新宿デート野郎は蜂と宇宙人と手を繋ぐ その6
「……クレープ割引券使って帰るか」
狂乱の時間が過ぎ去ったあとに残るのは虚無感。もうYシャツ越しの柔らかな感触だって遠くに色褪せていく。本当にデートだったらここに満足感とか愛おしさとかが加わるのか。
いやいや、あれだってデートだし、名前も結局知らないけど。……にしても結局あの人は一体どこのだれでどんな人なんだろうか。
仁はちらりとイタリアンを一瞥した。あの口が軽そうなシェフなら適当に会話のドッヂボールをしてたら顔面アウト級の秘密を教えてくれそうな気もする。
「……いや、あれと関わるのは嫌だわ」
どれくらい嫌ってもう虫唾が全力疾走。だから秘密よりも嫌悪を選んで、バグり気味な馬鹿の街新宿を歩き続けた。遠くも近くもないどこかからする海の香りと静かな波音。嵐の前の静けさのような気がしてならない。
それでも街は気にする様子もなく人だらけで、昼食の後行く予定だった小さいがいつも人が並んでいるクレープ屋も通常勤務。狭い路地を抜けた広場にその店はあって、周囲を生地を焼く甘い匂いで満たしていた。鼻がくすぐられる。
「本当はここで……はぁ。いやいや、別にあれ練習だから。デートじゃないから」
言い聞かせるけど、なんだかやはりもったいない気がしてならない。いっそいますぐ電話をしようか。あの人の声が頭のなかでずっと残って麻薬みたいにジリジリ理性が焦がされる。
いや、でも何かが起きたみたいだからこうしてボッチにされたわけで、今は出てくれないかもしれない。それにすぐ電話をかけるのはどうなんだ? うざい粘着質だと思われるんじゃないか?
……いろいろ考えてみるも、結局いい案はなかったので、仁は小腹を埋めて帰ろうと結論に至った。そもそも優衣と来週デートなんだ。そうだ、そのためにこうしてあのお面の人といたんだから、もうミッションクリア。オッケー。問題なし。
もういっそ清々しいくらいに列に並ぼうとして、奇妙な少女が目に止まった。
店のすぐ横で警戒色みたいな山吹色と黒の混じった奇妙な長い髪の少女が羨ましそうにクレープを睨み続けていた。頭についている触覚のような何かがぴくぴくと自然な動きをしている。なかなかにファンシーな光景だった。
派手な黄と黒のジャケットを羽織っているのもそうだが、なにより奇異な髪色のせいでか皆避けていた。そのたびに黒い眼で寂しそうにジッと彼らを睨んでいるものだから、とてつもなく庇護欲を駆り立てられる。
スッと整った顔つきにふわりと森と花のような匂い。なにより可愛かった。……別にナンパをしようってわけじゃない。ただ何か困っていそうだったし、少し声をかけるだけ。別にいかがわしいことなんてない。
「ええと……あー、いや、ナンパとかじゃないから安心してほしい。ええと、その、金ないのか?」
きょどった。噛み噛みなうえに何だか目を合わせて会話をするのが恥ずかしくて、顔が熱っぽい。
けど話しかけると少女は俊敏な動きで距離を置いた。まるで野生の動物か何かだった。それから無垢な黒い双眸がこちらを見上げる。
「……空腹感。こんナに辛イと思わなかっタ」
透明な声。鈴みたいでついゴクリと唾を呑んだ。同時になる少女から響く腹の虫。
彼女自身驚いていてビクリと触覚と肩を震わせていた。それでも買わずに唾を何度も飲み込んでじろじろ見てくるのだから、買えないのだろう。
「……割引あるし、1つ買おうか? 味に希望があったら――――」
「チョコバナナクレープ……!」
かなりの食い気味だった。少女は期待に目を少しばかり輝かせて、その幼い顔をグイと近付けてきた。花を刺激する蜜の香り。落ち着け落ち着け落ち着け!! さっきデートして慣れた。そう、もうダンディなエスカレーターに一歩か二歩歩みを進め……無理だッ!
仁は爆動する心臓を手で押さえて大慌てでたじろいだ。わなわなと口が震える。あ、あのお面の人とは違う。この子に異性とかそういう目で見られてない。距離感がおかしい。
「わわ、わかかった。チョコクレープ味バナナだな? 買ってくる」
……なんだろうか。あのお面の人に近い何かを感じる。とても似ている。そう、何か異様なのだ。多分、普通の人ならあんなにきょどった男に声を掛けられたらキモがって逃げる。
けれどこの少女は苦笑いを浮かべたりするどころか、それこそ子供のように目を輝かせてくれていた。悪い気はしない。
「おォ……」
零れる感嘆の声。半開きになった口は栗みたいだった。手渡すと、小動物みたいに何度もこちらの顔とクレープを交互に凝視していた。
そして艶やかな息遣いをしながら、ゆっくりと舌を伸ばして、恐る恐る舐めた。震える口。……しかし次の瞬間、首でも掻っ切るかのように食らいついた。咀嚼して、頭の触覚みたいな何かが歓喜に震えていた。なんだか人とは思えない。
「喉詰まるぞ。平気か?」
「我ハ平気だ。ありがトう。よもヤ飢餓が原因デ女王様の命令ヲ成し遂げらレなくなるトころだっタ……」
我に女王様と来たか。まぁまず普通では使わないような言葉だった。この人も変な人だ。まぁ、見ていて癒されるしなんでもいいか。
……だなんて思いつつも、彼女が喜々としてクレープを頬張るところを見ていると照れが体を泳いで、直視はできなかった。ダメだ。彼女のことは気になるし、あわよくばなんて思って餌付けしたけどやっぱり無理だ。
仁は深く息を吸い、そして吐いた。脱力して、一人首を横に振った。邪なことを考えてたのは自分一人。なんだかとても自分が糞野郎に見える。
それに、そもそもこっちから知らない女の子にいろいろ話すときなにを話せばいいのかまるで分らない。考えれば考えるほど頭が真っ白になった。逃げよう。い、いや、帰るだけだ。そうさ、そもそもクレープを食べたら帰るつもりだったんだ。デートも中止になったし。
開き直ってもともとこれからすぐ帰るつもりなんだと思い込むと、なんともまぁ余裕綽々。仁は飄々とした笑みを浮かべて踵を返した。
「じゃあ、俺すぐ帰れって言われてるから。じゃあね。今度は財布忘れないようにな」
「待テ。……匂イがすル」
肩に手を置かれ止められた。――匂い。また匂いときた。仕方なく振り返ると目の前に少女の顔があった。彼女には羞恥心がないのか分からないが、くんくんと鼻と触覚が動き首筋辺りの臭いを容赦なく嗅がれた。淡い吐息、それに髪の毛が耳に触れてこそばゆい。
彼女は顔色一つ変えなかった。ジッと見上げるように睨まれていた。耳まで赤くして視線を逸らしているのは自分だけだった。――心臓が、破裂しそう。
そもそもなんで今日だけこんなに匂いを嗅がれるんだ? 女の人に。臭い? 臭いのか? いやいや、でもそんな反応じゃなかったし、……モテる男の匂い? 仁は表情筋も硬直させた。飄々とした笑顔で内心パニックだった。
「やっパり貴方かラ臭いがする」
その発言の直後、すぐ足元でチャポン――と、不自然な水音が響いた。幻聴ではなかった。反射的に視線を向けたとき、彼女は酷く警戒してその場から距離を置いた。それは一瞬のことで、瞬きをしたときには何メートルも離れていた。
不自然な強風が真横を過ぎる。風を切り裂くような音。だがそれよりも意識をあつめたのは赤茶色の煉瓦とアスファルトの道をゆらゆらと進む鮫の背びれだった。
鼻が歪むような潮の臭さと薬品臭。どこかから聞こえていた波音は段々と荒々しくなっていく。多くの人がヒレを見ていた。誰もなんとも思っちゃいなかった。仁とその少女だけが危機感を抱いて膝を曲げた。
直後、――鳴り渡る荒々しい水飛沫。それは鮫に似た巨大な怪物が地面から飛び出したときの音だった。車ほどの巨躯が突然姿を露わにしたかと思うと近くを通った女子高生を丸呑みにして、忽然と姿を消した。……静かな水音。地面からだった。
人々の話し声やらで騒々しかったのが一瞬で静寂に呑まれた。……環境音が酷く耳障りだった。
「ユキピッピ!? え、なに今の……えっ?」
丸呑みにされた人と一緒にいた彼氏らしき高校生がナウい言葉を走らせながらも、冷や汗を掻いて焦燥していた。
数十秒ほどすると、鉄臭さと共に赤い血が地中からゆらゆらと漂ってきた。それは水に溶けたような動きをとりながら、胸ほどの高さにまであがっていくとゆっくりと空気に混ざるように広がっていく。異様な光景だった。
『ザザー……ズ――――ザザー』
誰かが持っていたスマホからノイズと波の音がした。遅れて、それは拡散するように皆の電子機器から響き始める。近くに停まっていた求人広告のトラックも陽気な音楽ではなく泡と渚に打ちつける波を響かせている。
「おい。車が動かないぞ」
そのトラックの運転手が誰かに言った。他の車も交差点のど真ん中や横断歩道で往生して、エンジンが掛かりきらないのか動かなくなっているようだった。
――――やばい。普通じゃない。おかしい。本能が訴えて、仁は後ずさりながらあの奇妙な少女の手を掴んだ。無意識の行動だった。
「ユキミ……?」
地面の底から、丸呑みにされた女子高生がゆっくりと浮かび上がって、水死体みたいにうなだれた様子で宙にまで浮かび上がった。
彼氏の男が余裕のない呼びかけをしたが返事はなく、閉じてしまった瞳から血の涙を流すだけだった。
男は追うように血を見つめた。やがてその血から深海魚のような目玉が一つ……二つと浮かび始めていく。
「……我ラと同じダ。白イ石……なンて力だ」
血の渦から黒い粒子がふつふつと湧いては消えを繰り返しながら、あの怪物をゆっくりと形作っていく。――――八つの蛍光する眼球。
ざらついて、皺が深く刻まれた青い外皮がヒレや胴を形成していき、やがて二重に重なったアギトが作られた。
人をたやすく呑めるほどの大きさのそれは、鋭利な牙を喉奥まで生やしていくと、晴天の光で鈍く白牙を煌かせていていた。
「逃げろッ!」
咄嗟にその高校生に向けて声をあげた。同時、鮫の怪物が歪な瞳の残光を宙に描いたかと思うと、その男が食われて、地中へと消えた。
そしてまた、水に溶けたような血の渦が浮かんだとき、そこでようやく見ていた全員がパニックになって悲鳴をあげた。




