37 用務員の検非違使
お見舞いに来た笑花が帰った後、ホムラの熱はいつの間にかすっかりと下がっていた。
お礼にと笑花がくれた贈答用の果物ゼリーをぺろりと食べてしまうぐらいには食欲が戻り、その翌朝には学校へ登校できるほど体力が戻っていた。
「ホントに学校いぐのかぁ? しかもこんなこっ早く……」
早くから家を出ようとするとするホムラに俊蔵が心配そうに声をかける。
「行く。やる事あるから」
「そうかぁ? なら車で送っていぐか?」
「平気だって。今日はソッコー帰るから、じーちゃんは家で待っててよ」
「んだけどなぁ……」
「じゃ、行ってきます!」
俊蔵の声をやや強引に遮って玄関を飛び出す。俊蔵には、また大きな気苦労を背負わせてしまっている事は分かっている。しかしそれでもホムラにはやるべき事があった。
朝靄が薄く広がる田舎道を足早に通り抜け、早々に学校へとたどり着く。白く霞む校庭の向こう側にある校舎――ぽつりと立つ人影がこちらを向いた。きっと、<あちらも>ホムラを待っていたのだろう。
「たつジィ」
「ああ、おはよう、ホムラくん」
竹箒を持ち、作業着姿で玄関を掃除しているたつジィはあの事件から何ら変わりはない<用務員のたつジィ>に見える。たつジィは自分を検非違使だと打ち明けていたが、やはりどう見ても陽満や架美来が言っていたような非情さがあるとは思えない。
「もう体は平気かい」
「うん、大丈夫。それよりオレ、たつジィに聞きたい事があるんだ」
まるでホムラがそういう事を分かっていたかのように、たつジィはゆっくりと頷いた。
「まだやり残している朝の仕事があってね。ホムラくんも一緒に手伝ってもらえるかな」
学校の玄関を離れて、バケツと掃除用具セットを持ってきたたつジィと一緒にやってきたのは校舎裏だった。昨日、同じ地点に存在する境界であの悪鬼と死闘を繰り広げ、そして和合で討ち果たした場所だ。
そこからさらに西へ行くと【立ち入り禁止】のロープの前に二人はたどり着いた。
裏庭の立ち入り禁止の事は知ってはいるが、ホムラは一度も入った事がない。一度、<探検ごっこ>と称して芳樹とこっそり入ろうとしたら、いつの間にか背後にいたたつジィに追い返されてしまったのだ。
その時は「この先はクマが出るからね、入っちゃダメだよ」と嗜められたのだが――。
ロープを徐に跨ぐたつジィに「いいの?」と尋ねると、たつジィはゆっくりと頷いた。
この先の何かを、たつジィは自分に見せたいのだろうか。
口内の生唾を静かに呑んで、しめ縄のロープを跨ぐ。
木々が表よりもさらに生い茂り、朝の木漏れ日だけがわずかに届く深い林の奥に古い祠石があった。
ただそこに鎮座している、静謐な祠の中――そこに納められた木の御札は、なぜかズタズタに引き裂かれ、その上焼け焦げたように黒く煤けていた。
「これって龍神の護符ってヤツ?」
「そうだよ。よく知っているね」
「悪鬼にその護符ってヤツを壊されたって、凪良が言ってたから」
「んふふ。そうか、そうか。そうなんだねぇ」
なぜか嬉しそうに顔を少しほころばせ、うんうんと頷きながらたつジィは手に持っていたバケツを手に下ろし、水に浸したスポンジで祠を拭き始めた。
「学校っていうのはね、もともと境界の歪みがよく起こりやすい場所なんだ。ここに通うたくさんの子供達の思いが少しずつ降り積もって、その<楽しい>気に引き寄せられた幽霊や妖怪達がやってくる。特にここはその傾向が強かったみたいでね、この祠と御札で結界を作って守っていた。ただ……」
「悪鬼のせいでメチャクチャになった、だよな」
ホムラの言う事にまた頷いて、今度は雑巾で丁寧に祠の中を掃除し始める。
「ここにあんな強い悪鬼が現れるなんて事は今まで一度もなかった。急遽強力な護符を頼んでしばらくは保っていたんだけどそれも限界でね。僕は検非違使だけども悪鬼を祓える力はない。それでSHM会に祓師の派遣と悪鬼の討伐を頼んだんだ。けれど悪鬼が日没前に、しかも現世にこんな早く干渉するなんて考えもしなかった。君達にも笑花ちゃんにも、随分と怖い思いをさせてしまった……」
その言い方でホムラは気づいてしまった。
やっぱり、たつジィは今回の事も最初から全部知っていた。
じゃあ、オレ達の事も――。
「たつジィは全部知ってたのか? オレの事も、凪良の事も、全部知ってて、何にも教えてくれなかったのか?」
分かってるなら言ってくれたっていいじゃないか。
湧き上がったチリチリとする感情に扇動され責め立てるホムラに、たつジィは「……そうだね」と祠を掃除する手を止めた。
珍しく答えを言いあぐねているように間をおいて、少し曲がった背中は徐に語り出した。
「検非違使はあくまで『現世と隠世に仇なす人間を処するための組織』だ。神遣……陽満君からの申し出がなければ、ホムラくんに身分を明かす事も、こんな話もせず僕はただの用務員のおじさんでいただろう。検非違使からすれば君は現世で生きる善良な民で、僕にとってはこんな老人の話し相手になってくれる<表>の優しい少年なんだ」
そう言うたつジィの事情は、よく分かる。今ならそうしなければいけない理由も理解できる。
しかし、どうしてもすんなり「分かった」と頷けなかった。
理由があっても何でも、自分にだけは言って欲しかった。
複雑な感情に顔をしかめて俯くホムラの頭に、ふと温かい手がやさしく触れた。
ホムラが学校でひとりぼっちだった時、落ち込んでいる時、悩んでいる時――いつもこの手が励ましてくれた。
「君の力になれなくて、すまないね。まだ未来のある君にこんな苦しい決断をさせる老ぼれを許してくれだなんて言えないが、僕はこれから君が決めたどんな事も応援したい。検非違使としてではなく、大切な友人の一人としてね」
「たつジィ……」
「さて、そろそろ戻ろうか。今日はありがとう、僕の話を聞いてくれて」
そうしてすっかりきれいになった石祠にたつジィが真新しい護符を納めると、ふと二人の間に風がそよ吹いた。
やがて林の中を駆け抜け、ざわめく木々達に見守られるように、二人は石祠を後にしたのだった。
次回、【白光の焔 第38話】の更新日は【9/20(土)】です。
どうぞお楽しみに!