいの」
「やる気満々だなあ」
「……こんな気持ち、認めたくないけど、私はやっぱり彼女に順位を抜かれて悔しかったのよ」
野沢は突然椅子から立ち上がり、上履きを脱いだ。
「なにして……」
そして靴下までするすると脱いでしまう。真っ白な脚が露わになった。
「佐藤くん、見て」
「いっ、いや! 本当になに!?」
思わず両手で顔を覆った。この狭い空間で一体なにを始めるというのか。
「せっかくだから貰ってって言われたの。だから、つけてるの」
「だから、な、なにを?」
指の間からおずおずと野沢を見る。
形の良いふくらはぎの下、細い足首にオレンジの組み紐が巻かれていた。あれは愛華が作ったミサンガだ。
「言っておくけど、願掛けなんてしてないわ。願いが叶うという根拠は無いし」
野沢は悔しそうに口を曲げ、自分の足首を見下ろす。
「私だって要領がいいわけじゃない。毎日勉強してきた。でも、愛華はアルバイトも歌の練習もしている。それなのに首位よ。クラス内だけじゃない。学年全体で一位だったんですって。事前テストや分散学習をして必死に努力しているのが馬鹿らしくなる。悔しい……」
「……本当、馬鹿らしくなってくるよな」
彼女の気持ちは痛々しいくらいにわかる。
英語以外は平均点を上回ったが、そんなことで喜んでいる自分が情けなくなってくる。
「……野沢。今回は愛華に負けたけど、やっぱり落ち込む必要は無いよ。他人の成績は関係無い。野沢だって頭がいいんだから、このまま努力すればきっと留学だってできるって」
それは本心だった。聡い彼女のことだ。きっと望む通り留学し、今よりさらに勉強に励むに違いない。
自分の将来なんて白紙のまま見て見ぬふりしているのに、彼女の未来を想像することは容易かった。
「佐藤くん……」
彼女の澄んだ両目は潤んでいた。
「根拠は?」
「無いよっ!」
「それから『頭がいい』という褒め方はよくないわ。能力よりプロセスを褒めるべきよ。『野沢は努力している』と言ってほしいわね。これも研究で」
「悪かったな! でも、関係無いだろ。他人の成績なんて」
彼女を励ますために、自分に言い聞かせるためにこの言葉を繰り返す。
他人の成績なんて関係無い。
「ねえ、私は他人の気持ちを察するのが苦手なのだけれど」
「知ってるよ」
「だから訊くけど、佐藤くんはもしかして私に気を遣ってくれているのかしら?」
「そうだよ。励ましてるんだよ」
ようやく気が付いたらしい。わざわざ練習室へ呼び出して、不慣れながらもずっと励ましの言葉を掛けていたのだ。
「根拠は無いけど、きっと留学だってできるよ。大丈夫」
「……」
彼女は数秒黙ったあと、靴下を丁寧に履き直してから立ち上がった。
「そろそろ失礼するわ」
俺の言葉は響かなかったのだろう。ろくに友人のいなかった人間から出た、薄っぺらい言葉だ。
根拠も無い。誰かの気持ちを変えられるはずがない。
野沢はなにか言いたげに扉の前で振り返った。ある意味口から先に生まれたような人間だから、言いよどむなんて珍しい。
「……佐藤くんにお願いしたいことがある。私のこと、下の名前で呼んでほしい」
「え? えっと。……こ、心って?」
「そうよ。私もあなたのことを蒼紀くんと呼ぶ。……名前で呼び合ったほうが、クラスメイトらしくていいでしょう?」
心。
いい名前だと思う。
「今さらだなあ」
しかし気恥ずかしくなって、ついそんなことを言ってしまった。
「嫌ならいいわよ。じゃあね、佐藤くん」
「ごめんごめん! 嘘だよ、嘘。下の名前で呼ばせてもらう。……心」
口に出してみると、やはりこそばゆくなった。
「愛華」と呼ぶことにはなんの抵抗も無かったのに。
「……でも、こっちからもお願いがあるんだ」
「なに?」
彼女は首を傾げる。
「ミサンガを足につけるってアイディア、真似してもいいか? 愛華には言わないでほしいんだけど、手首だとちょっと鬱陶しいんだよな」
彼女は「好きにしなさいよ」と笑い、練習室を出て行った。
気を取り直してピアノの前に座る。鍵盤に指を乗せポンと鳴らしてみた。外の雑音は一切聞こえない練習室の中、自分の体に柔らかく音が響く。懐かしい感覚だ。
譜面台の楽譜を睨み、曲を奏でてみる。ピアノを触ること自体久々だったが、思っていたよりも弾けるものだ。
しかし指が重く感じられて仕方がなかった。暗譜するとか理想の音を出すとか、本番までにその段階まで進める見込みは立っていない。
それでも楽しかった。弾き出すとつい夢中になり、あっという間に時間が経った。
――ピアノなんて、おまえには必要無いよ。
ふいに記憶の中の父が囁く。
手を止めると、練習室は気味が悪いくらい静かになってしまった。人の気配を感じたような気がして部屋の中を見回す。
もちろん、こんなところに父親がいるわけがなかった。




