3-15 ばかばかしい
「愛華も知ってるんだ。その水の噂話」
頭がよくなる水。
その水を飲めば、記憶力が格段によくなるらしい。
値段はボトル一本数千円。水を買うためには、購入した経験のある人間から紹介を受ける必要があるという。
誰々の親がその水の買い方を知っているとか知らないとか、学校でも塾でも都市伝説のように囁かれていた。「水を飲んでいるんじゃないか」と成績の良い生徒が疑われ、いじめられるようになり、心理テストと同様に怪しい水の話はタブーとなった。
「結局、なんだったんだろうな。その水って」
眉唾な話だ。興味も沸かなければ、その水を目にすることもついに無かった。
「野沢もそんな話をしてたよな?」
「ええ。私も小学生のとき、小耳に挟んだことがあったから」
彼女はコーラを飲み干し答える。
「水を飲んだだけで成績が上がるなら苦労しないよな。ネットの掲示板かなにかの作り話だったんだろ」
「……水の名前は確か、向上水」
「向上水?」
「単純な名前よね。それに、本当に……」
「さあ、焼けたよ~! 一人四個ね!」
愛華のやたらに明るい声が、野沢の「ばかばかしいわよね」という一言を掻き消した。
*
「木戸さんは部屋に戻ってもう休んだら。アルバイトをして率先して料理もして、疲れたでしょう」
「う、ううん。大丈夫だよ」
愛華はそう言ってキッチンの流しの前に立つ。
「何度もあくびをしていなかった? さっきも言ったけど、あなたは無理しているのがわかりやすいのよ」
野沢が愛華の手からスポンジをひったくる。
「でも、ひどいことになってるよ?」
狭い流しに山積みにされた食器に目をやる。フライパンやボールや皿が油を浴びて、ぎとぎとと光っていた。
「愛華、素直に任せればいいんだよ」
「……あ、ありがとう。助かります。じゃあ、片付け終わったら棚の鍵を山添さんに返しておいてくれる?」
愛華は自分のバッグを開け、内ポケットをまさぐった。
「あ、そうだ! 二人に渡そうと思ってたのに、すっかり忘れてた」
山添さんに返す鍵と一緒にラッピングされたカップケーキを二つ取り出す。
「バイト先で貰ったの。新作のバナナ味なんだ。今日の高校一年生のラッキーアイテムはバナナだからちょうどいいね!」
「ラッキー、アイテム……」
手渡された焼き菓子を野沢がじいっと見下ろす。
「あっ! ご、ごめん。ココちゃんはこの手の話が嫌いなんだよね。前も怒らせちゃって……、ごめんね?」
「いえ、あの、その件なら……」
もじもじする野沢を軽く肘でつつくと、「わかってる」と言いたげにこちらを睨んできた。
彼女は一度深呼吸する。
「私こそ、この前はごめんなさい。つい感情的になってしまった。あなたの厚意を無下にしたわ。外見についても口に出すべきではなかった。……髪を染め直したのは、私のせいよね」
ごめんなさいと繰り返し、彼女は頭を下げる。
「や、やめてよココちゃん! 本当にバイトするために染めたんだから」
愛華は野沢の手を取った。
「ミサンガのこと、全く気にしてなかったって言ったら嘘になるけど……。友達に無理に押し付けようとしたこっちも悪いんだし」
「……友達って? 私が木戸さんと友達だってこと?」
彼女は顔を上げ、「なにを言っているんだ?」という表情で愛華を見返す。
「えっ、えええ……、私は友達だと思ってたんだけどなあ……」
不憫な彼女は涙目になってしまっている。
「友達っていうのは『お友達になりましょう』『いいですよ』という手続きがあって初めて成立する関係性でしょう」
「小学生か」
思わず突っ込む。自分のことは棚に上げるが、彼女の社会性の低さは度が過ぎている。
「ココちゃんたら。私たちはとっくに友達だよ。集まってご飯食べて、私なんて夢まで語っちゃってさ。だから、私のことも苗字じゃなくて、下の名前で呼んで。……愛華って」
「わ、わかったわ。……ア、ア、アイ、アイアイ、……愛華」
南の島のお猿さんを登場させながらも、野沢はなんとか彼女を名前で呼び、顔を火照らせた。
「今後からは名前で呼ばせてもらう。……あと、愛華の連絡先を知らないわ。教えてくれる?」
「もちろん! あ、ついでにグループチャットにも入って!」
「あと、歌のことだけど、大声で歌いたかったら練習室を借りればいいわ。アプリで予約できるのよ」
「えっ、なにそれ! どうやるの?」
野沢は愛華のスマホを借り、画面をタップする。額を寄せ合い楽しそうにする二人が微笑ましい。
彼女たちを横目に袖をまくり、一人テーブルの上を片付け始めた。




