第一話 殺風景な心
高台に立って、大量のビルで埋まった地面を見下ろす。道路を虫のように徘徊する人達が、手や足など至る所を赤い糸に繋がれている。空気が常温のHgに満たされたようで、手すりの上に乗せた腕が動かない。右手に持った、煙が付いていない煙草を口に咥える。近くの空でアルビノの烏が赤い糸に引っ張られて飛んでいる。必死に羽を動かしていて、とても辛そうだ。お互い様かな。そして視界がドロドロと溶け始め、アラームの音を認識させられる。
2023年4月10日月曜日 6時27分30秒
白シャツに袖を通し、左手にバックルを持って利き手の右手でベルトの先端をバックルに通す。目が半開きのまま、白シャツのボタンを閉める。
私の頭から赤い糸が枕に繋がる。この赤い糸は幼少期から自分だけに見えるものであったが、優越感に浸ることは無かった。シーツから離れるとその糸は抵抗もなく切れ、幻覚であることを思い出したように消えた。
学校のバッグを玄関まで運ぶ。少し吐き気もするから朝食は食べなくていいかな。
視界の下から急に赤い糸が出現する。口とガラスのコップがそれで繋がっていると分かったので、無意識下で喉が渇いたと、思ったのだと理解する。ガラスのコップを手に取り、ウォーターサーバーのハンドルを捻ってH₂O、いや厳密には違うか、水を注ぐ。水を口に運んでからやっと赤い糸が消滅する。コップをシンクの中に置き、玄関へ向かう。そして、学校のバッグを持ち上げると同時に声に出して言った。
「死にて」
《黄色い線の内側で並んでお待ちください》暴風がホームドアを乗り越えて、目にかかりそうな髪を激しく揺らす。扉が開き、ベルトコンベアで運ばれるように人が移動する。私もか。見渡して、座席と端の席の仕切りが全て埋まっていることが分かると、座席前のぎりぎり頭が当たる高さにあるつり革を強く握る。制服の右の腰ポケットからワイヤレスイヤホンのケースを取り出した矢先、
「あれ、香西君?」
声がした方向に急いで顔を向け、ケースをポケットに仕舞う。こちらに向かって歩いてくる制服を着た女性は、胸の辺りまで伸びた緑の髪をしていて、前髪に一つ白い髪留めを付けていた。
「白烏さん……」
私の胸と彼女の胸が赤い糸で繋がる。それを認識した瞬間、その瞬間我に返る。自分は超自我の意識外で、顔を赤面し彼女の名前を軽く口に出していた。浅く長く息を吸ってはいた後、微妙に焦点を外しながら彼女の目を見る。その時には既に赤い糸は消えていた。
「香西君もこっち方面から来るの?」
「はい」
「へー。どうして小学校の時は同じ学校だったのに会わなかったんだろうね」
彼女は首を傾げるように、言葉に愛嬌を感じさせる。
「時間帯が違かったのではないでしょうか」
「そっか。私学校来るの早かったもんね」
会話が途切れた瞬間、足を反転させ別の車両へ移動した。ポケットからケースを取り出し、ワイヤレスイヤホンを耳に付ける。先刻の後悔を忘れるために。
教室の扉に近い席で、角が少し折れた漫画を読む。
「あのー、職員室って何処にあんの?」
誰かがポニテのシニヨンを弄りながら私に尋ねる。読んでいたページに人差し指を入れ、漫画を横に倒す。
「大階段を一つ上がってそこを右に曲がった先にあります」
「さんきゅー」
彼女は跳ねるように教室を出て行った。私は左足を上げて足を組んで、再度漫画を開いた。
ページの数字が20加算された頃、
「香西君、あの文目ちゃん知らない?」
そう白烏さんが私に話しかける。
「いや、すいません、分からないです」
「あー、別に良いんだよ。気にしないで」
白烏さんはそのまま私の席を離れて、他の人の下へ向かった。耳に入る話によれば、どうやらさっきのポニテの人が彼女の探している人で、中学校からの親友らしい。へえ。私はまたページを捲る。
2023年4月12日水曜日 1時5分59秒
瞼を開く。パソコンデスクの上のデジタル時計を確認しもう一度寝転がるが、グリコーゲンを過剰摂取したような脳が睡眠を妨げる。また……。
私は黒のニットパジャマを脱ぎ、ジーンズを穿き、Tシャツの上に薄いボタンの無い灰色のカーディガンを着る。充電ケーブルに繋いであったスマホをジーンズのポケットに入れ、玄関の扉を出て電子キーで鍵を閉めた。この時期のこの時間はとても涼しくて心地が良い。踊るように軽やかに走り回りたくなる。そして、夜の住宅街は声が良く響くことを忘れたまま、鼻歌を夜の静寂さに向かって披露する。ふーんふふーん、ふふふー……。
街灯に映された薄い影が、そそくさと私から離れたのを周辺視野で認識する。あー……。気恥ずかしさも相まって、静寂さを増した雰囲気が漂う住宅街でまたぽつねんと、そして冷たい空気に酔いながら歩き出す。
私は鬱々とした公園のベンチに、背もたれの上に頭を乗せて座り込む。右足を上げて足を組み、手に持ったココアのアルミ缶を口に運ぶ。口から缶を離し、長くため息をつく。こんなにも幸せな時間を過ごしているのに、もう明日の仕事を考えている。あの赤い糸さえなければ、自分が白烏さんを好きだと知らずに居られたのに、私が自分を嫌いにならずにいられたのに。辞めよう、心が重苦しくなるだけだ。
ココアを飲み干したので、家への経路に沿って足を動かした。その矢先、公園の明かりの近くに何かが浮いているのが見えた。その存在は半透明で、影を映していない。
「幽霊……」
赤い糸も幽霊も幼少期の自分を類い稀な人間だと錯覚させ、自己のアイデンティティを肥大化させた罪があるため、それらが目に入る度に憎悪の念を抱くようになってしまっている。私はその鵺的な存在に向かって歩く。しかし、それは私が辿り着く前に完全に景色と同化した。