3-1 私の部屋でもいいけど
第3章 「佐藤蒼紀」
面倒なことになった。
「……手伝いって、それは一体」
「まず実験のためにはなにをするべき? 一度目の暗記かしら。いえ、分散学習後と成績を比較するなら事前テストを実施するほうが効率的だわ。早速テストを……。でも自習室は私語禁止だし、そもそもテスト問題は私の部屋にあるわ……」
野沢心は訳の分からないことをぶつぶつと呟きながら、瞳をらんらんと輝かせている。目の前に他人がいることなど忘れたかのように。
笑っているわけではないが、どこか楽しそうだ。夢中になって独り言を繰り返している。
「佐藤くんは、休日は居残り組かしら? それとも帰省するの?」
彼女がやっとこちらを向く。
「居残るよ。明日は自習室にでも行って勉強する予定」
「では明日の朝、あなたの部屋に行くわ。そのつもりでいてちょうだい」
「は、はあっ?」
つい立ち上がり身を乗り出した。彼女も落ち着いた様子で立ち上がる。
「とりあえず、今晩は英単語の勉強に取り掛かってね。普段通り、しっかりやっておいて」
「ちょ、ちょっと待って」
「なに? 私、やらなきゃいけないことができたから、また明日ね!」
そう言い残し、長い髪を翻してぱたぱたと階段を上っていく。話し込んでいる間に、体調はすっかり回復したらしい。
それはよかったが、
「一体、なんなんだ……?」
野沢心が、俺の部屋を訪れるだなんて。
それに、彼女が言っていた「実験」とはなんのことだろう。ナントカ学習という、聞いたことのない単語も口にしていた。成績を上げるための手伝いとは、どういうことだろうか。
寮に引き返しながら、なんとか明日の訪問を断れないか考えたが、彼女の連絡先を知らない。
「あ」
自室のドアを開けて気付いた。連絡先に加え、お互いの部屋の番号さえも知らないのだ。これでは彼女がこの部屋を訪ねることは不可能。
胸を撫で下ろし机の前の椅子に座る。そして頬を軽く叩いた。
彼女との間のわだかまりが無くなったのは本当によかった。
しかしやはり、勉学に励むためにはクラスメイトとこれ以上深く交流すべきではない。
「高校生活はこれからだ」と言われたけれど、よく考えればあと三年しか残されていないのだ。のんびりしていたらあっという間に大学受験が始まってしまう。
英単語のプリントを広げ、ふと思い出す。
――努力するからよくないのかも。
あれはどういう意味だろう。「努力するだけ無駄だ」と言いたかったのだろうか。
野沢は勉強しなくても点が取れるタイプなのかもしれない。凡人の気持ちなんてきっとわからない。そう思うと途端に腹が立ってくる。
シャーペンを握り、書き殴るように英単語の書き取りを始めた。
*
「おはよう。佐藤くん」
食堂は、寮の談話室から延びる渡り廊下の先にある。その入り口の脇に一人の女生徒が待ち構えていた。
今日もグレーの制服をきっちりと身に着けている。
「……土曜日まで基準服なのか?」
「なにか問題が? シャツは毎日洗っているし、ブレザーやスカートも定期的にクリーニングに出す予定よ」
そうまでして制服を着る理由を問うと、気持ちがしゃんとするし、朝の忙しい時間になにを着ようかと迷う時間が勿体ないからだと言う。
クリーニング屋を利用する時間やお金のほうが勿体ないように感じる。俺のような常人には理解に苦しむ習性だ。
「そうか、じゃあな」
あくまで自然体を装って前を通り過ぎようとしたが、「佐藤くん」と呼び止められてしまった。
「あなたの部屋の番号を聞き忘れるなんて。私としたことがうっかりしていたわ」
部屋番号を知らないことに気付き、早朝からこのA棟の食堂の前に立っていたのだという。恐ろしい執念だが、そうまでする理由が見えてこない。
「本当に部屋に来るつもりなのか?」
「私の部屋でもいいけど」
「そ、それはもっと問題だ」
淑女が会って間もない男を自分の部屋に招き入れるなんて、あるまじき行為だ。
「とにかく、書き物ができる机と二人でじっくり話せる空間が必要なのよ」
「その条件を考えれば、俺の部屋がいいんだろうけど……」
そんなやり取りをしているうちに談話室のほうから賑やかな集団が迫ってきた。全員、一年生が着用する青いジャージを着ている。これから部活にでも行くのだろう。その中に知った顔があった。
クラスメイトの遠藤翔太だ。
「お願い。早くあなたの部屋に行きたいの」
「ちょ、ちょっと口塞いでて!」
野沢と二人で話しているところをあのお調子者に見られたらどう誤解されるか。できうる限り下を向いて談話室へ戻り、青ジャージの集団と足早にすれ違う。忍者の如く階段へ向かった。
「ねえ、待って」
息を切らす彼女を階段の上から振り返り、無言で手招きする。ようやく自室のある三階まで辿り着いた。




