『思想の体系に関する一考察』
『思想の体系に関する一考察』
㈠
そもそもが、人生の役に立たない思想など、思想といえるだろうか。
それは確かに疑問だし、寧ろ、夜の景色に崇高なものを見ている方が、よっぽど思想的だ。
㈡
思想的というものは、厳密には幸福追求的な動作のことだと思っている。
しかしまた、過去の、個人の思想などというものを読んでいると、一体この思想は役に立ったのかと言う事実だけを確認したくなる。
㈢
何もうまく人生を生きるだけが幸せではなくて、苦労や苦悩を知っている人間の方が、幸福価値が分かるというものだ。
では一体、その人生のどこに思想が絡むのかと言うと、ああ、楽しいな、などと感じる瞬間に、思想は発生しているのだ。
㈣
ということは、思想とは、全て後付けの現象確保のことだといえるのではあるまいか。
思想が反映されて、楽しいのではなく、楽しい時に、人間は、この感情を思想と位置付けるのだ。
㈤
すると、先人達は、それは違う、思想とはもっと崇高なものだと言い聞かせようとするだろう。
しかし、その先人達が幸福であったかどうかなどということは、自分には追求する気力すら失せるものだ、一定の無力を前にして。
㈥
そういう所まで現代は来てしまっている。思想の体系は、その先人が楽しさの先に見つけた幸福を思想として成就させ、それを見た弟子達が、それを繁栄させているのだ。
思想の体系に関する一考察は、こういう、結果論としての思想存在を定義しようとするものに収斂された現象である。