新宿デート野郎は蜂と宇宙人と手を繋ぐ その11
黒髪が頬を撫でて、仁は鬱陶しそうに目を開けた。目の前には招き猫のお面を被った女性がいた。
「おはようございますぅ。とにかく毒抜きをしてあげますからぁ、ちょ~っと動かないでくださぃ。まずこれを飲んでくださぃ」
「……なんの薬だ?」
それは何かの錠剤だった。尋ねて、口を硬く閉じたが、彼女は口に指を押し付けて無理矢理飲み込ませてきた。柔らかな指先が唇を撫でる。その仕草は色っぽく、心のなかの自分は完全に参っていた。
「痛み止めですぅ。人間共のより全然高性能ですぅ。本番はこれからですよぉ?」
嫌な予感が過ぎった。彼女はつけていたお面をずらすと、口だけを露わにした。妖艶な薄紅色の唇。すらりとした輪郭。そして彼女はそっと傷口に顔を寄せると、そのまま力強く口をつけた。
――――なっ!? キス? 俺はキスされたのか? なんでこのタイミングで!? しかも痛み止めと毒のせいでまったく感覚が分からねえ。最悪だ。
最悪なのはこっちだった。なんでそんなあほ丸出しな自分の愚痴を聞かなきゃならないんだ。お願いだから黙っててくれ。晴天の工事現場のど真ん中。名前も知らない女に意味の分からないキスをされて何がいいんだ。
「ふふん♪ 動揺してますぅ? けど不思議ですねぇ。今の君の心には二人もいますよぉ? まぁ楽しいからいいですぅ」
彼女は血塗れた口で微笑を浮かべると、再び口をつけて、さらには血を吸い出し始めた。麻痺した触覚もさすがにこそばゆいような感覚がした。びくりと心の奥底を掻き乱される感覚。
「やめろ。なにするんだ。そうやって無駄に色っぽいことをして動揺させようとしても無駄だ。俺は慌てない」
『とんだ淫乱女ですね。仁様、お気をつけ下さい。現在彼女の所有する電子端末を解析していますがどの国も生産すらしておりません。国籍も不明。明らかにこの女は異質です』
――――異質。普通じゃない。分かっている。この女は蜂女以上に底が知れなくて、おぞましさが背筋を強張らせる。
けれど彼女はそんなこと知った様子もなく、満足げに傷口をペロリと舐めて、口回りについた血を拭うとにこやかな笑みを浮かべた。
「毒は抜けましたよぉ? 病院を中心に暴れていた鮫についても解決しましたしぃ。これで君はお家に帰れますぅ」
言われて立ち上がってみると、確かにもう視界の霞みも頭痛も、もろもろが解消されていた。残ったのは手を貫かれた傷跡ぐらいで、それもどうしてか血は止まっていた。
「安心してくださぃ。鮫に食べられた人はもう皆目を覚ましていってますぅ。君が助けてくれたルカちゃんもおかげで無事ですよぉ」
ルカというらしい軍人は、気づけばすぐ真後ろに立っていた。まだ警戒されているのか彼は腰に手を当てたままだったものの、深く頭を下げて礼をした。凛々しい翡翠の双眸がこちらを捉える。幼い顔立ちに厳格過ぎる態度はいささか似合わなかった。
「……礼を言うときは土下座のほうがいいのか? とにかく助かった。本当にありがとう。僕はルカ……いや、ルーカス・フォン・フロイデンベルクだ。君の名前は?」
「麻真仁だ。……それで俺はもう帰っていいか? こんなこと巻き込まれたくて巻き込まれたんじゃないんだ」
多分無理だろうなと思いつつ素っ気ない対応をして踵を返す。止められなければどっかで全力ダッシュしてその場から離れる覚悟だった。だがまぁ、案の定肩に手を置かれ止められた。振り返ると、ルーカスがいかにも真剣な表情をしてこちらを睨んでいた。
「待て。感謝はしているが我々も仕事なので――――」
「まぁまぁルカちゃん。待つのはあなたもですぅ。仁君、とりあえずこれは私達の想いですからぁ、受け取って欲しいですぅ」
すっと目の前に差し出されたのは一万円の札束だった。怪しい。受け取りたくない。そもそも金に困っていない。仁は苦い顔をしてお面を見つめ返した。
「……このことは内密にしろ的なことか? けど被害者が多すぎるだろ。隠し通せるとは思えないな」
「違いますよぉ。医療費ですぅ。まぁ情報は内密にというのはぁ、あなたの持ってるスマホちゃんに約束してほしいですけどぉ」
『ワタシは仁様のために動きます。仁様が晒せといえば情報を全て晒しますよ。その逆もしかりです』
「なら仁君に頼むしかないですぅ。……にしても暑いですぅ」
彼女はニヤリと蟲惑的な笑みを浮かべると、Yシャツのボタンをひとつ、二つほど外した。札束を扇のようにして扇ぎながらグルグルと仁の周りを意味もなく歩いて、それから強引に肩を組んできた。胸が押し当てられる。
――柔っ! 髪からシャンプーの匂いがっ! ……いや、暑苦しいだけじゃあないか。胸なんて脂肪の塊だ。どうして慌てる必要がある。
――ああ、お前海老はゴキブリの翅だとか言うタイプか。……何が悪い。
「ふふふん……♪ 挙動不審な反応がぁ見られないのは残念ですがぁこれはこれで面白い反応ですぅ」
嘲笑。そしてそのまま両手で腹部やらをまさぐってきて、懐に札束を押し込むと耳元で囁くのだ。
「……バラしたら世界を敵にするですよぉ?」
「分かった。バラすメリットがそもそも俺にはない。ただもしこれ以上俺になにかするなら話は別かもしれない。だから離れろ。喧しくて頭がどうにかなりそうだ」
仁が威圧的に振り払うと、彼女はもったいなさそうに嫌々と距離を取った。けど何かを思い出したかのようにくるりと身をひるがえすとこちらにまた歩み寄った。
「それとぉ、もし仁君の家の近くにぃ白い石があったら連絡してほしいですぅ。放置してると鮫みたいに面倒事が起きるですぅからぁ、それにぃ謝礼もしちゃいますよぉ?」
ぎゅっと腕を抱きしめられる。いい加減この人の挑発もうんざりだった。慣れろと言ってやりたいが、心のなかはそうも冷静にはなってくれないらしい。仁はうんざりしながらもう一度引き剥がして、蹴り飛ばされて遠くに落ちていたスマホを取るついでに距離をおいた。
「分かった。わかったから。連絡すればいいんだろう? もう帰るからな。文句はあるか?」
「ないですぅ」
お面の下から満面の笑みを浮かべて彼女は即答した。仁が逃げるようにその場から離れていくと、スマホの画面が点滅し出した。それから小さくバイブレーション。
『申し訳ございません。電池残量が30%を切ったためワタシの能力を解除致します』
次の瞬間、冷静だった自分がどこかへ押し込まれた。ぐわりと視界が揺れる。思い出したかのように全身を筋肉痛が苛んでいく。例えるなら脚を釣る直前の痛みが腹筋にまで広がっていくような、そんな最悪な感覚だった。
「がぁ……! なんだこれ…………! というか俺はなんでずっと機械みたいな……! ああ、あいつ本当うざいな。胸が脂肪理論本当大嫌いなんだよ……!」
思い出すだけでさっきまでの自分に腹が立ってくる。でもこれでようやく自由になった。ずっとスマホのなかに閉じ込められてた気分だ。おかげでめちゃくちゃ疲れた。帰って、寝よう。そう思って、けどすぐに電車が止まっていることを思い出して憂鬱になる。
「……徒歩だと一時間ぐらいか」




