死神
現代の闇夜とはさして深いものではない。町中には街灯が行く先々を照らし、深夜営業の店が放つ光などによって、夜は漆黒を内包することはなくなった。きっと、空の色を例えるなら薄墨色という言葉が正確ではないだろうか。いや、無機質な現代の夜に、このような趣ある形容は、かえって不適合だろう。そう、いうなればそれは、日中に固執している。文明の発達は世界を広げ、視野を広げたつもりが、その実原初的な、何の変哲もない、素朴な恐怖に留まるのである。
だが、郊外にあるその架橋は例外であった。勿論その架橋にライトが煌めき、行く末を照らしている。これ程の明るさがあればあまり事故の心配はないだろう。が、架橋から見下ろされる景色はまさしく闇そのものだ。
その架橋の縁に、柵にもたれかかって、その闇を、じっと見つめている一人の青年がいた。その青年の瞳は、底の闇と同様に、果てしなく昏かった。光を跳ね返すことなく、唯、その闇を携えている。
青年は自殺を試みようとしていた。彼は、己が才の至らぬことに絶望していた。また、自身の悲運にも絶望していた。少なくとも彼はそう思っていた。而して、彼は、その柵に足をかけ、今まさに、飛び降りようとした。
「待て」
確かにそう聞こえた。声のする方を振り返ってみると、三十代半ばほどに見えるスーツに身を包んだ男が悠然と立ち尽くしていた。その男の体格の良さは、ジャケットのうえからでも判然とする。身長は優に一八〇センチメートルはあるだろう。どういう訳だか、周りの暗さからしては不自然な程、その顔の辺りは仄暗く、表情は識別できなかった。
「なんだよ、偽善者ぶろォてんのか」
青年は、スーツ姿の男に対して、強い語気で、俺の行動を止めようものなら容赦はせぬぞと示した。
「そうではない、私は貴様の自殺を阻止するために声をかけた」
「やっぱり偽善者ぶろォっつう算段だろ。俺の好きにさせろよ。それとも他に何かあンのかよォ!?」
「私は有り体に言えば、死神だ。故に貴様の霊魂を刈り取りに来た。死んだ後で、殻から抜けた霊魂を捕まえるのは骨折りでね。それに、貴様の様に現世に執着があるものは、己が怨念のため、霊魂が悪事を働き、死後も他人に迷惑をかけるのだ。そういう訳で、我々は生前の霊魂を刈り取るのだ」
これを聴くと、青年の心に、恐怖が渦巻いた。が、それと同時に一条の燈が青年の目には宿った。そして青年は、こう言葉を紡ぐ。
「ほう、そんなに俺の霊魂は大事か。だがなァ、俺は今、自分の霊魂を自分で処理したい気持ちなんだよ。だからよォ、お前に安々と刈り取られるわけにはいかねえんだよ!」
青年は斯くの如き詭弁を投げかけた。彼が発した台詞に嘘偽りは確かにないだろう。しかし、彼はこの時にはもう既に、自殺のことを忘れていた。彼は、無意識のうちに、死神が、彼の魂を欲していることを感謝した。ああ、こんな俺に価値を見出し、欲しがる奴がいたのなら、この世界も存外捨てたものではないな、と。
が、死神は、彼自身に価値を見出しているという訳ではなかった。彼は只、現世の平和を守るがため、この男の霊魂を管理しようとしていることに他ならない。
「たわけが。だが、貴様に説法をするほど、俺は人格者でもない。だから、大人しく俺に刈り取られろ」
「おいおい、なんでそうかっかすんだよ。ヘイワテキ解決っていうもんをしようぜ。な、話し合おうじゃないか」
が、死神はこの手の手合いに慣れていたのだろう。自殺志願者であろうと、死を前に命乞いをするという光景の奇天烈さをそれほどまでも、不思議がらなかったということは、彼の職業病のようなものだろう。
故に、鎌は無慈悲に、音もなく仕事を終えた。
現代における闇夜というのはもはや、創作物でしかない。が、この二人の男のやり取りを見たという者は誰もいないらしい。故に、これが真実であることは立証できない。が、それと同時に存在の否定をすることは不可能だ。
だからきっと、胡乱な霊魂を刈り取った、闇夜の中で鈍く光る鎌が存在していても、私にとっては、さして不思議なことではない。