蜂は忠誠と自由と愛を唄う その2
「貴様ハ……我ラが同報カ。ヨク隕石ノ衝撃ヲモ生キ延ビタ。貴様以外ノ同報ハ、足元ヲ見ヨ。オビタダシイ亡骸ノ数ヲ」
言われるまで気付かなかった。女王様を中心にして、数百もの同僚が力尽きて、地に落ちていた。時折、触覚や脚がうごめいていたが、それも生理的な反応でしかなく、命は既に失せていた。
「一体なにガ……。我々の毒が効かナい敵が来たのデすか……?」
そうだ。毒針はどこに消えたのだ? 恐ろしくなって自分の体を撫で回した。少なくとも臀部には無かった。まさか本当に消えたか? そんなおぞましい疑念が浮かぶと、腕が変異した。
虫であったころの記憶を思い出すかのように腕の一部が黒と黄の甲殻を纏い、毒など無関係にあらゆる生物を殺せてしまいそうな巨大な刃が両手に計二本生えていた。
「毒……あル。女王様、我々ハ一体どうナっているのデしょうか」
「オソラクハ……空カラ落チタコノ石ノ破片ガ原因デアロウ。理屈ハ分カラヌ。ダガ確信ハアル」
女王様は穴だらけの体からその白く光る石を取り出した。表面は自然物とは思えないほど綺麗に削られており、真球の一部を形作っていた。だがそれは垂直に欠けていて、あくまでも一部分でしかないようにも見える。
しかし目にした途端、その石が持つ力を虫であったころの直感と、人としての理性が捉えていた。
――――この星、いやもっといえばこの世界の物ではない。尋常ではない。危険だ。だが新たな進化を遂げ得る。そんな石であると。……神秘としか言いようが無かった。
「……警戒シロ。動物ガ来テイル」
女王様の発言を受けて、すぐに触覚に意識を向けた。風に乗ってくる臭い。木の葉を踏みしめる音。けれどもこの体に慣れきれず、正確な位置は分かりかねた。
「ひっ、蜂? 化け物? そこの人! すぐに逃げろ!!」
その生物は声を発した。咄嗟に女王様の前に出て、音のした方向に針を向けた。遅れて生じる風きり羽音。威嚇しようとすると、自然と指が曲がり、関節がガチガチと音を鳴らした。女王様でさえ動揺をあらわにしてその声の主に目を向けていた。
その人間はメスだった。黒く短い髪、整った輪郭。大人びているようにも見えたが、髪飾りが子供っぽい。
山林を散策するには不似合いなスーツ姿にヒール。手には小洒落たバッグとビニール袋。袋のなかには水と箒、それに線香が入っている。まるで噛み合わない歯車の集合体みたいな人だった。
「動くナ。貴様ハ誰だ。ここハ我ラがテリトリーだ」
飛翔して、その女の目と鼻の距離まで接近した。その女が驚愕の表情を浮かべ、固まる。もう一度ガチガチと指を鳴らして威嚇した。これが最後通達だった。もしこの人間が近づこうものなら針で貫く。この大きさなら毒など関係無しに出血死させれるはずだ。
「いまスぐここカら去レ。サもなくば――――」
「……千歌?」
――――ドクンと、心臓が強く打ちつけられた。本気で殺すつもりだったのに、彼女の発したたった一言が視界を歪ませた。
なんてことをしようとしたのだと自責して、手が震えていく。顔が青ざめていく。息が止まりそうだった。瞳孔が細くなっていく感覚がした。
「誰ダそれハ。知らヌ。知らヌ! ……そレにココに化け物ナどいなイ。撤回しロ」
――その名前を呼ばれた記憶があった。目の前の少女が何度も何度も呼んでいたのを覚えている。お父さんとお母さんがずっと探していた。泣いていた。この日と同じで、『私』の最期の日は晴天だった。
――違う。そんなのは偽物の記憶だ。黙れ。黙れ黙れ黙れ!!
自分の頭を強く殴った。ぐわりと意識が強く揺れる。頭が真っ白になりそうだった。残響する音が不快だった。封じられていた人間の記憶が渦巻いていく。
目の前の女性は怯えと困惑に一歩後ろに下がった。けどその瞳は悲しみに満ちていた。女王様を見たときの恐怖よりも、何か途方もない喪失感に満たされているようだった。
「……そうか。そうだよな、人違いか。だよな。ごめん、驚かせて。その生き物? のことも化け物って言って悪かったな」
感情のない言葉だった。弱々しく、敵意も警戒心もない。反射的に出たように聞こえた。
「千歌とヤらハ、誰ナのダ?」
聞くべきではない。けれど聞かずにはいられなかった。自分が一体どんな存在に変貌してしまったのかが恐ろしくて、蜂でも人でもないような宙ぶらりんの状態が不安で仕方がなかったのだ。
「千歌は……私の妹だよ。四年前にこの山で行方が分からなくなっちゃったけどな。…………私が、私がちゃんと見てればよかったんだ。私の所為だ。全部……全部な」
罪悪感が胸を埋め尽くす。他人事とは思えなかった。暗い山のなかを永遠と彷徨い続けた記憶があった。自分の足でそこへ向かった記憶があった。――吐き気がして、嗚咽する。頭がどうにかなってしまいそうだった。
「ソレで何シに来タのだ。用件ヲ済ませタらすぐに帰レ」
「ああ、ごめん。ちょっと奥に行きたかっただけだ。暗い話をしてごめん。ただ、他人には思えなかったんだ」
そう言って彼女は森の奥へと足を進めていった。生い茂る木々と鬱蒼とした影に消えていく。しばらくすると、線香の独特な香りがした。ふっと薄い煙が風に乗って空へと向かっていく。そして歌が聞こえた。
歌詞の無い曖昧な歌だった。一緒に奏でる楽器もなく、ただメロディーだけを口ずさむようなものだった。とても明るい曲調だった。けれどもあの女の人は酷く悲しそうな声でそれを歌い続けていた。
「耳障リナ音ダ」
女王様はそう言ったが、賛同できなかった。耳に入ってくるメロディが懐かしくて、あの人の泣きそうな声が申し訳なくて、理由のわからない自責と後悔だけが積み上げられていくのだ。勝手に涙が流れ落ちた。
「うぅ……ウ……」
いつまで泣いていたかはわからない。体に力が入らなくて、途方もない時間、蹲っていた気がする。瞳が涸れて、ようやく涙が止まったときにはもう黄昏時だった。空の色は変わり、森の大部分に暗い影を落としていた。遠くで鳴く烏の声が頭に残る。
「ヨウヤク泣キ止ンダカ。マルデソレデハ人ソノモノダ。答エロ、貴様ハ我ニ忠誠ヲ誓ウ同胞カ?」
女王様が尋ねた。三眼がこちらを優しく見つめ、長い前脚が髪を撫でる。死と再生を繰り返す雄蜂が、慰めようとしているつもりなのか目の前で飛行し、そして力尽きるを繰り返していた。彼もまた、普通ではない存在になっていたようだった。
「分かラなイ。我ハ……我ハ…………」
「蜂デアルトスルナラバ我ニ忠義ヲ示セ。サモナクバ、ドコカニ失セロ」
どうすればいいかわからなかった。蜂としての本能。女王様への愛着心。人としての記憶。郷愁の念。決断が付かなかった。周囲をきょろきょろと見回しても、縋れる相手は女王様のみだった。
「我ハ……蜂だ。少シ動揺しタだケだ」
「ソウカ。ナラバ命ジル。我々ガコノヨウナ体ト精神ヲ得タ原因ハ白イ石ノ欠片ダ。空カラ降ッテ、割レテイッタ。オソラク人里ニ落チタダロウ。貴様ガ人カ蜂カヲ決断スルニモイイ機会ダ。残リノ石ノ欠片ヲ集メロ。サスレバキット――生命ハ進化スル」
女王様が優しく微笑んでくれた気がした。命令に従う。それは蜂としての本能そのものであり、女王蜂の手足となって働くということは何とも気楽なことだった。頭を撫でてくれたその前脚を握り締めて、忠義を言葉にした。
「必ズやその命令ヲ遂行しマす」
石を集めるのもすべて生存本能だ。我々は強くなった。普通ではない力だ。これを天敵が持てば生命は脅かされるだろう。女王様は聡明だった。
頭を撫でてくれたその前脚を握り締めて、忠義を言葉にした。
考えてもみれば、そんなことを言うのも蜂らしくはなかった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「そうダ。我ハ女王様ノために働ク……。そレでイい」
思い出してきて、安堵した。命令をこなす。邪魔するやつは蜂であったときのように容赦はしない。そもそも人間は好きになれない。きっと女王様を見たら殺そうとするに違いない。生きるためには力がいる。白い石はそれをもたらすことができるはずだ。本能がそう告げていた。
だから匂いを探した。人の臭い。車が出すガスの臭い。砂糖が混じった甘い香り。白い石の臭い。距離は近づいてきていた。
ゴクリと唾を呑んで、眼下に広がる街へと飛び降りた。