2-1 透明な水
第2章 「野沢心」
まさか、彼がここにいるとは。
星盟学園を退学していたなんて。
せっかく自習室に来たというのに、勉強に身が入らない。窓際に座ってしまったのも間違いだった。
外はもう暗い。窓ガラスには蛍光灯で照らされた室内と私自身の顔が映し出されている。
この顔を見る度に憂鬱になる。昇山高校の生徒会長であり、従兄でもある野沢優丞を思い出してしまうからだ。
――俺が星盟学園にいたことと、お前の従兄だってこと、絶対に口外するなよ。
入学式が始まる寸前、彼はそう言った。目は凍てついたように暗かった。
しかし舞台に立つと一変し、いかにも頼りがいのある生徒会長としてその場にいたのだ。これには面食らってしまった。
一年生と三年生が深く関わる機会なんて、ほとんど無いだろう。それでもこの先が思いやられる。クラスメイトたちともぎくしゃくしてしまった。
せっかく高校に入学できたものの、幸先悪いスタートとなった。
集中できない理由はもう一つある。窓枠の向こうに、三日月が見えているのだ。
狼人間ではないけれど、月を見るとピアノが弾きたくなる。音楽室の隣にはピアノ付きの練習室があるが、今日は予約がいっぱいで使うことができなかった。
頭の中では大好きな曲が繰り返し流れているというのに。
今日は英単語一つすら覚えることができないだろう。
もう撤収しようかと考えていると、自習室後部のドアが開いた。最後列に座っていたため、入室してきた男子生徒のことをしっかり確認できた。
彼はここへ初めて訪れたのか、キョロキョロと部屋の中を見回している。
――そんな態度で、友達を作る気なんてあるのかよ!
彼は同じ一年四組の生徒。
苗字は「佐藤」。下の名前は確か、「蒼紀」。
私の自己紹介の練習を盗み聞きし、友達作りについて偉そうに説教してきた人物だ。
――佐藤くんが言っていること、よくわからないわ。
思わず口走ったが、本当は、頭ではわかっている。
考えたことや感じたことをそのまま口にしてはいけないということを。言い方を考えたり、口を噤んだりする必要もあるということを。
わかっているのに、できない。
もう一人のクラスメイト、木戸愛華なんてプレゼントまで用意してくれたというのに、「ありがとう」も「ごめんなさい」も言うことができなかった。勢い余り、見た目について余計な事を言ってしまった。
私は最低だ。
佐藤蒼紀は足を止め、不思議そうに教室の前方を眺めている。教壇の上のパイプ椅子に座りながら読書する職員を見ているのだ。
腰掛けているのは山添六実。「A寮のスタッフがどうしてここにいるんだろう」とでも考えているのだろう。わかりやすい。
彼女は彼の目線に気付いたのか、文庫本から顔を上げて微笑み手を振った。相変わらず、誰に対してでも愛想がいい。
「え、山添さん?」
自習室が私語厳禁であることを忘れたらしく、彼は心の声を漏らした。後方に座る数人が彼を睨みつける。
慌てて頭を下げる彼は、小脇に抱えていた勉強道具を全て床に落とした。今度は自習室にいたほぼ全員が振り返った。
何をやっているのよ! あなたのせいで集中力が切れたじゃない!
そう怒鳴ってやりたくなる。集中力なんて、とっくの前から切らしていたというのに。
ごろごろと、こちらに何かが転がってくる音がした。勉強道具と一緒に彼が落としたらしい。
私の足にぶつかった物が一本のペットボトルだと気付き、拾おうと伸ばしかけた手を引っ込めた。
中身がジュースならばよかった。
コーラでもお茶でも構わない。
しかし、嫌な予感は的中した。
ペットボトルに入っていたのは、透明な水だった。
「どうしましたー?」
山添六実が、ぎりぎり後ろまで届くくらいの声量で尋ねてきた。教室中からの冷ややかな視線に、佐藤蒼紀は顔を真っ赤にして小声で平謝りしている。
「……っ」
体が燃えるように熱くなり、そして急激に冷えていく。
全身に汗が滲み、浅い呼吸しかできなくなる。
「……大丈夫?」
異変に気付いたのか、彼に口パクでそう尋ねられたが答えることができなかった。「大丈夫だ」という意味で頷いてみせたが、項垂れたように見えたかもしれない。
この場にいては周りに迷惑が掛かる。
机の上はそのままに、自習室を飛び出した。




