桜ノ下二彼女ハ眠ル
美人薄命なんて言葉は嫌いだ。
美人が長生きして何が悪い。
せっかく美しく生まれたのだから、他人より長く生きるくらいがちょうどいい。
こんなことを言っても、俺が本当に生きて欲しいのは唯一人。
神様というのは、残酷なぐらい公平で、天は彼女に二物も三物も与えながら、命だけは与えなかった。
そう、彼女は紛れも無く美人で、天才だった。
ただ、それが俺以外の誰かに、周りの人間に、認められることはなかった。
長い長い戦争が終わっても、待っていたのは、澄み渡った青空や望んでいた平穏といった平和的なものからほど遠く、荒れ地と瓦礫の山のような戦争の爪痕だけだった。
この国は負けた。多くの犠牲と死を撒き散らし、大敗した。
残ったのは、土地と人と壊れかけの建物と、誰かを恨む気持ちばかり。
国を立て直して生きていく希望までは残ってはいなかった。
それでも、俺か今も瓦礫と共に生きていたのは、彼女が生きていたからに他ならない。
「私の裁判の日が決まったよ」
食器以上に重いものは持てないのではないかと思っていた細い指が、真っ黒になるほど瓦礫の山を退かしながら、不意に彼女は俺に告げた。
彼女の言い方は、かねてからの約束が漸く決まったかのように楽しそうだったが、それはそんな楽しいものじゃない。その裁判で彼女の未来が決まる。自らの死の宣告ともとれる言葉だ。
「無罪になるといいな」
「……それはどうかな」
無事を願う俺に対して、彼女は曖昧な笑みを浮かべた。本来なら彼女の方が望むべき結果なのに、彼女はそれを望んでいないような反応だ。
そんな彼女に、返す言葉を探していると、突然何かが彼女の顔へと勢いよく向かって来た。
俺が咄嗟に手を伸ばし、彼女に当たる前に受け止めたが、投げつけられたのは、硬く重い石だった。この瓦礫の山ならどこでも拾える、何の変哲もない石ではあったが、落ちてきたのでもなく、落とした石が跳ねたのではなく、意図的に彼女に向かって投げ付けられたのだ。こんなもの、人に投げつけていいわけがない。
「人殺し!」
次に投げ付けられたのは、石よりも残酷な言葉だった。子供の声だったが、冗談じゃ済まされない。
石の向かってきた先に振り返り、睨み付けると、一人の少年が両手いっぱいに石を抱え、親の仇でも見るかのような目でこちらに負けずに睨み付けてきた。
少年は、俺の視線に気付き、顔を強張らせ、抱えていた石を次々と俺達に──正しくは彼女に向かって投げ付けてきた。しかも狙いは、明らかに頭部に集中していた。
それでも、避けようとすれば避けられなくはない。
なのに、彼女は避けなかった。少年を見て、黙って突っ立って、顔を庇いもしなかった。
代わりに俺は、必死になって彼女を庇った。
それでも少年は石と暴言を投げつけるのをやめず、徐々に騒ぎを聞き付け、人が集まって来た。
このままでは彼女が危ない。
「どこかに隠れよう」
俺は、すぐに彼女の腕を掴みこの場から逃げようとした。
だが、肝心の彼女は、走るどころか、地面にしっかりと足をつけ、動こうとすらしなかった。
振り向けば、彼女は、今の状況に耐えるような寂しい顔をしていた。
「いいのよ。しかたないことだから」
諦めている……いや、覚悟しているんだ。全て自分が悪いのだと。
そんなことはない。
俺は掴んだ腕を強く握り絞め、嫌がる彼女を無理矢理にでも連れて走った。
このままどこまでも走って行きたかった。
彼女と二人、誰も知らない場所に行って、二人でひっそりと暮らしたかった。過去のことなんて、忘れてしまえば──
そんなささやかな望みでさえ、「痛い」と言う、彼女の小さな叫びによって拒まれた。
一生放すまいと思った手を、俺は簡単に放してしまった。
二人で逃げたいと思っても、結局のところ、俺には彼女を連れ去る勇気などなく、誰も知らない場所で幸せになりたいと願うことも、独りよがりな妄想にすぎない。
自分の思いすら伝えられない俺に、いったい何が出来ると言うんだ。
俺はいつだって、彼女を助けることは出来なかった。
そして、今度も助けることは出来ない。
彼女の行く末を黙って見届けることしか出来ない自分が、情けなくて歯痒い。
彼女だってきっと、どうしてこんなことをしたのかと責めているに違いない。
「ありがとう」
「えっ?」
「私を助けてくれたのよね。ありがとう」
彼女は怒るどころか俺に向かって微笑んだ。嘘じゃない、作り物でもない。ぎこちない笑顔だが、確かに本物の笑顔だった。
そんな彼女の姿に目頭が熱くなる。
彼女は強い。俺なんかよりもずっと強い。
俺は顔を上げ、零れそうになる涙をどうにか止めた。彼女が泣いていないのに、俺が泣くわけにはいかない。
「どうして君ばかりが、こんな目に合わなければならないんだ……」
涙の代わりに本音が零れた。これ以上は黙っているのも、限界だったのかもしれない。
「私だけじゃないわ。みんな責任を負ってるのよ」
「君は何もしてないだろ!」
「私が作ったものが多くの命を奪ったじゃない」
彼女が作ったもの。
それは、大量殺人兵器だった。何千万もの命をたった一日で奪った、最高にして、最悪の毒薬。
彼女が開発した薬は、数え切れないほどの敵兵を殺した。
おかげで戦時中の彼女は、英雄と褒め称えられ、一時は遠い存在となっていた。
しかし、戦争が終わった途端、何故あんなものを作ったのかと、彼女は責められた。
彼女の薬が敵兵だけでなく、多くの一般市民の命まで奪ったからだ。
批難はそれだけでは終わらなかった。
敵兵にも家族がいた、徴兵という逃れられない制度に逆らえずやむなく兵士になった者も大勢いたなどと言い出し、負け犬に鞭を打ってきたのだ。
安全が保証された者の考えは、実に平和的で、吐き気がした。
ついこの間まで戦場に行けば皆同じだとか言って、無理矢理戦わせていた連中に限って、戦争が終われば掌を返し、寄ってたかって戦争の負の責任を彼女に押し付けた。
彼女だってこの戦争で家族を失ったというのに、そのこと同情する者は俺以外には誰もおらず、逆に無差別な復讐だとか、家族を失ったのに何故そんなことが出来るのだと、批難の対象へと変えられていった。
どいつもこいつも勝手なことばかり言って、彼女の何を知っているというんだ。
「君が作りたかったのは、あんなものじゃなかったはずだ!」
机の上の勉強よりも、人を殺す技術が褒められたような状況の中でも、敵味方関係なく少しでも多くの命を救いたいと彼女は俺に語ってくれた。
そんな彼女が、自ら毒薬など作るはずがない。
きっと上官に言われて仕方がなく作ったに違いない。
「違うわ。私は自分の意志であの薬を作ったの」
「どうしてそんな……」
「守りたかったの。
この土地を、大切な人達を守りたかったの。その為には、この戦争を終わらせるしか、勝つしかないと思って……」
大切なものを守る為に、どんなことをしても勝ちたかった。そんなの皆同じじゃないか。俺だって、そう思って戦ってきたさ。
それが何で、何で、彼女だけが責められなければならないんだ。こんなの理不尽だ。不公平だ。
込み上げる怒りに叫びそうになった。
だけど、その前に、彼女の目が、俺の背後に何かを見つけ、見開いた。
俺もその視線を追うように振り向くと、一本の大木が焼け焦げて所々黒くなひながらも、倒れることなく立っていた。
「この木、桜かな? 桜がいいな」
木を見て子供みたいに興奮する彼女に、俺は少しだけ熱が冷めた。彼女のこんな嬉しそうな顔を見たのは久しぶりだ。少なくとも正式に軍に入ってからは見ていない。
「ねぇ、知ってる? 桜の木の下には死体が埋まっているのよ」
「知ってる。でも、そんなのお伽話だろ」
桜の木の下には死体が埋まっていて、桜はその死体の養分を吸ってるから美しいと言われているのは有名な話だ。その話によると、桜の花びらは、元々は味気ない白い花びらだったが、死体の血を吸って見事な薄紅に染まったのだそうだ。
でも、そんなのは桜の美しさに魅せられた者が、勝手に作った創作の話だ。
桜の下を掘り返しても、死体なんて出てくるはずがなく、この国に、どれだけの死体が埋められようと、桜が以前より美しく咲くようなこともない。
「じゃあ、桜はどうして、死体の養分で花を長持ちさせるよりも、花を美しくすることを選んだかはわかる?」
「その方が確実に種を残せるからだろ」
投げやりに言った俺に、彼女は「夢がないわね」と言って笑った。
「じゃあ、何でだよ」
「醜い自分をいつまでも残しておきたくなかったから」
「醜い? 桜のどこが醜いんだ」
「死体の養分を吸ったことよ」
「それなら死体を桜の木に埋めた人間の方が悪いじゃないか。桜は人間のとばっちりを喰らっただけだ。死体を埋められなかったら、桜だって普通に咲いていただろ」
「そうね。確かに死体を埋めたのは人間かもしれない。でも、埋められた死体に手を出したのは桜自身。桜は死体にまで手を出した、自分の醜さを許せなかった。だから、その醜さを隠す為に美しくはかない花を咲かせたのよ」
俺は言葉を失ってしまった。
何故だろうか。
目の前にいるはずの彼女が、真っ直ぐ俺を見る彼女の目が、今はとても遠く感じる。
俺の知らぬ間に、彼女は、英雄だった頃よりも遠く、二度と手の届かない場所に行ってしまったんじゃないか、そんな嫌な予感が胸を過り、心がざわついた。
「私が死んだら、死体はこの木の下に植えてほしいの」
予感は的中した。
あまりにも素っ気なく言うもんだから、俺は最初何を言っているのか理解出来なかった。
噛み砕き、飲み込んで理解すれば、ふざけるなと言いたくなった。
「縁起でもないこと言うなよ!」
俺の太い両手が彼女の肩を掴む。俺よりも一回りも小さな体。
こんな体に、この国の負けた責任も、大勢を殺した責任も、全てのし掛かろうとしている。背負いきれるわけがない。
でも、俺には、それを背負うことは出来ない。
彼女が望んでいないから。俺には彼女の隣にいる資格がないから。
いいや、違う。俺に勇気がないからだ。強引にでも彼女に近づく勇気が、俺にはない。
離れたくないのに、今も抱きしめることを躊躇ってしまう。彼女が強がっているとわかっていても、かける言葉が見つからない。
俺と彼女の距離は遠い。ずっと傍で見ていたのに、越えてはならない壁がある。
怖い。このまま彼女は俺のもとを離れて、何処かへ行くんじゃないか。二度と逢えなくなってしまうじゃないか。
肩を掴む俺の腕に、彼女の手がそっと重なった。離すわけでもなく、握るのでもない。つかず離れずの距離は変わらない。
「お願い、聞いて。こんなこと貴方にしか頼めないの。それに……裁判で無罪になってもいつかは死ぬわ」
いつかは死ぬ。俺はそれを長い時間の中、いつかは死が訪れる。そんな漠然としたものだと思っていた。いや、思いたかった。
「……わかった」
「ありがとう」
渋々ながらも了承した俺を見て、彼女は満足そうに微笑んだ。
これが俺と彼女がした最後の会話だった。
この数日後、彼女の裁判は行われた。
結果は無罪。
法も正義も関係ない。ただ、政府が彼女の頭脳を惜しんだのだ。
平和だなんだとほざいているわりに、政府は今だ彼女の力を欲している。全て彼女になすりつけたのに、助けてやったと言わんばかりの態度をとっている。
どこまで彼女を苦しめれば気が済むんだ。
怒りは通り過ぎて、憎しみへと変わっていった。
俺は下っ端だったから、罪に問われることもなかったが、戦場では、何人も殺している。
いつか俺も地獄に落とされる時が来るなら、その時は、彼女を裁いた奴らも、利用した奴らも、全員残らず道連れにしてやる。
彼女を助けることも、側にいることもできなくても、それぐらいの覚悟は、俺にもある。
裁判が終わり、彼女が席を立つ。
見えざる罪と罰を背負わされた小さな背中を見送り、俺も、他の傍聴者も、退場を促され、立ち上がる。
その時、事件は起きた。
それは一瞬の出来事だった。
だか、あまりにも残酷な一瞬だった。
今でも光景が目に焼き付いて離れない。
それは本来ならありえないことだった。あってはならないことだった。
しかし、絶対に起きないとは言い切れない、避けるべきことだった。
当然、俺も政府も周りの人間達もそれをある程度予想すべきだった。判決よりももっと気にかけておかなければならなかった。
それが出来なかったのは裁判をすること自体がかなり久しぶりのことだったからか……。
裁判を終え彼女が部屋を出ようとした瞬間、裁判の熱気が治まらない中で銃声が響いた。誰かの叫び声が上がり、被告人であった彼女は胸元を赤く染めて倒れた。
撃ったのは被害者の遺族の一人。判決が気にくわなくて直接手を下したのだ。
あまりにも突然の出来事に、誰一人まともな対応が出来ず、彼女は病院に運ばれる前に息を引き取った。
傍聴席にしかいられなかった俺は、彼女を助けるどころか、最期を見取ることすら出来なかった。
後で聞いた話では、彼女は死の間際笑っていたらしい。
葬式も終わり、彼女の要望通り遺骨はあの木の下に埋められた。
何故、彼女がそんなことを頼んだのか、俺には未だにわからない。
ただ、数年後あの木は彼女を養分にして見事な花を咲かせていた。
それも桜だった。
全て彼女の望み通り。
彼女はきっと全て知っていたのだろう。
この木が桜であったことも、判決が無罪になることも、自分が殺されることも……。
知っていたからこそ、彼女は自らの罪を受け入れていたのかもしれない。
あの日、桜の前で語ったように……多くの命を奪い出世した醜い自分を生かすことが許せなくて、彼女もまた長く生きることを望んではいなかったのだ。
でも、それでも、俺は彼女に死んでほしくなどなかった。
醜くてもいい。惨めでもいい。もっと長く生きていてほしかった。