1 日常
我らの焔よ。
今こそ目醒めの時
焔は地を照らす最期の灯。
使命を果たすため、今——。
誰かの声がおぼろげな世界に降り注ぐ。
体も意識も、全てがぼんやりとしているこの感覚。
自分は夢を見ているのだ。
曖昧模糊な世界を漂いながら、ホムラはそう自覚していた。
夢の中で、ホムラは鬱蒼とした森の中を走っていた。
いや、ホムラ自身ではないのかもしれない。
何せ獣のようなすさまじい速さで森を疾走しており、そして自分の意志では声もおろか、この身を動かす事ができないのだ。
まるで誰かの眼で見ている情景をテレビで見ている——否、身体に取り憑いているような、そんな妙な感覚であった。
おぼろげで曖昧な意識。
そんなホムラでも、はっきりと感じ取れた事はあった。
日常生活でおおよそ感じる事のない、ただならぬ焦燥感。
そして、背後から迫り来るおぞましい殺気。
今まさに自分はそれに追い詰められている。
幾重もの朽ち果てた倒木の上を飛び越し、雑草が生い茂る坂道を駆け上り——とうとう自分は足を止めてしまった。
いや、止めざるを得なかったのだ。
突如道の途中に現れた土砂の壁。
自分の身体の何倍もうず高く積もったそれを飛び越えるなど到底できる筈もない。
紛れもない、行き止まりだった。
にじり寄る黒い影。
雲隠れしていた赤い月の明かりが、その殺気の正体をさらけ出す。
自分を覆い尽くしてしまう程の黒い巨体。
鈍く光る鋭利な鉤爪。
その身に埋め込まれたおびただしい数の眼球と眼球と眼球。
醜悪な顔に嵌め込まれた二つの眼球が、奥のホムラを鋭く捉えた。
正気などとうに失った、濃密な狂気に揺れる赤く濁った瞳。
これぞ正しく、怪物。
しゃがれ潰れた咆哮と共に、怪物の大口が自分に襲いかかった——。
「ワァッ!!」
口から出た悲鳴と共にホムラは跳ね起きた。
咄嗟に心臓に手を当てる。
手のひらに伝わる、やかましく鳴り響く鼓動。
よかった。生きてる。
ホムラは長い息を吐いて、ゆったりと辺りを見回した。
カーテンの隙間から朝の陽光が差し込む窮屈な和室。
畳の匂いがかすかに香る慣れ親しんだ部屋の景色に、ホムラはようやく平静を取り戻した。
気持ち悪い、夢だ。
まるで自分の身に起きた事のように、あの情景が頭にこびりついている。
恐ろしい怪物の顔貌と、そして——。
あのおぞましい恐怖が湧き上がる寸前で激しく頭を振る。
「そうだ、学校……」
額につたうぬるい汗を拭い、ホムラはおもむろに布団の横に転がった時計を手に取った。
午前七時五十五分。
時計の時刻は、無常にもホムラの寝坊を指し示していた。
「ゲッ」
お構いなしに時を刻み続ける針に、本日二度目の悲鳴が口から出たのは言うまでもなかった。
「じーちゃん! チコクッ!!」
茶の間の襖を勢いよく開けると、新聞を読んでいた俊蔵が顔を上げた。
「ワシは起こしたぞォ。ホレ、朝メシ。行きながら喰っておけぇ」
やれやれと呆れながらも、俊蔵はちゃぶ台の上の風呂敷と水筒をホムラに渡した。
風呂敷の中身には大きな握り飯が二つ。
一つはシンプルな塩むすび。
もう一つは、ホムラの大好物な梅おかかのおむすび。
こうなる事を予見して俊蔵がさっきまでせっせと握っておいたものだ。
「サンキュー! じーちゃん!」
受け取るやいなや、ホムラは玄関から勢いよく家を飛び出していった。
「やれやれ、元気な奴よのぉ」
威勢よく駆け出していく孫息子を見送り、茶の間の座布団にゆったりと座り直した。
『続いては、杜の宮原市の騒がし者のニュースです』
ふと目がついた液晶テレビから男性アナウンサーの声が聞こえた。
『昨日深夜、北青葉ヶ山駅周辺の市街地で、五十代男性一人が帰宅途中の際、熊と思われる獣に襲われました。
男性は顔面から腹部にかけて重傷を負い、現在病院で治療中との事です。
なお、獣は市街地近くの藪に逃げた模様で——』
淡々と告げられる報道に、俊蔵は「まったく、どこもかしこも騒がしいこったなァ」と湯呑みに入った緑茶をすすり、読みかけの新聞にまた眼を移した。
「やっべ……!」
雲がたなびく青空の下、一方のホムラは塩むすびを片手に通学路を全力で走っていた。
点在する日本家屋。
ひび割れて凹凸のあるコンクリートの道路。
青々とした稲穂が揺れるのどかな田園地帯。
そんな景色が続くこの青葉ヶ山周辺は、大都市にそびえ立つビルや人混みとはおおよそ無縁ないわゆる地方の田舎である。
青青と茂る草木の匂いのする風を受け、田舎道を駆け抜けていると「ホムラくぅーん!」と、しわがれ声と共に一軒家の畑から人が現れた。
ホムラの近所の家に住む堺家の老婦だ。
「今日遅いんでねぇのォ? どうしたァ?」
「寝坊した!」
「アラぁ、珍しいねぇ。気をつけて学校さ行くんだよォ」
「あんがと、堺のばっちゃん!」
内心焦りつつニッと笑って、ホムラは風のようにすぐ駆け出す。
ホムラの通う学校は、歩いて行けば家から約二十分程度の道のりだ。
だが、今は悠長に歩いている時間はない。何せ小学二年生の転校初日から途切れる事のなかった皆勤賞消滅の危機である。朝の会まで二十分を切っている今、世間話にうつつを抜かす暇などわずかもなかった。
雄大な自然に囲まれた田舎道を通り、山道の坂道を息石切らし登り切り、そこでホムラはようやく足を止めた。
千代五星小学校、青葉ヶ山分校。
校門の銘板に刻まれた小さな山の上の学校こそが、ホムラの通う小学校だ。
「よっし……オレの皆勤賞、まだ間に合う!」
息も落ち着かない間に急いで古びた木造建の校舎へ飛び込んだ途端、始業のチャイムが鳴り始めた。
「やっべ!」
スニーカーと下駄箱のシューズを履き替え、小走りに長い廊下を進む。
廊下の一番奥、六年一組がホムラの教室だ。
チャイムのメロディーがいよいよ終わりのフレーズに差し掛かったのと同時に教室のドアを思いっきり開けた。
「っしゃあ!! ギリセーフ!!」
「じゃないぞ。朝山ホムラ」
教室に滑り込んだホムラを出迎えたのは、賞賛の声——などではなかった。
すでに着席している五人の生徒たちの唖然とした表情。
そして、ホムラの前に厳然と立ちはだかる女性教師、熊野の冷ややかな視線だった。
「始業チャイムの五分前着席。一年でも守れる極々当たり前の決まり事を守れない六年がいるとは、一体どういう事なんだろうな。朝山?」
「ゴメンて、くまっち。チャイムには間に合ってるじゃん。そこを何とか」
一生のお願いと手を合わせるホムラを細目で見据えて、熊野は出席簿の角でホムラの頭のつむじを突いた。
「いってぇー!」
「熊野センセイ、な。ホラ、さっさと席に着け。次はないぞ」
颯爽と出欠を取り始めた熊野を小さく睨みながら「くまっちコエー……」とホムラは泣く泣く自席に着いた。
「らしくねぇじゃん。チコクなんてよ」
右隣に座る坊主頭の男子、芳樹がすかさず耳打ちをした。
「遅刻じゃねーし。ギリセーフだって、多分」
「でもでもぉ、ホムラがお寝坊さんなんて珍しいねぇ」
今度は左隣からおさげ三つ編みの女子、笑花がおっとりしたささやき声で言う。
「ホムラっていっつも一番乗りだもん。なにか、あったのかな?」
「……まあ、うん。ヘンな夢見てさ」
「「夢ぇ?」」
声を揃えて言う二人に、ホムラは「夢っつか、んー……」と言い悩んだ。
あの奇妙で恐ろしい体験をどう言い表していいのかすぐに思い付かなかったのだ。
「仲良し三人組。お喋りはさぞ、楽しいんだろうなァ?」
ドスのきいた声に三人の背筋は一瞬にして凍った。
微笑んでこちらを見やる、氷柱のような熊野の眼光。
ブチ殺される。
瞬時に湧き上がった恐ろしい予感に三人はそそくさと口をつぐみ、会話はそこで一度お開きとなった。