蜂は忠誠と自由と愛を唄う その1
【蜂は忠誠と自由と愛を唄う その1】
今、我を取り巻く世界は蜂としてありえないようでもあったし、人としての記憶が懐かしいとも思わせる。誰もいない屋上の手すりに立った。周囲を満たす摩天楼。空を貫かんほどの高さの建物が入り乱れて、白昼の灯りを乱反射して煌めく。空気はひどく汚れているが、それは美しい景色だった。
真下を見下ろす。道路には無数の車が行き来していて、人が蟻みたいにわんさか歩いている。
――――新宿という場所は騒がしい場所だった。こんな場所に来るのは初めてだった。
「……匂イはもっと向こウ」
声を出してみた。澄んだ幼い少女の声。いまだに自分が自分であることに慣れなかった。それが不安で不安で仕方なくて、なんでこんな場所に来たのかを、どうしてこの身体になったのかを思い出そうと記憶を巡る。けれども思い出せるのは昨日の記憶しかなくて、ただただそこに縋りつく。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
ゆっくりと目を開けて最初に感じた違和感は目を閉じるという機能があることと、違和感を感知する能力があることだった。どうやら寝転がっていたらしい。
視界には住み慣れた森の木々と澄み渡る青空が見えた。――――青色。初めて見る空の色だった。いままで生きてきてこんな色は見たことはない。だが、知っている。それが何かを理解している。何か可笑しなことが起きているようだった。
困惑した。住み慣れた森がまるで別世界のように見えた。色が増えている。視野は狭まったが、目の位置が変わっていた。耳を澄まさずとも聞こえる鳥の声が恐怖に感じない。
そしてふと自分を目にしたとき映ったのは二本の手と、二本の脚だった。残り二本はどこに消えた? いや、そもそも形が大きく異なっている。そう、まるで人間のような――――。
「なんダこれは……どうなってるのダ……? ヒャ!? ダ、誰ダ!? いや、我か!? 我の声なのか!?」
声が出せた。なんともしおらしい少女の声だった。そんなことはいままでなかった。いや、声という概念さえもたった今生まれたと言っていい。――何がどうなっている? 分からない。怖い。怖い。
ゆっくりと立ち上がった。生まれて初めて二本足で立ち上がった。この体は何百倍もの大きさになっていた。巨大だった草も今は足で踏み潰せる。何日分もの食料になった芋虫も、いまや一口サイズだった。
「顎……もなイ。いや、これがあごなのか? なんだ、我ハどうなってイる!?」
そうだ。近くにまだ水溜りができていたはずだ。すぐに確認しようと思った。羽根を動かそうとして、しかしその部位が無いことに気づいた。
「羽根が……!!」
が、そう呟いた途端、この体は空を舞っていた。羽根を動かす聞き慣れた音が耳に入って、どうなっているかを確認した。いままであったはずの四枚のそれは確かに無くなっていた。しかし代わりと言わんばかりに、羽を模した銀色の四角形が宙に浮かんでいた。自分の意思で動かせた。
――――楽しい。そんなことを思ったのは初めてだった。この体は大きくて、天敵もいない。すごい。素晴らしいものだ。
「す、凄イ……!」
目的地の水溜りに着くのも一瞬だった。すっと華麗に地面に足をつけると、自然と模様はどこかに消えていた。草と土の間に出来た大きな水溜り。それは空と共にこの体を映し出してくれた。
「これが……我ナのか? もはや、原型も……!」
ふわりと揺れる警戒色をした黒と山吹色の髪。長かった。腰の少し上程度にまで伸びていた。花のいい匂いがする。触ってみるとさらさらとしていて、髪というものがこんなに心地よいものなのだと思わされる。でも触覚も残っていた。頭からぴょっこりと生えている。風の向き、匂いはそこからも感知できた。
双眸は黒かった。やや顔立ちが幼い気もするがそれでも整っていて、凛としていた。完全に人の体になっていた。性別が変わらなかったのは幸いか。きめ細かな肌にすらりとした体。どうしてか頭のなかにある僅かな人間の知識を照らし合わせるに、世に言う美少女であると思った。
しかしおかしい。彼らは皆何層もの皮を着ていたはずだが、この体は肌一枚だけだった。何も隠れておらず、少しだけ膨らんでいる胸部はおろか、下腹部さえもすべてが露わになっている。水面に映る自分の生殖器を見ていると、恥ずかしいなどという奇妙な気分を抱いてしまった。
無償に隠したい衝動に襲われて、咄嗟に手で覆った。しかしそれでも隠し切れなくて、恥ずかしくて仕方が無くてしゃがみこんだ。足で隠して顔を俯けて、身を縮めた。なんでこんな状態で空を飛んだのだ。数秒前の自分を殴ってしまいたかった。
このままでは動けない。そう、名称が正しければ衣服だ。衣服が欲しい。どんなものでもいい。じゃないと、歩けそうにない。
「ウぅ……誰か」
自然と涙が浮かんだが辺りを見渡した。そのおかげで、自分が倒れていた場所に衣服が落ちていることに気づけた。すぐに取りに向かった。その衣服はやや土に汚れていたがまず問題なく着ることができそうだった。
白いスニーカー。黒いタイツにショートパンツ。白いシャツにオレンジと黒のジャケット。それに下着。衣服の名前はぼんやりと覚えていた。いままで生きてきて初めて見る色もあったが、その記憶さえもぼんやりとあった。着るのも自然と行えた。よく体に馴染む服で、匂いさえも自分そのものだった。
「我ハ……蜂なノか? 人なノか……?」
答えるものはいなかった。しばしの間呆然と立ち尽くした。青々とした木々が沢山ある場所だった。コナラ、クヌギの木は高く伸びて、枝葉を伸ばしていた。木漏れ日が心地よい。足元で生い茂るフキの葉。雨露が脚に触れるとひんやりとして気持ちがいい。それに狂ったように生い茂るヤブガラシ。あの花の蜜はよく女王様が喜んでくれた。
「……そうダ。女王様ハどこにおられルのだ?」
触覚、そして人間の鼻で巣の匂いを探した。数百メートル先、人里のほうからその臭いはした。嗅いだこともない異臭も混じっていた。すぐに靴を履いて地面を蹴り上げた。跳躍して、一直線に空を飛んだ。風を切り裂いて、黒と金の髪が靡く。一瞬で目的の場所に着いた。
「女王様……。ご無事ですか?」
そう口にしたが、視覚が無事ではないことを伝えていた。否、無事なのかもしれないが、尋常ではない事態が起きていることは理解できた。ただの働き蜂でしかなかったはずの体が精神がこうして異常な心身を手にしたように、女王もまた、異形の体に成り果てていた。
人の二倍はあろう巨大な甲殻。黄と黒の警戒色だった。おぞましい巨大な黒顎が太陽光を反射して、燃えるような赤い三眼がこちらを睥睨していた。ブブブと……不快な羽音を折れ曲がった羽が鳴らす。
蜂でありながら、その胴体は巣と同化していた。いくつもの穴が開いており、そこからはたえまなく蜜と弱々しい雄蜂が飛び交っては死にを繰り返していた。