新宿デート野郎は蜂と宇宙人と手を繋ぐ その7
蜘蛛の子を散らすように、とにかくその鮫の怪物から離れようと皆、走り出していく。パニックは伝染するように至るところで悲鳴があがり、動かない車が詰まっていく。街は一瞬にして機能不全に陥っていた。
「君、とにかくここを離れよう!」
……新宿を離れたほうがいいってこういうことだったんだ。あの人はこの尋常じゃない事態を分かっていた。
とにかくここを離れたい一心で少女の手を寄せようとした。しかし毅然として棒立ちしていた彼女に逆に引っ張られ、そのままバランスを崩して前のめりに飛び込んだ。
転倒しかけた仁を、少女は抱えるように防いだ。むにって感じの擬音。少女の柔らかく小さな胸の感触が頬を撫でる。耳から直に鼓動が響く。見上げると、彼女は目を丸くして首を傾げていた。
「いや、わざとじゃ――」
「あト一秒そウしていロ」
直後、嫌なくらいの水の音。ついさっきまで立っていた場所から鮫が飛び上がって、近くにいた人をまた丸呑みにして地中へと潜っていった。
「た、助かった……!」
「人ヲ食うト増えテる。我々と同ジ白イ石の力……行かなくテは」
少女は訳のわからないことを言って触覚をピクピクと揺らすと、疾風を纏い背中から翅にも似た銀色の模様を宙に描いた。虫の羽音がさざめく。
もう誰がどれだけ常識外れの理解外でも仰々しい反応なんか無理だ。お面の人も、この少女も、鮫も、何もかもが尋常じゃなかった。感覚がラリってきてる。
「クレープ。あリがとウ」
少女は小さな声で礼を言った。名前も知らない今さっき会ったばかりなのに、その儚い笑顔がどうしようもなく焦燥感を渦巻かせる。翅が振動し、突風が周囲に渦巻いた。ふわりと、彼女の体が浮いた。そのままゆっくりと高度を上げていく。
「待て! 白い石って何なんだ!? 我々って誰の事なんだ! なんで空を飛べるんだ!?」
仁は腹の底から声を荒らげて、全力で地面を蹴り上げた。跳躍し、手を伸ばして、飛び去ろうとする少女の手を掴む。高度がガクンと落ちた。
「我ノ邪魔をスるな」
彼女は憤慨を露わにして、振り落とさんと急上昇した。空を突き破り、立ち並ぶ高層ビルがすぐ隣で通過していく。
――やばい。落とされる。死ぬ! 脳を満たすノルアドレナリン。
風の濁流が全身を叩きつけた。風圧で顔が歪むのを堪え、必死の思いで力を込めた。それでもずるずると少しずつではあるが落ちていく。
「ごめん脚掴むぞ!」
「何を言っテっ!? ひゥ!? 離セ。くすグったイ! 抱きツくナ!」
手を掴み続けるのが限界を達して、落下する瞬間に少女の脚に抱き着いた。柔らかく、すべすべの肌。けど今ばかりは堪能する余裕なんてない。
彼女は妙に色っぽい声を上げたが、容赦なくぶんぶんと脚を振って、なんなら何度も蹴りを放った。ガスガスと空に音が響き渡る。
そして飛行パフォーマンスのごとく旋回。回転も加えて遠心力と重力で引き剥がそうとしてきた。だが火事場の馬鹿力が上回った。命が掛かっているので絶対離せなかった。
彼女は振り払うのを諦めたのか、悪意のある飛行をやめて、その速度を弱めた。全身が受ける風も弱まって、仁は少女の艶やかな脚にしがみついたまま一息ついた。
「いや、こんなことをするつもりはなかったんだよ。本当ごめん。けどどうやって空を飛んでるんだ? あの鮫の怪物についても何か知ってるのか? なぁ、俺の匂いってなんのことなんだ」
「白イ、空かラ落ちテきた石が我々に力ヲ授けタ。貴様モ授かってイる。石と同ジ匂いがスる」
そんなファンタジーみたいな――――だなんて笑えればどれだけよかったか。けど事実として空を飛んでいるし、鮫が新宿で暴れまわってる。彼女が嘘をついてる様子もなければ、あのお面の人も隕石が云々と言ってた記憶もある。
仁はなんとなく足元を眺めた。逃げ惑う人々がゴミのようで、パッと見ただけで数百もの人がぷかぷかと水死体みたいに浮かんでた。食われた人の数だけ鮫の怪物もいた。
もう地面に隠れるのもやめて当たり前のように宙を泳いでるやつもいる。でも空から見れば実に小さなものだった。渚の音もいまや遥か下だった。
「プルルルルルル――!」
「ぴにゃあああああああああアッ!? 敵か? 何ノ音!? 我の脚に変なノがっ!」
ズボンのポケットに入れていたスマホが突然のバイブレーション。空に着信音が鳴り渡って、少女がそれに驚いて掻き消す勢いで可愛らしい悲鳴を上げた。相当動揺したのか不安定な軌道をとって、少女の体がふらつく。それ以上に仁は振り落とされそうになる。
「落ち着け! 電話が鳴っただけだ! 今止めるからまっすぐ飛ぶかホバリングしてくれないか!? 落ちたら俺は死ぬ!」
「早ク、止めロ!!」
ポケットから取り出したいが片手を離す余裕だってない。スマホに着信が入って死亡なんて死んでも嫌だ。けどまともに動かせるのなんて口ぐらいだった。響き続けるバイブレーションのたびに少女は脚をばたつかせるわ、色の混じった声を出すわでめちゃくちゃだった。
「くそ、早く着信止まれ……! なんで電池切れのはずなのに、このポンコツスマホがッ!」
『誰がポンコツですかスケベ野郎』
どこかから響く無機質な声。少女のものでも、まして自分の声でもない。仁は困惑しきった眼差しでポケットに耳と目を傾けたが、もうその声はなく着信音が鳴り続けるだけだった。
「え、今の誰の声?」
『ただいま電話に出ることができません。ピーという発信音のあと、メッセージをどうぞ。……ピー。じ、仁? わ、私……優衣だけど、その大変なんです……! じ、仁の家が、家が大変で……その、あの、私のせいで、ごめんなさい!』
留守番電話。相手は優衣だった。家が大変――ああ、嫌な予感しかしない。けどこちとら家に帰れるかもわからない。暴れていた少女はバイブレーションが収まると飛行速度を抑え、荒ぶっていた飛行軌道をゆっくりと落ち着かせていった。
「い、生きてる……」
「ようヤく収まッた……」
二人で安堵のため息をついたのもつかの間、
『しかし仁様。面白いことになっておりますね』
「ッ――――――!!」
振動するスマートフォン。絶対こいつが喋った。そしてその所為で、少女がびくりと体を大きく思うと、そのままよろけて近くにあった高層ビルの窓に全身を投じた。ド派手な衝撃を響かせて散らばる窓ガラス。突き破って、一緒に床に転がり込んだ。




