知らない駅で降りてはいけない
地下鉄で寝過ごした時に思いついた話です。
出発のベルが鳴り響く中、私はギリギリで地下鉄に飛び乗った。
運行ダイヤが違うため、休日出勤の時は早めに家を出るように心掛けていたのに、今日に限って寝坊してしまった。
それこれもこの暑さのせいだ。
ぜいぜいと息を乱しながら、額に滲む汗を指先で拭う。わずかに湿った感触が気持ち悪くて、無意識にシャツの胸元に擦り付けた。
(おいおい、ハンカチくらい使えよ)
心の中、自分で自分にツッコミながら、バツの悪さを隠すように周囲をうかがう。
お盆休み中の地下鉄は、朝という時間帯のせいか乗客が少なかった。
いつもなら一車両に4つあるドアの前には学生や社会人がたむろしているのに、今日は1人も存在しない。側面に設置された長椅子に、ぽつぽつと乗客の姿があるだけで、何より通路に立っているのは自分だけだ。
その事実に気付いた私は、慌てて手近な長椅子に腰を降ろした。
考えてみれば、朝の通勤電車で座るなんて、いつ以来だろう。
ふぅ、と深い溜息がもれた。
ここから4つ目の駅で乗り換えて、更に3つ行くと会社の最寄駅に到着する。
それぞれ10分弱の時間を、すし詰めの中で吊り革を握りしめ立っているのが日常だ。こんなに穏やかな空間は、逆に居心地が悪い。
手持ちのリュックからスマホを取り出す気にもならなかった私は、ゆっくり目を閉じた。
ブラック企業に勤めている訳ではない。月に1、2回休日出勤はあるが、ちゃんと休日手当は貰えるし、有給休暇も多く福利厚生だって周囲と比べて手厚い方だと思う。ただ、出勤時間が早めなのがネックだ。
地下鉄はガタガタと音をたてて進んで行く。
規則的な振動に、知らず眠っていたらしい。ガタンと感じた揺れに意識が浮上した。
まだ完全覚醒では無かったためか、アナウンスは耳に届かなかったが、プシュウという音を立ててドアが開くのが見える。駅に着いたのだ。
(何処の?)
疑問が形になる前に、私は反射的に立ち上がった。
実は、私は地下鉄を乗り過ごした事が何度かある。乗り換えする駅はそれなりの規模なので、誰かしら降りるだろうと呑気に座っていたら誰も降りなくて、ドアが閉まってから気付いたのだ。他にもスマホで動画を見ていて乗り過ごしたとか、単純に爆睡していた事もある。
そんな苦い経験から、いつもはなるべく窓から駅名が見える位置に乗るようにしているのだが、今日は慌てて飛び乗ったせいで扉の向こうにはタイル張りの壁しか見えない。
(やばい)
慌てた私は迷いなく駅のホームへ降りる。
わずかに湾曲した駅のホームは先頭車両だからだろうか、視線の先には電光掲示板が無く全体的に薄暗かった。
地下鉄の車内灯を反射するベージュ色のタイル壁にはいくつか看板と思しきものが貼ってあるが、逆光でよく分からない。
遠くに僅かながら緑色の光が見える。あれは多分非常灯だ。その先に、ぼんやりと階段が見えた。おそらくは地上に向かうための——
「お客様」
突然の呼びかけに、ぴくりと身体が跳ね上がる。
気付くと目の前に1人の駅員がいた。白いシャツに紺色のズボン、同色の帽子を被った男は口元に笑みをたたえている。
だが、何故だろう。表情が分からない。口元は見えるのに、どんな顔をしているのか理解できなかった。
「この駅で降りてしまわれたのですか?」
男の声は、若くもなく年寄りでもない。穏やかに語っているだけなのに恐ろしく感じるのは、私がこの駅の雰囲気に呑まれているだけなのか。
「…い……いけませんでしたか?」
ひくりと喉を鳴らした私に、駅員はうっそりと笑った——気がした。
「知らない人について行っては駄目だとは教わるのに、どうして知らない駅で降りてはいけないと教えないのでしょうね」
のそりと駅員の右腕が上がり、指先がこちらに伸びる——だが、私は声も出せず、立ち尽くしたままだった。
逃げなくてはと思うのに、身体が動かない。
心より先に身体が諦めてしまったのだろうか。ホームの床に縫い留められように、足は硬直している。
(動け、動け、動け)
祈りに似た叫びも声になる事は無い。
白い手袋に包まれた男の指先が目前に迫り、私は必死に瞼を閉じた。その時だ。
ガタン!
全身を強い衝撃が襲い、私の身体は横倒しにされた。同時に四肢に温かみが戻り金縛りが解けたのを知る。
目を開けると、そこは地下鉄の車内だった。
明るい照明の中、まばらに貼られた車内広告と路線地図。扉の上にある電光掲示板が、次の駅名を示している。
『次は◎◎』
機械音のアナウンスが乗換駅を名前を告げる中、私は荒い息を吐きながら、のろのろと長椅子から上半身を起こした。
おそらく周囲の目には、居眠りしていて衝撃を殺せなかった迂闊なサラリーマンと映っている事だろう。
私が乗り換える駅の手前は路面が悪いのかいつも激しく揺れるから。
それならいい。それでいい。
私は整わない呼吸のまま、開いた扉からホームへ降りた。
他線との接続駅らしく明るく広いホームには、休日の朝ながらもそれなりに乗客の姿があった。壁にはいくつもの看板が掲げられており、それぞれ別のホームや複数の出口への矢印が示されている。
いつもの光景。見慣れた場所。
通り過ぎる人々の喧騒の中、私は乗ってきた地下鉄が出発するまでそのまま立ち尽くしていた。
それ以降、私が乗った地下鉄が「あの駅」に停車する事は無かった。
そもそもあの出来事が現実だったかどうかも怪しい。
だが、ふとした時、あのホームの光景を思い出すのだ。
それはホラー映画を指の隙間から覗き見てしまうのに似ている。
恐怖という抗えない誘惑。
車内の光に反射したタイル壁、朧な光を放つ非常灯、アルカイックな笑みを浮かべる駅員、そして何より。
非常灯の奥に見えた階段の先は、何処に繋がっていたのだろう。
end




